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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第66話 泥犬の猟場と、悪魔の道標

春の陽光が降り注ぐ西国の大地を、地鳴りのような重低音が覆い尽くしていた。

東国の覇侯トクナガが率いる、総勢八万にも及ぶ大軍勢の行軍である。見渡す限りに続く槍の穂先は、陽光を反射して銀色の海のようにうねり、掲げられた東国の旗印が風にはためいている。

トクナガは、本陣の中央で巨大な輿に揺られながら、手元にある数枚の報告書を満足げな笑みを浮かべて眺めていた。

「……クックック。やはりな。いくら器がデカかろうと、所詮は泥から湧いたばかりの若僧よ。北の鬼神シュウスイが牙を剥いたと知るや否や、完全に頭に血が上りおったわ」

トクナガが握りしめているのは、東国軍の隠密部隊が命懸けで持ち帰ってきた旭州軍の極秘情報であった。

そこには、ジンが金牙城の防衛兵力を最小限にまで削り、全軍を挙げて北の国境へ向けて強行軍を開始したという事実が克明に記されていた。さらに、その情報を裏付けるかのように、東国の先陣部隊が旭州の輜重隊を襲撃し、捕らえた将校を凄惨な拷問にかけた末に吐かせた自白も添えられている。

『ジン様は、シュウスイの軍勢が完全に態勢を立て直す前に、北国との国境付近で早期決戦を挑むおつもりだ……! 西国の背後は、今なら間違いなく手薄だ……頼む、殺してくれ……!』

血と汚物に塗れた将校の悲痛な叫びは、どんな精巧な偽手紙よりも、トクナガの猜疑心を満たすに十分な真実味を持っていた。

老獪なる狸と恐れられる彼にとって、容易く手に入る情報はすべて罠である。しかし、自らの兵を動かし、血を流して奪い取った情報には、疑う余地などないと確信していた。

「殿。いかに好機とはいえ、西国の奥深く、金牙城へと続くこの釜田峡谷のルートを進むのは、少々危険かと存じます」

輿の脇を馬で歩む老将が、懸念の声を上げた。

「この峡谷は両側を切り立った崖に挟まれており、大軍を展開するには不向き。もしも伏兵が潜んでいれば、袋のネズミになりかねません。遠回りをしてでも、開けた平野部を迂回すべきでは」

「愚か者めが」

トクナガは、温厚な仮面の奥にある冷酷な瞳で老将を睨んだ。

「迂回などしていれば、金牙城を落とす前に北国境のジンが引き返してくるわ。戦というものはな、敵が致命的な隙を見せたその一瞬の間に、最大の速度で喉笛を食いちぎるからこそ意味があるのだ。それに、伏兵だと? 旭州の主力が北へ向かっている以上、この西国に残っているのは、城の留守居役の寄せ集め程度。我が八万の大軍を前に、小手先の伏兵など踏み潰して進めばよい」

トクナガは、自らの完璧な推理と決断に酔いしれていた。

彼は決して無謀な男ではない。石橋を叩いて渡る慎重さを持つからこそ、確実な裏付けが取れた今、最大速度で動くことを決断したのだ。

しかし、その裏付けこそが、車椅子に乗った悪魔の頭脳、クロウが周到に用意した恐るべき撒き餌であったことに、この東国の覇侯は全く気づいていなかった。

一方、その頃。

東国軍が目指す釜田峡谷の奥深く、両側を天を衝くような絶壁に挟まれた谷底の死角に、旭州の精鋭たちが音もなく息を潜めていた。

「……クックック。美しい。実に美しいですな」

崖の中腹に設けられた隠し陣地で、クロウは車椅子の上から谷底へと続く一本道を見下ろし、恍惚とした笑みを浮かべていた。

「私の見立て通り、トクナガは自らの慎重さという首輪に、自ら見事に絡みついてくれました。……ただ道を空けておくだけでは、あの狸は決してこの峡谷には入り込まない。しかし、偽の輜重隊をわざと襲わせ、拷問の末に情報を吐かせるという、苦労して手に入れた真実を与えてやれば、賢者ほど自らの推理を絶対に疑わなくなる」

クロウの言う通り、拷問を受けて秘密を漏らした旭州の将校もまた、クロウの心理戦の駒の一つであった。彼には偽の作戦を真実だと信じ込ませた上で、東国軍の襲撃ルートに意図的に配置していたのだ。

自分の兵士の命すら盤上の駒として使い捨てる、冷徹極まりない悪魔の謀略。しかし、その非情な犠牲によって、東国八万の命を完全に死地へと誘い込むことに成功したのである。

