第63話 血脈の呪縛と、理性の刃
西国の中央にそびえ立つ黄金の牙、金牙城。
その巨大な天守閣の最上層に位置する大広間に、三度目の朝陽が差し込んでいた。しかし、黄金の装飾を眩く反射する春の光は、室内に充満する重苦しく、そしてひどく冷え切った殺気を微塵も和らげることはなかった。
旭州と北国討伐軍による、天下の命運を分かつ会談の最終日。
ここ数日間、幾度となく繰り返された堂々巡りの議論は、すでに言葉としての意味を失い、互いの存在そのものを根本から否定し合う、極限の精神戦へと移行していた。
「ジン。これが私の、最後の通告だ」
大広間の中央に立つ若き猛将トウガの声は、連日の疲労と怒りでひどく掠れていた。しかし、その瞳の奥には、追いつめられた獣が最後に放つような、狂気じみた危険な熱が宿っている。彼の目の下には濃い隈が浮かび、初陣で見せた若虎の溌剌とした覇気は見る影もなかった。
「泥の中から這い上がった貴様の執念と努力は、百歩譲って認めてやろう。この常識外れの城を半年で築き上げ、西国の民を食わせているという実績もだ。……だが、それだけだ! 貴様には、天下を統べる者として決定的に欠けているものがある。それは『正統なる血筋』だ!」
トウガは、己の胸を強く、血の滲むような力で叩いた。
「私の中には、この乱世を力で統べるべくして生まれた、覇侯ソウガの血が流れている! 天の配剤によって選ばれた、王たる者の絶対の血脈だ! 貴様のような、身元も知れぬ薬草売りの野犬が、いくら武力を誇示し、一時的に豊かな飯で民を誑かそうとも、二百年の歴史と血筋という権威の前では無力に等しい! 民は最終的に、正当なる歴史を持った王を求めるのだ! 貴様が本当にこの国の未来と平穏を願うのならば、速やかに私にその玉座を譲り、黎州の再興に尽くすのが天の理というものだ!」
それは、論理を完全に放棄し、己の生まれ持った特権だけを絶対の盾とした、若き猛将の悲痛なまでの咆哮であった。
背後に控える鬼神シュウスイは、その言葉を聞きながら、痛ましそうに目を伏せた。血筋という、自らの力ではない過去の遺物に縋りついて吠える主君の姿は、あまりにも脆く、そして覇侯としての器が致命的に欠如していることを自ら証明しているようなものであったからだ。
シュウスイは、ソウガという男の恐るべき器の大きさを誰よりも知っている。ソウガならば、血筋などというものを盾にする前に、圧倒的な力と恐怖で相手をねじ伏せていただろう。トウガの言葉は、皮肉にもソウガの偉大さと、それに遠く及ばない自身の小ささを浮き彫りにするだけであった。
一方、玉座に座るジンは、片膝を立てたまま、退屈そうに小指で耳をほじっていた。
やがて、フッと息を吹きかけ、完全に冷め切った、野犬の鋭い目でトウガを見下ろした。
「……終わったか? お坊ちゃんの、寝言の時間は」
「なんだとッ!」
「お前さ、自分がどれだけ滑稽で、矛盾したことを喚いているか、わかってねえだろ」
ジンはゆっくりと立ち上がった。そして、黒と金で彩られた玉座の階段を、一段、また一段と下り始めた。
一歩下るごとに、ジンの身から放たれる圧倒的な覇気が、大広間の空気を圧縮し、トウガを物理的な圧力のように押し返していく。
「親父の血筋が絶対だの、天の理だの……。笑わせるな。お前、自分の親父が旧王都で何をやったか、もう忘れたのか?」
ジンの地を這うような低い声が、広間の空気を完全に凍らせた。
「お前の言う通り、この世界には二百年続いた天帝の血脈があった。白き王から直接この世界を託されたっていう、お前のソウガの血筋なんかよりも、よっぽど古くて、神聖で、絶対的な権威を持った血脈だ。……その天帝の一族を、歴史ある新龍寺ごと炎で焼き尽くし、女子供に至るまで一人残らず根絶やしにしたのは、他でもないお前の親父、ソウガの親分だろうが!」
トウガの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。
彼の唇がワナワナと震え、言葉にならない音を漏らす。
