第68話 泥塗れの降伏と、真なる覇王の姿
釜田峡谷の谷底は、もはやこの世の景色とは思えぬほどの凄惨な地獄絵図と化していた。
東国が誇った八万の大軍は、逃げ場のない泥濘の中で完全に瓦解した。上流からの鉄砲水によって足場を奪われ、崖上からの岩と火矢の雨にすり潰され、出口を塞ぐ無慈悲な槍衾に貫かれ、水上を駆ける海狗衆の網に絡め取られた。
数時間前まで銀色に輝いていた無数の槍は泥の中に沈み、東国の威信を示す絢爛な旗印は、血と泥に塗れて誰の足元で踏みにじられているかも分からない。
「……おお……なんという……」
生き残ったわずかな東国の将兵たちが、泥の中で折り重なるようにしてうめき声を上げる中。
その中心で、覇侯トクナガは自らの豪奢な黄金の甲冑を鉛のように重く感じながら、泥水の中に膝を突いていた。
彼の周囲を守っていた精鋭の近衛兵たちは、ゴウの鉄砕棒によって文字通り肉塊に変えられ、あるいはレンの十文字槍に喉を貫かれて、すでに事切れている。
老獪な狸として乱世を泳ぎ回り、常に他者の背後を突き、安全な場所から利益をかすめ取ってきた男が、生涯で初めて「完全に退路を断たれた死地」に立たされていた。
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
絶望に沈む谷底に、泥を力強く踏みしめる足音が響き渡った。
トクナガが震える顔を上げると、そこには逆光を背に受けた数人の影が、死体の山を踏み越えてこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
先頭を歩くのは、漆黒の外套を泥で汚しながらも、一切の隙を見せずに歩みを進める男。
旭州覇王、ジンであった。
その後ろには、返り血で全身を赤黒く染めた巨漢のゴウ、氷のように冷たい視線を崩さないガク、そして獲物を狩り終えた猟犬のように笑うレンが従っている。
「……俺の庭の泥の味は、どうだった? 東国の狸親父」
ジンは、トクナガから数歩離れた位置で立ち止まり、野犬の牙を剥き出しにしたような冷酷な笑みを浮かべて見下ろした。
「ジ……ジン……」
トクナガの喉から、かすれた音が漏れる。
彼がジンを間近で見るのは、これが初めてであった。
(……これが、泥から湧いたという薬草売りか?)
トクナガは、目の前に立つ青年の姿に、本能的な恐怖で全身の毛穴が粟立つのを感じた。
噂に聞いていた「身の程知らずの小悪党」でも、「運良く城を手に入れた野犬」でもない。
ジンの身から放たれるのは、かつての覇侯ソウガが持っていた、他者を物理的に圧殺するような圧倒的な暴力の気配。そして、筆頭家老メイカクが持っていた、冷徹で計算し尽くされた理性の光。
さらに、それら旧時代の怪物たちにはなかった、泥の底から這い上がってきた者特有の「生き汚く、そして強靭な生命力」が、一つに融合して完成されていた。
トクナガは、骨の髄まで思い知らされた。
自分は、ただ運の良い若造の背後を突いたつもりだった。しかし実際は、最初からジンという底知れぬ深謀遠慮を巡らせる「真の覇王」の手のひらの上で、滑稽な踊りを踊らされていただけなのだ。
偽の情報、心理を突いた誘導、そして完璧な地形の掌握。
自分がこれまで得意としてきた盤外の謀略戦においてすら、ジンとその後ろにいる悪魔のような軍師の前に、赤子同然にひねり潰されたのである。
「親父、こいつが東国の大将だろ? 俺がこの鉄砕棒で、そのタヌキの頭をスイカみたいに叩き割ってやるよ」
ゴウが、トクナガの頭上に影を落とすほどの至近距離に立ち、血塗られた巨大な武器をゆっくりと振り上げた。
「ひっ……!」
トクナガは、死の恐怖に顔を歪ませ、泥の中で無様に後ずさった。
黄金の兜が頭から滑り落ち、白髪交じりの頭が醜く泥にまみれる。
「待て、ゴウ」
ジンが、静かな声でそれを制した。
「親父? 何言ってんだ、こいつは和睦の条約を破って、俺たちの背中を刺そうとしたクソ野郎だぜ? 生かしておく理由なんか一つもねえだろ!」
「……ああ、そうだ。こいつは約束を破る食えない狸だ。だがな、東国八万の兵をここまで綺麗にすり潰したんだ。大将の首まで取っちまえば、東国の領地は統治者を失って大混乱になる。……それは、俺の創る『旭州の秩序』にとっちゃ、少々都合が悪い」
ジンは、腰の長剣を引き抜き、その鋭い切っ先をトクナガの鼻先に突きつけた。
「おい、トクナガ。お前は東国の領地を、それなりに豊かに治めてきたそうだな。金勘定と内政の腕だけは、確かなものを持っていると聞くぜ」
「……あ、ああ。東国は……我が東国は、豊かな米どころであり、商いの道も整備されておる……」
トクナガは、剣先に怯えながらも必死に言葉を紡いだ。
「なら、二つに一つだ」
ジンの目が、一切の感情を排した冷酷な捕食者のそれへと変わった。