「悪趣味なこったぜ、クロウ。味方を騙して拷問にかけさせるなんてな」

陣地の最前線で、岩陰に腰を下ろしていたジンが、呆れたように鼻で笑った。

「すべては、旭州の覇道と、万民の未来のため。最小の犠牲で最大の戦果を挙げるのが、私の軍師としての務めゆえ」

クロウは悪びれる様子もなく、恭しく頭を下げた。

ジンは立ち上がり、崖の下に広がる釜田峡谷の景色を見渡した。

西国の辺境に位置するこの峡谷は、昼間でも薄暗く、じめじめとした湿気が漂っている。一見するとただの細長い谷道だが、ジンにとってここは、決して忘れることのできない原点の一つであった。

「……懐かしい場所だな、ジン」

ジンの背後から歩み寄ってきたのは、真紅の甲冑を纏った若武者、レンであった。

「ああ。俺がまだ最底辺の薬草売りだった頃、少しでも高く売れる薬草を求めて、この険しい崖を毎日這いずり回ってた。お前ら沙那家が縄張りにしてたこの釜田峡谷は、俺にとっても生計を立てるための大事な庭だったからな」

ジンは、崖の壁面に生える名もなき雑草を指先で撫でながら、ニヤリと笑った。

「あの頃の俺は、泥水をすすってでも明日を生き延びるのに必死だった。どこに足を置けば崩れるか、雨が降ればどこが底なし沼になるか……全部この体が覚えてる。……この釜田峡谷はな、東国の綺麗な地図の上じゃ、ただの金牙城への近道にしか見えねえだろう。狸親父も、そう思ってこの道を選んだはずだ。だが、ここはただの道じゃねえ」

ジンの瞳に、野生の獣のような危険な光が宿る。

「この谷の土は、表面こそ乾いて固そうに見えるが、その下は底なしの粘土層だ。少しでも大水が流れ込めば、一瞬にして足の抜けない底なし沼に変わる。おまけに、両側の崖は風化が進んでいて、少し大きな衝撃を与えれば、いとも簡単に大規模な崩落を起こす。……ここは戦場じゃねえ。地形を知らねえ余所者を丸呑みにして食い殺す、巨大な胃袋なんだよ」

ジンが薬草売りとしてこの谷を這いずり回り、何度も死にかけながら体で覚えた、泥臭い地形の知識。それは、机上の空論で兵法を語るトクナガのような武将には、絶対に理解できない生きた死地の真実であった。

「トクナガの野郎は、八万の兵力で俺たちを踏み潰せると思ってる。だが、この峡谷の中じゃあ、兵の数が多いってのは、それだけ逃げ場がなくなるっていう致命的な弱点にしかならねえんだ」

ジンの言葉に呼応するように、崖の上のあちこちから、ゴウ率いる特攻部隊の荒々しい息遣いと、岩を砕く準備を進める物音が微かに響いてくる。

さらに、峡谷の奥、谷を抜けた先の出口付近には、ガクが指揮する旭州が誇る重装歩兵の部隊が、一寸の隙もない鉄壁の陣形を組み、東国軍の退路を完全に塞ぐ準備を終えていた。

そして、峡谷の上流では、水軍の将リョウガが海狗衆を率いて川をせき止め、いつでも鉄砲水という名の大津波を解放する合図を待ち構えている。

「親父。そろそろだぜ」

ゴウが、巨大な鉄砕棒を肩に担ぎながら、崖の縁から顔を出してニヤリと笑った。

ジンの視線の先、峡谷の入り口付近に、ついに東国軍の先陣が姿を現した。

彼らは、伏兵を警戒しながらも、進軍の速度を落とすことなく、ズンズンと谷の奥深くへと入り込んでくる。八万という途方もない数の兵士たちが、細長い峡谷の中に次々と吸い込まれ、まるで巨大な蛇が自ら罠の筒の中へと入り込んでいくような光景であった。