「あの『天帝血脈断罪事件』の時、親分は王都の空を焦がす炎を背にして、天下に向かってはっきりと言い放ったはずだ。『血脈などという古臭い呪いに価値はない。歴史も伝統も、力なき者がすがるための幻想に過ぎん。すべては今の力と結果だけで決まる』ってな。……俺は、あの言葉を西国の最下層の泥の中で聞いて、震えるほど痺れたんだよ。あんたの親父は、本当の意味でこの腐った乱世をぶっ壊そうとしている、本物の化け物だってな」
ジンは、トウガの目の前まで歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げるような錯覚を覚えさせるほど、鋭く恐ろしい眼光で睨みつけた。
「いいか、トウガ。血筋が一番大事だっていうお前の理屈が通るなら、天帝を皆殺しにしたお前の親父は、この世で一番の逆賊で、最も醜い大罪人ってことになる。親父の血脈を誰よりも自慢し、ソウガの息子であることを誇っているくせに、お前は、親父が命懸けで否定した『血筋の権威』に縋りついて、俺を威圧しようとしている。……ダサすぎるんだよ、てめえは。あの世でソウガの親分が泣いてるぜ」
「あ、あ、あああ……ッ!!」
ジンの完璧な論破。
それは、トウガの精神の最も深い部分を容赦なく抉り、叩き割るものであった。
もはや、返す言葉など一つもなかった。己の矛盾を突かれ、自らが最大の拠り所としていた血脈の価値を、自らが崇拝する父の行動によって完全に否定されたのだ。自らの存在意義そのものを粉々に打ち砕かれた若き猛将の心は、ここで完全に決壊した。
論理が崩壊した人間に残されるのは、純粋で無軌道な暴力の衝動だけである。
「黙れェェェッ! 黙れ黙れ黙れェェェッ!! 貴様のような下賤な泥犬に、父上を語る資格などないッ!」
トウガは完全に理性を失い、腰の長剣を乱暴に引き抜いた。美しい細工の施された刃が、ジンの鼻先へ向けて突き出される。
「シュウスイ! ゲント! 構えろ! 今ここで、この冒涜者の首を刎ねる! たとえ我らがここで全滅しようとも、黎州の武人の意地を見せつけてやれ!! 殺せ! ジンを殺せェェェッ!!」
トウガの狂乱の絶叫が響き渡る。
その瞬間、大広間の空気が爆発した。
「てめえ、親父殿に刃を向けたな!!」
ゴウが額に青筋を浮かべ、凄まじい咆哮と共に巨大な鉄砕棒を振り上げる。
レンが真紅の甲冑を鳴らし、十文字槍の穂先を閃かせながらジンの前へと躍り出る。
ガクは無言のまま冷酷な瞳でトウガの急所に槍の狙いを定め、リョウガとハクヤもそれぞれの武器を抜き放ち、一斉に殺気を爆発させた。
旭州の猛将たちによる、逃げ場のない死の包囲網。
シュウスイは、悲痛な顔で巨大な大槍を強く握りしめ、トウガを背中で庇うようにしてジンとの間に割って入った。
この無謀な突撃の果てに待っているのは、自分たちの確実な死である。この大広間に配置された兵の数、そして旭州の将たちの武力を見れば、自分たちが一分と生きていられないことなど、百戦錬磨の鬼神には痛いほどに理解できていた。
それでも、主君が命じるならば、最後までそれに従い、華々しく散るのが古い武人の誉れである。
「……承知いたしました。若君、この鬼神シュウスイ、地獄の底までお供致しましょう」
シュウスイが死の覚悟を決め、大槍の穂先をジンへと向け、闘気を限界まで高めた、その時であった。
チャキッ。
静かな、しかしひどく耳障りな金属音が、殺気立つ大広間に響いた。
それは、剣を抜く音ではない。剣の柄に置かれていた手が、鞘から静かに離れ、腕がまっすぐに下ろされた音であった。
「……ゲント?」
トウガが、血走った目で背後を振り返った。
彼が最も信頼し、北国での苦しい戦いの中でもどんな無謀な命令にも完璧な陣形で応えてきた、質実剛健なる武将、ゲント。
彼は、剣を抜いていなかった。それどころか、武器を構えて決死の覚悟を決めているシュウスイの横を通り抜け、ゆっくりと、しかし一切の迷いのない足取りで、前へと歩み出たのである。
