第64話 月下の残影と、別れゆく時代
西国の巨大な城塞、金牙城での会談が決裂したその日の夕刻。
北国討伐軍の残党を率いるトウガとシュウスイは、逃げるようにして城を下り、一路北へと向かう街道を重い足取りで進んでいた。
春の暖かな風が吹き始めた西国の大地とは裏腹に、北へ向かう彼らの軍列を覆っているのは、真冬の猛吹雪よりも冷たく、そして暗い絶望の空気であった。
先頭を進む馬車の中から、若き猛将トウガの絶叫が、獣の咆哮のように響き渡っている。
「許さん……ッ! ゲントめ、あの恩知らずの裏切り者めッ!!」
馬車の中で、トウガは手当たり次第に調度品を破壊し、己の髪を掻きむしりながら狂乱していた。
「代々我が家に仕えてきた分際で! 父上が目をかけ、千人将にまで取り立ててやった恩を忘れ、あのような泥犬に尻尾を振るとは! 武士の風上にも置けぬ恥知らずめ! 次に会った時は、必ずあの男の首を刎ねてやる! 八つ裂きにして、犬の餌にしてやるわッ!!」
その怒号は、次第に嗚咽へと変わり、やがて力尽きたような泣き声となって馬車の外へと漏れ出していた。
最も信頼していた知将に、感情論ではなく完璧な理屈によって見限られた。その事実は、若きトウガの自尊心を根底から破壊し尽くしていた。彼がすがっていた血筋という絶対の権威は、もはや誰も守ってくれない古い幻想でしかなかったのだ。
馬車のすぐ横を馬で並走するシュウスイは、主君の哀れな泣き声を聞きながら、ただ無言で前を見据えていた。
背中に背負った巨大な大槍が、馬の歩みに合わせて鈍い音を立てる。
シュウスイは、己の心の中に渦巻く複雑な感情を、夜の闇の底へと深く押し込めていた。
ゲントの裏切りは、確かに痛手であった。北国討伐軍から彼という頭脳が消え去ったことで、これからの戦いは圧倒的に不利になる。だが、シュウスイはゲントを恨む気にはなれなかった。
武人として、天下の民を救うための生きた秩序を選んだゲント。
武人として、滅びゆくと分かっていても古い忠義を選んだ自分。
二人が選んだ道は、どちらも命を懸けた真実の決断であったからだ。
やがて夜が完全に更け、北国軍は街道沿いの荒野で野営の陣を張った。
兵士たちは疲労と敗北感に苛まれ、焚き火の周りで重苦しい沈黙を守っている。
シュウスイは、自らの天幕の前に座り、パチパチと燃える焚き火の炎をじっと見つめていた。
その炎の揺らめきの中に、ふと、かつて共に戦った一人の男の顔が浮かび上がった。
泥と血にまみれ、それでもニヤリと野犬のように笑う、あの薬草売りの若者の顔が。
(……ジン。思えば、貴様が初めてその真価を発揮したのは、あの田楽狭間の戦いの時だったな)
シュウスイの脳裏に、凄惨な雨の夜の記憶が蘇る。
大国・煌州の覇侯ギエンの大軍を前に、黎州軍は圧倒的な絶望的状況にあった。その時、正面からの囮部隊を任されたのがシュウスイであり、ソウガを導いて誰も知らない獣道から背後の崖上へと回り込んだのが、ジンであった。
正面で無数の敵と槍を交えながら、シュウスイは雨音に混じって背後の崖から響いた、あの轟音を今でも鮮明に覚えている。
ソウガの規格外の武力と、ジンの泥臭くも徹底的な合理性が完全に融合し、大国煌州の本陣を一瞬にして崩壊させたあの夜。
戦いの後、泥だらけの顔で干し肉をかじりながら、ソウガから百の兵を預けられ『徹底的にしぶとく、悪賢い部隊に育て上げてやりますよ』と不敵に笑ったジンの顔。
(あの時は、最下層の薬草売りがただの狂犬に化けただけだと思っていた。……だが、あの泥犬は、ソウガ様の狂気をも喰らい尽くし、天下の頂点に座る巨大な獣に成長してしまった)
シュウスイは、傍らに置いた大槍の柄を撫でた。
「……だがな、ジン。貴様がどれほど正しく、どれほど強くなろうとも。私には、貴様の創る新しい光り輝く国へ行くことはできんのだ」
シュウスイは、ポツリと独り言をこぼした。
自分の体には、ソウガと共に二百年の歴史を破壊し、恐怖でこの国を染め上げたという古い血の匂いが染み付いている。自分がジンの軍門に下れば、旭州という新しい国に、その古い匂いを持ち込むことになってしまう。
新しい時代を本当に美しいものにするためには、自分たちのような旧時代の亡霊は、一匹残らずこの世から消え去らねばならないのだ。
「……ソウガ様。メイカク。そして、この私。我々古い時代の武人は、自らの命を薪にして、あの野犬の歩む道を照らすための贄になる運命だったのかもしれんな」