「……いいぞ。もっと来い。もっと奥まで入り込め」

ジンは、獲物を待つ猟師のように、息を殺してその様子をじっと見つめていた。

やがて、東国軍の先陣が峡谷のちょうど中間地点を過ぎ、最後尾の兵士たちが峡谷の入り口に完全に入り切ったその瞬間。

トクナガは輿の中で、ふと奇妙な違和感に気づいた。

「……ん? 風の音が……止んだか?」

峡谷を吹き抜けていた春の風が、不自然なほどピタリと止んだ。

同時に、周囲の崖に巣食っていた無数の鳥たちが、何かに怯えるように一斉に空高く舞い上がり、けたたましい鳴き声を上げながら逃げ去っていく。

「なんだ? 何が起こっている?」

トクナガが輿の窓から顔を出した時、彼の目に、崖のはるか上方に立つ一つの人影が映った。

漆黒の軽装を纏い、片手を高く天に掲げた男。

距離が離れていても、その男から放たれる圧倒的な覇気と、泥臭い野犬のような獰猛な気配は、はっきりと伝わってきた。

「……ジ、ジンだと!? 馬鹿な! 奴は全軍を率いて北へ向かったはず……ッ!?」

トクナガの温厚な顔が、驚愕と恐怖で完全に引きつった。

その瞬間、彼の脳裏で、これまでのすべての完璧な計算がガラガラと音を立てて崩れ去っていくのがわかった。偽の拷問、偽の軍勢の移動跡、すべてが自分をこの谷底へ誘い込むための、精巧で悪魔的な罠であったという残酷な真実に、ついに気づいたのである。

「罠だァァァッ!! 全軍、直ちに退却しろ! 峡谷から出ろォォォッ!!」

狸親父の悲痛な絶叫が谷底に響き渡る。

しかし、その声は八万の大軍の足音と金属音にかき消され、もはや最前線の兵士たちには届かない。細長い峡谷にすし詰め状態となった大軍は、前にも後ろにも進むことができず、完全に身動きが取れなくなっていた。

崖の上で、ジンは掲げていた手を、ゆっくりと、そして力強く振り下ろした。

「ようこそ、俺の庭へ。東国の狸親父」

ジンは、野犬の牙を剥き出しにして、冷酷に笑った。

「狩りの時間だ。一匹残らず、泥の底に沈めてやれ!!」

ヒュルルルルル……ドドォォォォンッ!!!

ジンの合図と共に、釜田峡谷の空高く、開戦を告げる紅い狼煙が打ち上がった。

それを合図に、峡谷の上流から、天地を揺るがすような地鳴りの轟音が響き始める。

リョウガがせき止めていた川の堰が完全に破壊され、数日間にわたって溜め込まれていた膨大な質量の濁流が、逃げ場のない谷底へ向かって、巨大な鉄砲水となって一気に押し寄せてきたのである。

「水だ! 鉄砲水が来るぞォォォッ!!」

「逃げろ! 崖に登れ!!」

東国軍はパニックに陥り、我先にと崖に群がろうとする。

しかし、その崖の上からは、ゴウとレンが率いる特攻部隊が、容赦のない巨岩と丸太、そして火矢の雨を降らせ始めた。

「ハハハハッ! そらそら、東国のお上品な坊ちゃんども! 泥まみれになって踊り狂えやァァッ!!」

ゴウの振るう鉄砕棒が崖の岩盤を乱暴に砕き、無数の鋭い破片が東国の兵士たちの頭上に突き刺さる。

ドドドォォォォォォッ!!

ついに濁流が東国軍の先陣を飲み込み、谷底の乾いた土は、ジンが予言した通り、一瞬にして足の抜けない底なしの粘土沼へと変貌した。

足を取られ、重い甲冑の重みで次々と泥の中へと沈んでいく東国の兵士たち。もはやそこには、陣形も軍規も存在しない。あるのは、ただ生き延びるために味方同士で踏み台にし合う、凄惨で醜い地獄の光景だけであった。

「退け! 後ろへ退けェェェッ!!」

トクナガは豪華な輿を捨て、泥まみれになりながら馬にしがみつき、峡谷の入り口へ向かって必死に逃れようとする。

しかし、彼らが振り返った先に待っていたのは、希望の光ではない。

峡谷の退路を完全に塞ぐように、ガクが指揮する旭州の重装歩兵部隊が、氷のように冷たい目で巨大な槍衾を突き出し、血の通わない鉄壁の壁となって立ち塞がっていた。

「軍規第一項。我が陣形を破る者、一人たりとも生かしては帰さん」

ガクの無機質な声が、絶望して逃げ惑う東国軍への死の宣告として響き渡る。

槍衾に突っ込んだ東国の兵士たちは、次々と串刺しにされ、泥水の中にその血を散らしていった。

クロウの底知れぬ心理戦によって思考を完全に誘導され。

ジンの生きた地形の知識によって逃げ場のない死地へと誘い込まれ。

旭州の猛将たちの圧倒的な武力によって完全に退路を断たれた。

東国の狸と恐れられた老獪な覇侯トクナガの八万の大軍は、ジンの用意した完璧なる猟場の中で、瞬く間に壊滅という名の泥底へと転がり落ちていったのである。

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