「おい、ゲント! 何をしている! 私の命令が聞こえなかったのか! 剣を抜け! 奴らを斬れと言っているのだ!!」
トウガが焦燥と困惑の声を上げるが、ゲントの足は止まらない。
彼は狂乱するトウガの傍を通り過ぎ、そして、ジンと向かい合う位置で静かに足を止めた。
そのまま、ゲントは身につけた重い甲冑の音を響かせながら、ジンの目の前で深く、恭しく片膝を突き、頭を垂れたのである。
「な……っ!?」
トウガの目が見開き、長剣を持つ手がカタカタと激しく震え始めた。
シュウスイもまた、驚愕に目を見開き、信じられないものを見るようにゲントの背中を見下ろしていた。
「旭州覇王、ジン様」
静まり返った大広間に、ゲントの氷のように冷たく、そして澄み切った声が響き渡った。
「私、旧黎州千人将ゲントは、只今この瞬間をもって、旧主であるトウガ様との一切の主従関係を破棄いたします」
「ゲ、ゲントォォォォォッ!! 貴様、気が狂ったか! この私を裏切るというのかァァッ!!」
トウガの悲鳴のような絶叫が木霊する。信じていた者の裏切りに、彼の声は哀れなほどに裏返っていた。
しかし、ゲントは振り返ることもなく、ジンの足元を見つめたまま言葉を紡いだ。
「私は武人であり、軍規と秩序を何よりも重んじて生きてまいりました。将たる者の最大の責務は、己の感情や面子を満たすことではなく、兵士たちの命を無駄にせず、領地の民が明日を生きるための合理的なシステムを守り抜くことにあります」
ゲントの言葉の裏には、昨夜クロウから手渡された『旭州軍令および兵站法度』の完璧な理論があった。
「勝算皆無の死地へ、兵の兵站すら無視して突撃を命じる。論理を失い、己の血脈のみを頼りに喚き散らす。それはもはや軍隊の指揮ではなく、単なる無軌道な自殺行為に他ならない。そのような狂気の下に、我が部下たちの命を預けることは、指揮官としての私の理性が絶対に許しません。武人の誇りとは、共に戦う者たちを無駄死にさせないこと、その一点に尽きるはずです」
ゲントは、トウガの存在を完全に切り捨てた。
私情ではない。憎しみでもない。ただ純粋に、彼の中の「正しい計算」が、トウガを指導者として不適格であると弾き出しただけなのだ。
「ジン様。貴方様の創り上げたこの旭州の統治機構、そして兵站のシステムは、見事という他ありません。かつてメイカク殿が命を懸けて理想とした正道の法が、貴方様の圧倒的な熱量と力によって完璧に稼働している。……天下万民を救うための真の秩序は、すでにこの城に完成しております」
ゲントは、自らの腰から剣を外し、両手で捧げ持つようにしてジンの足元へと差し出した。
「私は、形骸化した血筋に殉じるつもりはありません。私が仕えるべきは、理にかなった『正しい秩序』そのものです。……もし、旭州の巨大な軍勢を統率する歯車の一つとして、この冷たい頭脳がお役に立つのであれば。どうか、私の剣を旭州の覇道にお加えください」
完璧な論理と、私情を完全に排した、究極の帰属宣言。
大広間は、水を打ったような静寂に包まれた。
常に無表情であったゲントの額には、一筋の冷たい汗が流れていた。
いくら大義があろうとも、代々仕えてきた主君の血脈を自らの意志で見限るという行為が、武人の心にいかに深い傷をつけるか。どれほどの苦悩の末に、彼がこの「理性的な裏切り」という最も困難な道を選択したのか。
ジンには、それが痛いほどに伝わっていた。
「……クックック。素晴らしい判断ですぞ、ゲント殿。貴公のその冷たく美しい理性、旭州の軍略に欠かせぬ要となりましょう」
広間の奥で、クロウが車椅子の上で拍手喝采を送りながら薄笑いを浮かべる。
軍規に厳しいガクは、ゲントのその痛切なまでの軍律の精神と、万民を想う覚悟に密かな敬意を込め、十文字槍の柄を握り直した。
「……ゲントォッ! 貴様ァァァッ! 許さん! 貴様だけは絶対に許さんぞォォォッ!!」
トウガは、怒りと絶望で完全に発狂したように剣を振り上げ、無防備なゲントの背中へと斬りかかろうとした。
ガィィィィンッ!!
