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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第65話 東の狸、牙を剥く

東国を統べる老獪な覇侯、トクナガの居城。

その豪奢な謁見の間には、春の暖かな日差しが降り注いでいたが、集められた東国の武将たちの間には、息の詰まるような緊張感が漂っていた。

上座でどっかりと胡座をかいているのは、恰幅の良い体格と、常に絶やさない温厚な笑顔が特徴的な男、トクナガである。彼は「狸」と渾名されるほどに腹の底が見えない男であり、その温和な仮面の裏には、天下を呑み込もうとする底知れぬ野心と、冷酷なまでの計算高さが隠されていた。

「……ほう。金牙城での会談は、完全に決裂したと」

トクナガは、目の前に平伏する密偵の報告を聞きながら、手元にある湯呑みをゆっくりとすすった。

「はっ。若君トウガとシュウスイは激怒して北国へ引き返し、さらに北国討伐軍の要であったゲントがジンに寝返ったとのこと。両者の関係は修復不可能であり、春の雪解けを待って、旭州と北国軍の全面戦争が勃発するのは火を見るよりも明らかでございます」

密偵の言葉に、東国の武将たちがざわめいた。

「殿! これは千載一遇の好機にございます!」

血気盛んな若手武将が進み出て、声を張り上げた。

「旭州の軍勢が北のシュウスイにかかりきりになれば、西国と東国の国境警備は間違いなく手薄になります。その隙を突いて西国の背後から大軍で強襲すれば、あの生意気な泥犬の喉首を容易く掻き切ることができましょう!」

「待て。我々はつい先日、旭州の使者であるガクとクロウという男たちと、相互不可侵の和平条約を締結したばかりだぞ」

古参の武将が顔をしかめて反論する。

「条約の墨も乾かぬうちに背後から刃を突き立てるなど、武士の風上にも置けぬ恥知らずな振る舞い。天下の物笑いの種になるばかりか、東国の信用は地に堕ちる」

「信用で腹が膨れるか! 今ここでジンを討たねば、東国はいずれ巨大化した旭州に呑み込まれるのだぞ!」

家臣たちの激しい議論を、トクナガはただニコニコと笑いながら眺めていた。

やがて、彼は湯呑みをコトリと置き、ポンと一つ、手を叩いた。

それだけで、謁見の間は水を打ったように静まり返った。

「お前たち、天下というものを難しく考えすぎだ」

トクナガは立ち上がり、重い足取りで家臣たちの間を歩き始めた。

「条約? 信用? 武士の風上? ……クックック。そんなものはな、勝者だけが後から歴史書に書き記すための、ただの綺麗な飾り物よ。負けた者がどれほど正しい条約を守ろうが、死人の声は誰にも届かんのだ」

トクナガの温厚な笑顔が、一瞬にして肉食獣のそれに変わった。

「先日の条約締結は、あの足の不自由な悪魔のような軍師に、東国の内情を突かれて脅されたからこそ、一時的に結んでやったに過ぎん。……だが、状況は変わった。旭州という巨大な獣が、北の鬼神と喉を噛み合い始めるのだ。これほど美味い餌が目の前にぶら下がっているのに、条約という薄っぺらい木簡一枚で立ち止まるほど、このトクナガは老いぼれちゃおらんぞ」

トクナガは、謁見の間の壁に掛けられた巨大な天下の地図を指差した。

「ジンという男は、確かに恐ろしい器だ。ソウガの狂気とメイカクの知恵を食らい、たった半年で金牙城という化け物じみた城を築いた。まともに正面からぶつかれば、東国とて無傷では済まん。……だが、背中ががら空きならば話は別だ。全軍を挙げよ! 兵力は八万! 旭州の主力が北へ向かったその瞬間に、怒涛の如く西国へなだれ込み、金牙城を包囲するのだ!!」