「今ここで、その無駄に重そうな黄金の鎧ごと、ゴウの鉄砕棒で肉塊に変わるか。……それとも、その薄汚いプライドを全部泥の中に捨てて、東国の領地、財産、残った兵力、そしてお前自身の命のすべてを、俺の旭州に差し出すか。選べ」
それは、交渉ですらない。絶対的な力を持った覇王からの、有無を言わさぬ最後通牒であった。
トクナガは、息を呑んだ。
東国の覇侯としての二百年の誇り。他者に頭を下げることなどなかった、天下を狙う者としての野心。
それらが、今、この泥の谷底で完全に終わろうとしている。
(ここで意地を張れば、私は死ぬ。東国は間違いなく旭州に蹂躙され、私の名は歴史から消え去るだろう。……だが、生きてさえいれば)
トクナガは老獪な男である。シュウスイやトウガのような、死に花を咲かせる武人のような美学は持ち合わせていない。彼にとって最も重要なのは、どんなに泥にまみれようとも「生き残ること」であった。
相手が真の覇王であると悟った今、もはや抗うことに意味はない。ならば、最も無様で、最も確実な生き残る道を選ぶことこそが、狸の最後の意地であった。
「……っ!」
トクナガは、自らの手で黄金の甲冑の留め金を外し、重い鎧を泥の中へと脱ぎ捨てた。
そして、粗末な下着姿のまま、ジンの足元に深く、深く平伏したのである。
自らの顔を、血と泥が混じり合う冷たい沼の中に完全に押し付け、東国の覇侯は地の底から絞り出すような声で叫んだ。
「降伏……降伏いたしまするッ!! このトクナガ、愚かにも旭州の巨大なる覇道を見誤り、身の程を知らず刃を向けたこと、万死に値する所業! どうか、どうかこの命ばかりはお助けをッ! 東国の全領土、すべての財宝、そしてこの老いぼれの命すらも、永遠にジン様のものとして捧げまするッ!!」
完全にプライドをかなぐり捨てた、哀れなまでの命乞い。
その光景を見て、レンは鼻で笑い、ガクは興味なさそうに視線を外した。
「……クックック。賢明な判断ですな、狸殿。死んだ武人の誇りより、生き長らえた泥犬の命の方が、この乱世ではよほど重い」
いつの間にか崖の上の陣地から下りてきていたクロウが、車椅子の上で愉快そうに笑い声を上げた。
ジンは、泥に顔を押し付けて震えるトクナガを、静かに見下ろしていた。
かつてのジンであれば、自分を裏切った相手を許すことはなかったかもしれない。しかし、彼はすでに一人の野犬から、天下万民の胃袋と命を背負う旭州の覇王へと脱皮していた。
東国という巨大な領地を無傷で吸収し、その内政のシステムを丸ごと手に入れること。それこそが、旭州という国家を盤石にするための「最大の利益」であることを、ジンは完全に理解していたのだ。
チャキッ。
ジンは、トクナガの鼻先に突きつけていた長剣を、静かに鞘へと収めた。
「……面を上げな、トクナガ」
「は、ははァッ……!」
泥だらけの顔を上げたトクナガの目には、安堵の涙が浮かんでいた。
「勘違いするなよ。お前を許したわけじゃねえ。お前が東国を回すための『便利な歯車』だから、壊さずに使ってやるだけだ。明日からお前は、旭州の東部を管理する一介の官僚だ。少しでも妙な真似をすれば、次はお前の首から下が泥の中に沈むと思え」
「承知……承知いたしましたッ! この命ある限り、旭州の繁栄のために粉骨砕身、身馬の労を尽くしまするッ!」
トクナガは、もはや覇侯の顔ではなく、完全に主人に服従した下僕の顔で何度も泥に額をこすりつけた。
「親父、本当にいいのか? こいつ、絶対また裏切るぞ」
ゴウが不満げに鼻を鳴らす。
「裏切る隙なんか、一ミリも与えねえよ。クロウ、ガク。東国の残存兵力の解体と、旭州軍への再編、そして東国の城の接収の手はずを急げ。このタヌキの監視には、ガクの部下を張り付かせておけ」
「はっ。すでに手配は済ませております」
ガクが短く応えた。
これで、東国の脅威は完全に消え去った。
そればかりか、東国という広大な領地と物資、そしてトクナガという内政の要を吸収したことで、旭州の国力はさらに巨大なものへと膨れ上がったのである。
「よし……」
ジンは、泥だらけの釜田峡谷から顔を上げ、西国の空を越え、はるか北の空へと鋭い視線を向けた。
背後の憂いは、これですべて絶った。
今、旭州の巨大な軍事力と物資のすべてを、一点に集中させることができる。
「待たせたな、トウガ。そして、シュウスイのオッサン」
ジンは、身に纏う覇気をさらに熱く、巨大に膨れ上がらせながら、北の空に向かって呟いた。
「遊びの時間は終わりだ。お前らがすがってる古い時代の幻を、俺が全部、真っ向からぶっ壊しに行ってやる」
天下を完全に二分する、旭州と北国の最終決戦。
東国の老獪な狸を呑み込み、いよいよ盤石の態勢を整えた真なる覇王ジンは、己のすべてを懸けた最大最後の戦場へ向けて、ついにその重く巨大な一歩を踏み出したのである。