しかし、その剣は、ゲントに届く前に、シュウスイの巨大な大槍の石突きによって激しく弾き飛ばされた。
「シュ、シュウスイ……? なぜ邪魔をする! こいつは私を裏切ったのだぞ! 殺せ! 殺してしまえ!」
トウガが涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、床に転がった剣を拾おうと藻掻きながら叫ぶ。
シュウスイは、ゲントの背中を悲痛な目で見つめながら、静かに首を横に振った。
「……やめられよ、若君。見苦しい真似はこれ以上、ソウガ様の顔に泥を塗るだけだ。ゲントは狂ったのではない。彼の中の武士の魂が、私とは別の答えを出しただけだ。彼を討てば、我々は本当に、ただの血に飢えた狂人の群れに成り下がってしまう」
シュウスイは、ゲントの苦悩を誰よりも理解していた。
伝統という死にゆく名誉を選んだ自分と、万民の命という生きた秩序を選んだゲント。道は違えど、どちらも極限の状況下で武人としての責任を果たそうとした結果なのだ。
ジンは、ゲントが差し出した剣をゆっくりと拾い上げ、そして再びゲントの腰へと力強く結びつけた。
「顔を上げな、ゲント」
ジンの言葉に、ゲントが静かに顔を上げる。
「あんたの計算は正しい。俺の国には、情熱や勢いだけじゃ足りねえんだ。あんたみたいな冷てえ頭で、兵站の数字を弾き出し、軍規をきっちり守らせる鬼の監視役が必要だった」
ジンは、これまでの野犬の笑みではなく、すべてを呑み込む覇王としての包容力を持った力強い笑顔を見せた。
「歓迎するぜ。今日からお前は、旭州の千人将だ。あんたの部下たちも、明日からは腹いっぱい西国の美味い飯を食わせてやる。……もう、誰も無駄死にはさせねえ」
「……はっ。この身に代えましても、旭州の秩序、死守いたします」
ゲントが深く、再び首を垂れる。
その光景を前にして、トウガは完全に腰から砕け落ち、大広間の冷たい床にへたり込んだ。
血筋の正統性を論破され、最も頼りにしていた知将に論理的に見限られた。彼に残されたのは、何もかもを失ったという絶対的な絶望と、空虚で惨めな怒りだけであった。
「決まりだな、トウガ」
ジンが、床に座り込むトウガを見下ろして冷たく言い放つ。
「会談は終わりだ。お前らに、これ以上俺の時間をくれてやる義理はねえ。……とっとと北国へ帰りな。雪ん中で頭冷やして、それでもまだ俺の天下に喧嘩を売りてえってんなら、いつでも相手になってやるよ」
「……」
トウガは何も答えることができなかった。ただ、虚ろな目で大理石の床を見つめ、小刻みに震えているだけだ。
シュウスイは、崩れ落ちた主君であるトウガの肩を無言で抱き起すと、ジンに向かって深く、一度だけ頭を下げた。
「……情けをかけられたな、ジン。この屈辱、北の猛吹雪よりも冷たく、深く、我が魂に刻み込ませてもらった」
シュウスイの目には、ゲントの離反という絶望を乗り越え、すべてを焼き尽くすほどの静かで深い殺意が宿っていた。
「我々は北へ還る。次にまみえる時は、もはやこのような舌戦は無用。貴様の泥の天下か、私の大槍か。……戦場にて、雌雄を決しようぞ」
「ああ、待ってるぜ。鬼の旦那」
シュウスイは、魂の抜け殻のようになったトウガを支えながら、ゆっくりと大広間から退去していった。
最も強固だった北の三将の結束は完全に崩壊した。
そして、旭州と北国による、天下の命運を分かつ最終戦争への導火線に、ついに火が放たれたのである。