焚き火の炎が、シュウスイの厳つい顔を赤く照らす。
しかし、その目には一片の迷いもなかった。
自分が時代遅れの亡霊であることは百も承知だ。だからこそ、その亡霊としての最後の意地を懸け、一切の妥協なく、己のすべての武力を以てジンに立ちはだかる。
それが、天下人となる男に対して、武人シュウスイが贈ることのできる最大の餞なのだから。
「待っていろ、ジン。お前のすべてを、この大槍で叩き潰しにいってやる」
鬼神は、夜空に浮かぶ冷たい月を見上げながら、血の匂いのする誓いを立てた。
一方、その頃。
西国の中心、威容を誇る金牙城の最上階。
ジンは、天守閣の広いバルコニーの手すりに寄りかかり、ただ一人、夜風を浴びていた。
城下町にはまだ明かりが点々と灯り、夜遅くまで新しい国の建設に汗を流す民たちの活気が、微かに風に乗って聞こえてくる。
彼の手には、安物の素焼きの盃が握られていた。
天下の覇王となった今でも、ジンは煌びやかな黄金の盃よりも、この手によく馴染む泥臭い器を好んで使っていた。
コポコポと、粗悪などぶろくを盃に注ぎ、一気に喉へと流し込む。
胃袋が焼けつくような安酒の感覚が、彼を薬草売りだった頃の初心へと引き戻してくれるのだ。
「……行っちまったな。鬼の旦那」
ジンは、北へと続く真っ暗な街道の先を見つめながら、ぽつりと呟いた。
ゲントの離反により、北国討伐軍の戦力は大幅に削がれた。トウガの精神状態を考えれば、彼らの軍はもはやまともな体裁を保っていないだろう。
だが、ジンは少しも油断などしていなかった。
なぜなら、あの軍には、シュウスイという男がいるからだ。
(……あのオッサンは、本物の化け物だ。理屈じゃ動かねえ、意地と誇りだけで山を砕くような、昔気質の武人だ)
ジンもまた、シュウスイと共に戦った田楽狭間の記憶を呼び起こしていた。
圧倒的な敵軍を前に、囮となって正面から引きつけるという最も危険な役割を、一切の文句も言わずに引き受けたシュウスイ。あの強固な壁があったからこそ、自分は背後の崖上へと回り込むことができた。
あの時から、自分とシュウスイは、互いに背中を預け合うことができる奇妙な信頼関係で結ばれていたはずだった。
「……あんたは、本当に不器用な男だよ、シュウスイのオッサン」
ジンは空になった盃を、バルコニーの床にコトリと置いた。
「俺が創る新しい国なら、あんたが今まで抱えてきたしがらみなんか全部忘れて、ただ強え奴と楽しく戦える場所にしてやれたのに。……あんたの武力があれば、俺たちの旭州は、誰も手を出せねえ最強の国になれたのによ」
ジンの言葉には、深い寂しさと哀愁が漂っていた。
ソウガの狂気を間近で見続け、メイカクの完璧な知性に触れ、そしてシュウスイの圧倒的な武と誇りを背中から学んできた。
彼らがいなければ、今の自分は存在しない。
だが、皮肉なことに、ジンが彼らから学び、成長すればするほど、彼ら自身がジンの創る新しい世界の障害となっていくのだ。
「……わかってるよ。あんたが、どういう覚悟で俺を睨みつけていたかなんてな」
ジンは、夜空に浮かぶ月に向かって、力強く手を伸ばした。
まるで、そこにある見えない敵の喉首を掴むように。
「古い時代の誇りと一緒に、全部燃え尽きるつもりなんだろ。俺の泥臭い力と、あんたの純粋な武を、最後に真っ向からぶつけ合って、この腐った二百年の歴史に完璧な終止符を打つために」
ジンの目に、もはや迷いはなかった。
彼らを尊敬し、愛しているからこそ、手加減などという侮辱は決して許されない。
シュウスイが己のすべてを懸けて殺しに来るのなら、自分もまた、旭州という国のすべての力を結集して、その巨大な鬼を正面から叩き潰さなければならない。
それが、天下を背負うと決めた男の、血を吐くような責任なのだ。
「来いよ、鬼の旦那。あんたの命も、トウガの無念も、古い時代の誇りも。俺が残さず全部、この泥まみれの胃袋で食い尽くしてやる」
ジンは、強く拳を握りしめた。
その瞳は、旭州の闇を照らすほどに鋭く、そして熱く燃え上がっていた。
北へ向かう鬼神の誓い。
西国にそびえる覇王の覚悟。
同じ月を見上げながら、二人の男は互いの魂をぶつけ合う最後の決戦に向けて、静かにその刃を研ぎ澄ましていた。
天下を完全に二分する戦いの火蓋が切られるまで、残された時間はあとわずか。
それぞれの想いと業を乗せて、旭州の長く、そして静かな夜が過ぎていった。




