第61話 鬼神の迷いと、矜持の狭間
金牙城の客間に用意された重厚な調度品も、北国の三将にとっては何の慰めにもならなかった。
重苦しい沈黙が支配する部屋の中で、シュウスイはただ一人、窓の外に広がる旭州の巨大な城下町を見下ろしていた。
外は春の宵だというのに、彼の心には冷たい風が吹き荒れている。
ジンとの会談は、三日目に入っても一向に噛み合わなかった。トウガは相変わらず自らの血筋と黎州の伝統を盾に声を荒らげ、ジンはそれを、まるで迷子を諭すかのような余裕で受け流し続けている。
「……天下の器、か」
シュウスイは、思わず独り言をこぼした。
ジンが語る、泥の中から這い上がり、民が笑える国を創るという覇道。それは一見すれば荒唐無稽な夢物語だが、彼がこの半年で築き上げた金牙城の威容と、街を闊歩する民たちの希望に満ちた表情を見る限り、紛れもない現実であった。
ジンという男は、確かに強烈な魅力を持っている。
魔王ソウガが力で支配しようとしたこの乱世を、ジンは熱狂と実利の融合によって、いとも容易く塗り替えようとしている。シュウスイの武人としての本能は、あの玉座に座るべきはジンであると、隠しようのない事実として突きつけていた。
(……もし、俺がソウガ様に拾われていなければ。もし、俺がこの伝統ある武士の家系に縛られていなければ。……俺は、あの男の隣で、その覇道を全力で駆け抜けてみたかったのかもしれん)
その思考が脳裏をよぎった瞬間、シュウスイは激しく首を振り、己の頬を掌で強く打ち据えた。
「何を考えている……! 私は、ソウガ様にこの命を預けた鬼神だぞ」
シュウスイは、自らの大槍を手に取った。
柄に刻まれた古びた傷跡は、ソウガと共に越えてきた数多の戦場を物語っている。伝統とは、ただ古いだけの殻ではない。そこに積み重ねられた犠牲と忠義、そして武士としての生き様そのものなのだ。
ジンが創ろうとしている新しい世界には、その魂の歴史が抜け落ちているように思えてならない。どれほど国が豊かになろうとも、先祖代々受け継いできた誇りや、主君への忠誠という「不合理で美しいもの」が失われてしまえば、そこにあるのはただの飢えを凌ぐための巨大な獣の巣に過ぎないのではないか。
「……シュウスイ殿」
物思いに耽っていた彼に、背後から声をかけたのはゲントであった。
彼はいつものように無表情で、しかしどこか落ち着かない様子で部屋に入ってきた。
「トウガ様が、またしてもジンへの強襲を主張しておられる。先ほどから、警備にあたっている旭州兵を力ずくで排除し、ジンを玉座で闇討ちにする算段を練っているようだ」
「若君……。またその無謀な真似を」
シュウスイは深く嘆息した。
「ジンの金牙城で闇討ちなど、蟻が竜の鱗を剥がそうとするようなものだ。トウガ様の命がいくらあっても足りん。……私は、あの方をお守りせねばならんのだ。あの純粋で、それゆえに壊れやすい若君を、この乱世の濁流から守り抜くことこそが、俺に遺された最後の使命なのだから」
「私は……分かりません」
ゲントが珍しく迷いの混じった声を出した。
「トウガ様への忠義は、私の軍規そのものです。しかし、先ほどの会談でジン殿が示した旭州の統治システム……。あの完璧な兵站管理と民の保護。メイカク殿が命を懸けて理想とした秩序が、あそこにはある。……武人として、私はどちらの義を選ぶべきなのか」
「ゲント。お前ほどの冷徹な男をも揺さぶるか、ジンという男は」
シュウスイは、ゲントの肩をポンと叩いた。
「迷え。それでいい。我々のような古い時代の残滓は、己の信念の重さに押し潰されながら、それでも進むしかないのだ。……トウガ様がたとえ間違いを犯そうとも、私は盾となり槍となって、その血脈の最期まで付き合う。それが、この鬼神シュウスイの生きる道だ」
シュウスイは窓の外へ再び視線を向けた。
夜闇の中に浮かび上がる金牙城の黄金の屋根が、月光を受けて冷ややかに光っている。
ジンという太陽が昇り、古い黎州という月が沈もうとしている。その狭間で、己の矜持をどこに置くかという残酷な問いを突きつけられながら、鬼神は深い夜の帳へと溶け込んでいった。
「トウガ様を守り、旭州の覇道に抗う。その結果、どれほど血塗られた戦いになろうとも……私は、私自身の誇りのために、ジンという男の胸に、この大槍を突き立ててみせる」
それは、ジンへの憎悪ではない。
自分が生きてきた時代と、愛した男への、せめてもの敬意を込めた殺意であった。
明日になれば、再びあの玉座の間で、泥と正義の議論が繰り返されるだろう。
しかし、シュウスイの心はすでに決まっていた。たとえ己が泥に沈もうとも、主君と定めた血筋を最後まで守り抜くこと。それが、この死にゆく乱世の最後の一人としての、せめてもの美学であると、自らに言い聞かせていた。
その頃、隣の部屋でトウガが激昂する怒声が響き渡る。
シュウスイは何も言わず、ただ静かに大槍を磨き続けた。
黄金の城の中に渦巻く、血よりも熱く、氷よりも冷たい葛藤。




