第67話 泥濘の絶望と、完璧なる死の包囲網
轟音。
それ以外のすべての音が、釜田峡谷から消え去っていた。
東国の誇る八万の大軍の行軍を包んでいた威勢の良い足音も、武将たちの号令も、馬のいななきも、今やすべてが巨大な泥流の響きと、断末魔の絶叫に塗り潰されている。
リョウガ率いる海狗衆が上流の堰を破壊したことで解き放たれた鉄砲水は、数十万トンの質量を持った茶色い壁となって峡谷を駆け抜け、東国軍の先陣から中腹までを一瞬にして呑み込んだ。
水自体の威力もさることながら、真の恐怖はその後に訪れた。ジンの予言通り、峡谷の地表を覆っていた土が大量の水を吸い込み、その下にある分厚い粘土層と混ざり合うことで、谷底全体が巨大な「底なし沼」へと変貌したのである。
「足が……足が抜けないッ!」
「助けてくれ! 鎧が重くて沈むッ!!」
東国軍の兵士たちは、重装備であればあるほど、その自重によって泥の底へと引きずり込まれていく。もがけばもがくほど粘土質の泥は彼らの足に絡みつき、やがて腰まで、胸までと容赦なく呑み込んでいった。
陣形も、指揮系統も、軍規も、泥の中では一切の無意味であった。溺れる恐怖から逃れようとする兵士たちは、隣にいる味方の兵士を蹴り落とし、踏み台にしてでも自分だけは這い上がろうとする。そこにあるのは、知性ある人間の軍隊ではなく、ただ泥の中で蠢く醜い蟲の群れであった。
「退け! 後ろへ退けェェェッ!! 後方の入り口から峡谷を脱出するのだ!!」
本陣の崩壊を目の当たりにした覇侯トクナガは、泥にまみれた馬の首にしがみつきながら、血を吐くような声で退却の号令を下した。
先陣は完全に壊滅した。しかし、最後尾の二万の兵ならば、まだ水の手が届ききっていない峡谷の入り口から外へと逃れることができるかもしれない。トクナガの老獪な頭脳は、まだ生存の可能性を必死に計算していた。
しかし、彼らが振り返った先、ただ一つの希望であるはずの峡谷の出口には、すでに絶望の扉が完全に閉ざされていた。
「前列、構え」
泥と血の匂いが立ち込める中、氷のように冷たく、無機質な声が響いた。
旭州の要、ガクである。
彼が指揮する旭州の重装歩兵部隊は、峡谷の出口を完全に封鎖するように、幾重にも重なる分厚い方陣を敷いていた。彼らの足元は泥の被害を受けない絶妙な高所に位置しており、一寸の乱れもない隊列で、長大な槍衾を東国軍に向けて突き出している。
「逃がしてくれ! 頼む、俺たちはもう戦えな――」
「突け」
泥から這い上がり、命からがら出口へと逃げてきた東国の兵士の哀願を、ガクは一切の感情を交えずに切り捨てた。
無数の槍が同時に前へと突き出され、東国兵の体を容赦なく貫く。血飛沫が上がり、死体が泥の中へと転がり落ちる。
「引け。二列目、前へ。……突け」
機械のように正確で、一切の隙がない交代と刺突の反復。
ガクの陣形は、まるで巨大な肉挽き機のように、迫り来る東国兵を次々と肉塊に変えていく。どれほど東国の兵が押し寄せようとも、彼らの陣形は一歩たりとも後ろへ下がることはなかった。
「おのれ! たかが一介の歩兵の壁ごとき、我が剛槍でこじ開けてくれるわ!!」
東国軍の猛将の一人が、泥を跳ね除けながら巨大な槍を振り回し、ガクの陣形へと単騎で突っ込んできた。
しかし、ガクは瞬き一つせず、自らの愛槍である十文字槍を静かに構えた。
「軍規第一項。我が陣形を破る者、一人たりとも生かしては帰さん」
刹那。
ガクの十文字槍が、東国の猛将の突きを紙一重で弾き返し、そのまま流れるような軌道で相手の喉笛を正確に十字に切り裂いた。
噴き出す血の雨を浴びながらも、ガクの表情は一切変わらない。彼はただ、己に与えられた「退路を断つ」という任務を、完璧な秩序の元に遂行する冷徹な死神であった。
退路を完全に断たれた東国軍の上空から、さらなる絶望が降り注ぐ。
「ヒャハハハハッ! そらそらそらァ! 東国の立派なお武家様ども、泥遊びの時間はまだまだこれからだぜェッ!!」
峡谷の両側にそびえる切り立った崖の上から、ゴウが巨大な鉄砕棒を岩盤に叩きつけた。
ドゴォォォォンッ! という轟音と共に、風化していた崖の一部が崩落し、無数の巨岩が東国軍の密集地帯へと降り注ぐ。
直撃を受けた兵士たちは、悲鳴を上げる間もなく兜ごと頭を潰され、泥の中に真っ赤な花を咲かせていく。
「岩だけじゃつまんねえな! 俺も混ぜろやァッ!!」
ゴウは岩石の雨と共に、自らも崖の上から泥の海へと跳躍した。
着地と同時に鉄砕棒を大回転させると、周囲の東国兵の体が、まるで羽虫のように軽々と吹き飛ばされる。甲冑ごと肋骨を粉砕され、内臓を破裂させられた兵士たちが、血と泥の混じった沼へと沈んでいく。
その狂気的な破壊の嵐の反対側では、真紅の甲冑を纏った若武者が、まるで舞い踊るように崖の斜面を滑り降りていた。
「この釜田峡谷は、俺の家みたいなもんでね。お上品なあんたたちには、少しばかり床が滑りすぎるかもしれないが……歓迎するぜ!」
レンである。