「おおおおおおっ!!」

トクナガの決断に、東国の武将たちが一斉に歓声を上げた。

老獪な狸親父は、ついに天下取りの総仕上げに向けて、その鋭い牙を剥き出しにしたのである。

「ジンよ。泥から這い上がった貴様の運もここまでだ。この老いぼれが、本物の狡猾さというものをたっぷりと教えてやろう」

トクナガは、地図上の金牙城の印を太い指でなぞりながら、勝利を確信した獰猛な笑みを浮かべた。

しかし、この東国の狸親父は、致命的な勘違いを犯していた。

自分が背後から獲物を狙う狩人だと思い込んでいるその場所が、実は、さらに巨大な肉食獣が口を開けて待っている「罠のど真ん中」であるということに。

同じ頃。

西国の中心、金牙城の天守閣。

「……クックック。かかりましたな、東の狸親父が」

車椅子の上で、クロウが不気味な笑い声を漏らした。

彼の手には、東国に潜り込ませていた旭州の密偵からの最新の報告書が握られている。

「トクナガの野郎、本当に俺たちが北にかかりきりになると思い込んで、八万の大軍を動かし始めたのか?」

玉座に胡座をかいたジンが、干し肉をかじりながら尋ねた。

「ええ。完全に私の撒いた餌に食いつきました」

クロウは、杖の先で床をコンコンと叩いた。

「北国との会談が決裂したという情報は、私がわざと東国の密偵に漏れるように工作しておいたのです。それに加えて、旭州の主力がすでに金牙城を出立し、北の国境付近へ移動を開始したという『偽の軍勢の移動跡』も丁寧に残してあります。……トクナガの目には今、金牙城の背後が完全にがら空きに見えているはずです」

「悪いオッサンだぜ、お前は」

ジンはニヤリと笑い、干し肉の残りを口に放り込んだ。

「ガク! ゴウ! レン! リョウガ! いるか!!」

ジンの大声に呼ばれ、大広間の扉が開いて旭州の猛将たちが次々と入室してきた。

彼らは皆、すでに完全武装を整え、出陣の熱気に満ちている。

「親父! 東のタヌキ狩りだろ! 俺の鉄砕棒がうずいて仕方ねえぜ!」

ゴウが巨大な武器を振り回し、床を揺らす。

「軍の配置、および伏兵の潜伏はすでに完了している。あとは東国軍が指定の地点に到達するのを待つのみだ」

ガクが、冷静沈着に報告する。

「おうおう、海狗衆の水路の準備も万端だぜ。川の水をせき止めて、いつでも一気に鉄砲水を食らわせてやれるようにしてある」

リョウガが獰猛な笑みを浮かべる。

ジンは玉座から立ち上がり、彼らを見渡した。

「いいか、お前ら。北のシュウスイのオッサンとやり合う前に、どうしても背中の安全を完璧に確保しとかなきゃならねえ。東国のトクナガは、条約なんか平気で破る食えない狸だ。あいつを生かしたまま北と全面戦争に入れば、必ず俺たちの足元をすくいに来る」

ジンは、ガクが広げた西国の地形図を指差した。

「だから、俺たちが北へ向かったと見せかけて、東国軍を西国の奥深くまで誘い込む。場所は……ここだ。俺が薬草売りだった頃、毎日這いずり回って地形の隅々まで知り尽くしている、この『釜田峡谷』の入り口だ」

そこは、かつてジンが初めてレンと出会い、共に泥水をすすって生き延びた、死の峡谷であった。

両側を切り立った崖に挟まれ、一度大軍が入り込めば、身動きが取れなくなる天然の袋小路。

「トクナガは八万の大軍にものを言わせて、最短距離で金牙城を目指して進軍してくる。この峡谷を抜けるのが一番早いと計算してな。……だが、そこが奴らの墓場になる」

クロウが、その先の作戦を冷徹な声で引き継いだ。

「東国軍が峡谷に完全に入り込んだ瞬間、ガク殿が背後を強固な陣形で塞ぎ、退路を断つ。同時に、リョウガ殿の水軍がせき止めていた川の堰を切り、峡谷の泥を沼地へと変える。足場を奪われ、密集して身動きの取れなくなった八万の軍勢に対し、ゴウ殿とレン殿が崖の上から岩と火矢の雨を降らせる。……いかに東国の大軍であろうと、この完璧な死地においては単なるマトに過ぎません」

シオンが遺した精密な地形図と、それを自在に操るジンの知識。

そして、クロウの冷酷な心理戦と、ガクの完璧な統率力。

正道と邪道が極限まで融合した、絶対に逃げ道のない「狸狩りの包囲網」が、すでに完成していたのである。

「レン。お前の縄張りだった場所だ。案内は任せるぜ」

ジンが言うと、真紅の甲冑を纏ったレンが十文字槍を力強く構えた。

「任せとけ。あの谷底で死にかけた俺たちの意地を、東国のお上品な連中にたっぷりと味合わせてやるさ」

「よし!」

ジンは漆黒の外套を翻し、力強く宣言した。

「北の鬼の旦那を待たせるわけにはいかねえ。この東国の狸親父を、一瞬で叩き潰すぞ! 旭州の力、天下に見せつけてやれ!!」

「おおおおおおっ!!」

旭州の猛将たちの雄叫びが、金牙城の天守閣を激しく震わせた。

北国との決戦を前にした、最後の大掃除。

ジン自らが仕掛けた恐るべき死の罠へ向かって、何も知らないトクナガの八万の大軍は、意気揚々と西国の国境を越えようとしていた。

天下を呑み込まんとする二つの野望が、泥と血に塗れた峡谷で交差する。

旭州の牙は、東国の老獪な狸を完全に噛み砕くために、静かに、そして確実に研ぎ澄まされていたのである。

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