第62話 悪魔の囁き、理性の天秤
金牙城の夜は、旧王都の覇宮とは全く異なる静寂に包まれていた。
かつての覇宮の夜は、魔王ソウガの不興を買うことを恐れた者たちが息を潜める、死のような静けさであった。しかしこの城の静寂は、民や兵士たちが明日の労働と訓練に備えて深い眠りについている、健やかで生産的な安らぎのそれである。
だが、北国討伐軍に割り当てられた客間の一画だけは、その安らぎから完全に切り離されていた。
「なぜだ! なぜすぐに斬り込まない! 警備の隙を突いてあの泥犬の寝首を掻けば、このふざけた国は一晩で崩壊するはずだろうが!」
若き猛将トウガの怒声が、厚い壁の向こうから漏れ聞こえてくる。
自室で机に向かい、薄暗い灯りの中で兵站の計算木簡を見つめていたゲントは、感情を完全に排した能面のような顔のまま、小さく、誰にも聞こえないほどの溜息をこぼした。
敵の総本山、しかも地の利を完全に掌握されているこの巨大な要塞の中で、わずかな供回りだけで総大将の暗殺を企てる。それは兵法や軍規に照らし合わせるまでもなく、単なる自殺行為であった。成功率は皆無に等しく、仮に奇跡が起きてジンの首を取れたとしても、激怒した旭州の猛将たちに包囲され、彼らは一人残らず膾切りにされるだろう。
(若君は、理性を失っておられる。復讐心と、奪われた自尊心によって、将として最も重要な大局の計算が完全に抜け落ちてしまっている)
ゲントの筆が止まる。
彼は生真面目な武人であり、軍規を絶対の法として生きてきた。主君の命令は絶対であり、それに従うことこそが己の存在意義であると信じて疑わなかった。
しかし、その絶対の主君が、自らの軍と家臣を無意味な破滅へと導こうとしている時、武人はどう振る舞うべきなのか。
その答えの出ない問いが、ゲントの冷徹な思考回路に微かなノイズを生じさせていた。
「クックック。……優秀すぎる頭脳というのも、考えものですな。愚か者であれば、主君と共に喜んで崖から飛び降りることもできましょうに」
不意に、暗闇から声が響いた。
ゲントは瞬時に腰の剣の柄に手をかけ、声のした部屋の隅へと鋭い視線を投げた。
そこには、音もなく滑るように現れた車椅子に深く腰掛けた男、クロウがいた。
「……何者だ。客間への無断侵入は、そちらの軍規にも反するはずだが」
ゲントは剣を抜かずに、冷たく問い詰めた。
「おや、ご挨拶に来ただけですよ。私は旭州の軍師、クロウと申します。どうぞ、その剣はお納めください。見ての通り、私は足が不自由でして、貴公のような手練れと打ち合う力など微塵も持ち合わせておりません」
クロウは気味の悪い笑みを浮かべたまま、ゆっくりと車椅子を進め、ゲントの机の向かいで止まった。
「……何の用だ。我々は明日の会談に備え、休息を取っている。悪路を這い回る蛇の相手をしている暇はない」
「蛇、ですか。クックック、光栄な呼び名です。ですが、今日ここへ参ったのは、貴公のその冷たく美しい『理性』を、無駄な泥で汚したくないという、私の純粋な親切心からなのですよ」
クロウは懐から一巻の書物を取り出し、ゲントの机の上にコトリと置いた。
「ゲント殿。貴公は、なぜソウガ様に仕えておられたのです?」
「愚問だな。武士として主君に仕えるのは、天の理だ。軍規がそれを定めている」
「では、その『軍規』とは何のためにあるのでしょう?」
クロウの細い瞳が、紫色の妖しい光を放ってゲントを射抜いた。
「軍規とは、軍を効率的に動かし、無駄な血を流さず、領地と民の秩序を守るための『システム』です。……しかし、今の貴公の主君はどうだ。感情に任せて不可能な暗殺を喚き散らし、北国から連れてきた兵士たちの兵站も無視して、ただ己の面子のためだけに死地へ突っ込もうとしている。……それは、貴公が愛する『秩序』ですか?」
ゲントの瞳孔が、わずかに揺れた。