彼は峡谷のどの岩が頑丈で、どの足場が崩れるかを、目を瞑っていても分かるほど熟知していた。
レンは泥に足を取られて身動きの取れない東国軍の将校たちを正確に見極め、崩れかけた岩場を蹴って跳躍し、十文字槍の鋭い刺突で次々と指揮官の首を刈り取っていく。
東国軍が必死に槍や弓で反撃しようとしても、レンはすでにその場にはいない。彼は峡谷の地形を己の手足のように使いこなし、敵の死角から死角へと移動しながら、確実に部隊の頭脳を麻痺させていった。
「ゴウ! ただ暴れ回るだけじゃねえ、ちゃんと大将首を狙いな!」
「うるせえ! 俺の鉄砕棒が当たった奴が全員大将だ!!」
戦場を縦横無尽に駆ける旭州の二匹の野獣の前に、東国軍の兵士たちは戦意を完全に喪失し、ただ逃げ惑うことしかできなかった。
しかし、泥の海において、逃げ場所などどこにもない。
水かさを増した峡谷の底には、さらなる恐るべき捕食者が待ち受けていた。
「おうおう、陸の坊ちゃんども。こんな浅瀬で溺れるなんて、海狗衆の名が泣くってもんだぜ!」
泥水が腰の高さまで満ちた峡谷の中心部。
そこを、底の浅い平底の小舟や即席の筏に乗ったリョウガ率いる水軍が、滑るように移動していた。
彼らは普段、荒れ狂う南の海で巨大な海獣を相手にしている海の男たちである。泥水で満たされた峡谷など、彼らにとっては波のない穏やかな生簀のようなものであった。
「そら、大物が釣れたぜ!」
リョウガが手にした銛を力強く投げつけると、泥の中でもがいていた東国の騎馬武者の分厚い甲冑を貫き、そのまま泥の底へと引きずり込んだ。
海狗衆の兵士たちは、東国軍の頭上から巨大な漁網を投げ落とし、数十人をまとめて捕獲しては、水面から突き出た槍で容赦なく止めを刺していく。
重い甲冑は水と泥の中では致命的な重りとなり、東国の兵士たちはリョウガたちの身軽な水上戦闘の前に、抵抗する間もなく泥の底へと消えていった。
ガクの冷徹な鉄壁。
ゴウとレンの圧倒的な暴力と地形殺法。
リョウガの無慈悲な水上蹂躙。
かつてこれほどまでに、一方的で、逃げ場のない殲滅戦があっただろうか。
その地獄の光景を、峡谷を最もよく見渡せる崖の頂から、二人の男が見下ろしていた。
ジンと、クロウである。
車椅子に座るクロウの膝の上には、一枚の古い羊皮紙が広げられていた。
それは、かつて病に倒れた天才軍師、シオンが遺した西国の詳細な地形図であった。
「……見事ですな、シオン殿」
クロウは、死した天才の遺作を撫でながら、悪魔のように微笑んだ。
「この地形図には、釜田峡谷の土壌の成分、水門を破壊した際の水の流入量、そして崩落しやすい岩盤の位置まで、狂気的なまでの精度で計算し尽くされている。……ジン殿が体で覚えた死地の記憶を、シオン殿が完璧な兵法という名の設計図に昇華させていたのです」
「ああ。シオンの奴は、自分が死んだ後のことまで全部見通して、俺にこの戦のやり方を残してくれたんだ。……あいつの頭脳は、今でも俺たちと一緒に戦ってる」
ジンは、眼下で泥に沈んでいく東国軍を見つめながら、静かに言った。
「その完璧な設計図という名の死の舞台に、東国の狸親父を座らせるのが、私の役目というわけです」
クロウは目を細め、その妖しい紫色の瞳を光らせた。
「心理戦による情報操作。人間の疑心暗鬼と、賢さゆえの慢心を突き、自らの意志で地獄の釜の蓋を開けさせる。……シオン殿の遺した絶対的な環境操作と、私の人心掌握術。正道と邪道が完全に融合したこの戦術の前に、いかなる大軍も無力です」
まさに、瞬きする間の壊滅であった。
峡谷の泥の中で、トクナガはすべてを失い、一人呆然と立ち尽くしていた。
自慢の黄金の鎧は泥にまみれて鉛のように重く、周囲にはつい数時間前まで意気揚々と行軍していた八万の家臣たちの、泥に塗れた無数の死体が浮かんでいる。
(……負けた、だと? この私が?)
トクナガの温厚な仮面はすでに剥がれ落ち、そこにあるのは、老いぼれた狸の絶望に歪んだ素顔だけであった。
彼は、ジンがただの野犬から、天下を統べる猛獣になったと警戒していた。
しかし、それは根本的な間違いであったのだ。
ジンは、単に力が強くなったのではない。シオンの残した地形の絶対支配、クロウの悪魔的な謀略、ガクの統率、ゴウの暴力、レンの機動力、リョウガの水上戦闘。そのすべてを完全に掌握し、組み合わせ、敵に一切の選択肢を与えずに圧殺する、「本物の覇王」へと進化していたのである。
「……化け物め。なんという……恐ろしい国を創りおったのだ……」
トクナガが泥の中に膝を突き、その震える両手で顔を覆った時。
彼の頭上、逆光の崖の頂から、天下を統べる男の冷酷な瞳が見下ろしていた。
東国の誇る八万の大軍は、西国の辺境の泥底にて、事実上、完全に消滅した。
後に天下の歴史書に「釜田峡谷の泥濘戦」と記されるこの日、東国の覇侯トクナガは、自らの野心のすべてを泥の中に沈められ、旭州という新興国家の絶対的な力と恐怖を、骨の髄まで思い知らされることとなるのである。