痛いところを突かれたからだ。ゲントにとって、ソウガの絶対的な力は、この乱世に秩序をもたらすための必要悪として機能していた。だが、今のトウガには、その秩序を構築するだけの冷静な計算がない。
「メイカク殿は、それに気づいたのですよ」
クロウは、あえてかつての旧黎州の筆頭家老の名を出した。
「メイカク殿は、ソウガ様の狂気がいずれ国を根底から破壊すると計算した。だからこそ、主君殺しという最大の禁忌を犯してでも、法と秩序を守るために反乱を起こした。……ゲント殿、貴公の頭脳ならば、メイカク殿のその極めて論理的な判断を、理解できないはずがない」
「……メイカク殿は、ジンに討たれた。そのジンが、何の正統性もなく国を乗っ取ったのが今の旭州だ。そこに真の秩序などない」
ゲントは冷たく反論したが、クロウは肩を揺らして笑った。
「本当にそうでしょうか? 貴公はこの城に来るまでの道中、そしてこの城の中で、我々の軍規と統率力、そして民の豊かさを、その優れた目で嫌というほど観察してきたはずだ」
クロウは机の上の書物を、杖の先でトンと叩いた。
「我らが覇王ジン殿は、メイカク殿から託されたすべての兵法、法律、兵站のシステムを、その頭脳に完全に叩き込み、この旭州で実行している。……机上の空論だったメイカク殿の正道を、ジン殿の持つ泥臭い求心力が完全に実体化させたのです。適材適所の能力主義、無駄を完全に省いた物流網、そして、兵士の命を何よりも重んじる冷徹なまでの陣形指揮。……どうです? 貴公が理想とする、完璧な理性の国そのものではないですか?」
ゲントの視線が、クロウが置いた書物に落ちた。
表紙には『旭州軍令および兵站法度』と書かれている。
「貴公の主君への忠誠は美しい。ですが、その忠誠の行き着く先は、無能な指揮官による全軍の玉砕です。貴公の部下たちも、北国で帰りを待つ家族も、すべて若君の感情の道連れとなって灰になる」
クロウの囁きは、甘く、そして極めて論理的であった。ゲントの理性の奥深くに、正確な計算式として組み込まれていく。
「ジン殿は、貴公のその冷徹な指揮能力と、軍規を重んじる精神を高く評価しておられます。この旭州という巨大な歯車を回すためには、貴公のような理性の塊が必要なのです。……沈みゆく泥船で無意味な死を迎えるか、それとも、新しい時代の完璧な秩序の中で、貴公の真の能力を万民のために振るうか」
「……私に、二度主君を裏切れと言うのか。武人の誇りを捨てろと」
ゲントの声には、初めて微かな苦悩の色が混じっていた。
「誇りとは、死んでから語られるもの。生きて秩序を守ることこそが、真の将の務めではありませんかな?」
クロウはそれ以上は語らず、車椅子を静かに反転させた。
「明日の会談が最終日となります。もし、貴公の理性が正しい計算を弾き出したのであれば……明日の玉座の間で、その答えをお見せください。我々は、いつでも貴公を歓迎いたしますよ」
車椅子の車輪の音が、暗闇の中へと静かに消えていった。
一人残された客間で、ゲントは机の上の書物を手に取った。
それを開いた瞬間、ゲントの目は釘付けになった。そこに記されていたのは、補給線の確保、兵士の休息時間の厳密な規定、天候による行軍速度の計算式など、ゲント自身が長年思い描きながらも、ソウガの恐怖政治下では決して実現できなかった、あまりにも美しく、完璧な軍事システムであった。
「……これが、ジンという男の創る国か」
隣の部屋からは、いまだにトウガの感情的な怒声が聞こえてくる。
ゲントは、トウガの怒声と、手の中にある完璧な理性の結晶を、己の魂の天秤に乗せた。
主君の血脈という形骸化した義理をとるか。
天下万民と兵士たちの命を守る、本物の秩序をとるか。
質実剛健なる武人の心に張られていた分厚い氷が、悪魔の論理的な囁きによって、静かに、しかし確実に溶け始めていた。ゲントは書物を閉じ、静かに目を瞑り、己の出すべき最終的な答えの計算を始めた。




