第60話 黄金の牙城と、泥犬の新世界宣言
春の陽光を弾き返す、漆黒と黄金の威容。
西国の中央に突如として出現した旭州の新たな本拠地「金牙城」の内部へと足を踏み入れた北国討伐軍の三将、トウガ、シュウスイ、ゲントの三人を包み込んだのは、外観の絢爛豪華さからは想像もつかないほどに冷徹で、計算し尽くされた殺気立つ空間であった。
彼らを大広間へと案内する旭州の守備兵たちの足運びには、一切の無駄も隙もない。彼らが歩く廊下の幅、高い天井から差し込む採光の角度、そして等間隔に配置された太い柱の陰。そのすべてが、いざという時に敵を袋小路に追い込み、一網打尽にするための防衛設備として機能していることは、歴戦の武将であるシュウスイとゲントの目には明らかであった。
「……見事なものだ」
ゲントが、感情のない瞳で周囲の構造を観察しながら、誰にともなく小さく呟いた。
「廊下の幅は槍衾を作るのに最適な寸法でありながら、長物である大槍や大剣を振り回すには微妙に天井の梁が邪魔をする設計になっている。我々のような武将の個の武力を殺し、集団戦法で圧殺するためだ。さらに、床板の軋み一つなく、壁の裏には無数の隠し通路の気配がある。ただの成金の城ではない。ここは、侵入者を絶対に生かして帰さないための、巨大な罠そのものです」
「ふん。小賢しい泥犬の知恵だ。正々堂々と正面から戦う度胸がないから、このようなネズミ捕りを作るのだ」
トウガが忌々しげに吐き捨てる。
しかし、その声はどこか上擦っていた。彼自身も気づかぬうちに、この城に満ちる圧倒的な新しい力の気配に呑まれかけているのだ。
父である覇侯ソウガが支配していたかつての王都の覇宮は、重苦しい恐怖と静寂に支配された冷たい城であった。しかし、この金牙城は違う。城内を行き交う文官や兵士、さらには下働きの者たちに至るまで、彼らの目には支配者への恐怖の色はない。あるのは、自分たちが新しい時代を創っているという熱狂と、確固たる誇りであった。その熱気こそが、没落した旧体制の象徴であるトウガの自尊心を、容赦なく削り取っていく。
やがて、重厚な黒檀で造られた巨大な両開きの扉が、三将の前に現れた。
扉の両脇には、全身を真っ赤な甲冑で包んだ沙那家の精鋭たちが、彫像のように微動だにせず立ち並んでいる。
ギィィィィィン……。
重々しい音を立てて扉が開かれると、そこに広がっていたのは、外の春の光をたっぷりと取り込んだ、目が眩むほどに広く、そして荘厳な大広間であった。
大広間の両脇には、旭州を支える猛将たちがずらりと並んでいた。
巨大な鉄砕棒を傍らに置き、獰猛な笑みを浮かべる特攻隊長ゴウ。
十文字槍を手に、一切の隙を見せずに佇む軍の要、ガク。
真紅の甲冑を纏い、不敵に肩をすくめる若武者レン。
南の海の荒々しさを漂わせる水軍の将リョウガ。
そして、かつては北国の大将軍としてシュウスイたちと共に戦ったはずのハクヤが、今は旭州の将として静かに首を垂れている。
さらに、広間の奥、一段高い場所に設けられた巨大な一枚岩の床几の横には、車椅子に深く腰掛けた悪魔の頭脳、クロウが不気味な笑みを浮かべて控えていた。
そして、その中央。
天下の頂点に立つべき男が座る、黒と金で彩られた玉座に、ジンはいた。
彼は、かつてソウガが纏っていたような威圧的な重装甲ではなく、動きやすさを重視した漆黒の軽装のままであった。片膝を立て、顎を手に乗せながら、泥の中から這い上がってきた野犬の目を細めて、入室してきた三将をじっと見下ろしている。
「……遅かったな、旦那方」
ジンの低く、よく通る声が大広間に響き渡った。
「吹雪が解けるまで、半年も待たせやがって。王都の美味い酒も、すっかり冷めちまったぜ」
その飄々とした態度は、かつて最底辺で泥水をすすっていた薬草売り時代と何ら変わらないように見えた。
しかし、その身から放たれる覇気は、紛れもなく天下を統べる覇王のそれであった。空間そのものがジンの意志によって支配されているような、圧倒的な重圧が三将にのしかかる。
「……貴様ァッ!!」
その重圧を強引に跳ね返すように、トウガが怒号を上げて一歩前に出た。
「その玉座は、父上から受け継がれるべき私のものだ! 泥犬の分際で、よくも己の国を名乗り、天下人を気取れたものだな! 貴様のその薄汚い顔を見るだけで、私の全身の血が怒りで沸騰するわ!」
「若、言葉を慎みなされ」
ガクが、冷たく鋭い声で制止した。
「貴殿の目の前におられるのは、逆賊メイカクを討ち、この天下の平穏を取り戻された旭州覇王、ジン様である。いかに旧主のご子息であろうと、無礼は許さんぞ」
「黙れ、裏切り者どもが! メイカクの反乱に乗じて覇宮を乗っ取り、まんまと国をかすめ取った盗賊の群れが、正義を語るな!」
トウガは腰の長剣の柄に手をかけ、ジンを真っ直ぐに睨みつけた。
その後方では、シュウスイが無言のまま、巨大な大槍の柄をギリギリと握りしめている。シュウスイの体から立ち昇る鬼神の如き闘気が、大広間の空気をビリビリと震わせていた。
ジンは、ガクを手で制し、ゆっくりと立ち上がった。
「盗賊、ねえ。まあ、否定はしねえよ。俺たちは元々、身分も血筋もねえ野犬の群れだ。生き残るには、力ずくで奪うしかなかったんだからな」
ジンは玉座の階段をゆっくりと下り、トウガの数歩手前で立ち止まった。
「だがな、お坊ちゃん。俺が奪ったのは、お前の親父が力で押さえつけて、メイカクのオッサンが理屈で縛ろうとして、結局どうにもならなくなって崩れ落ちた、この国の残骸だ。俺はそれを拾い集めて、俺なりのやり方で新しい家を建てた。それが、この金牙城であり、旭州だ」
「詭弁を弄するな!」
トウガが吠える。
「黎州の歴史は二百年! 白き王が定めた絶対の秩序だ! それを一時的な武力で覆したところで、正統な血筋を持たぬ貴様に天下は治められん! 私は今日、貴様と交渉しに来たのではない。命令しに来たのだ!」
トウガは、懐から一通の書状を取り出し、ジンの足元へと乱暴に叩きつけた。
「条件は三つ! 第一に、帝宮と化した旧王都、およびその周辺の全領土を即刻返還すること! 第二に、旭州というふざけた国号を捨て、再び黎州として私を覇侯と認め、絶対の臣従を誓うこと! 第三に、父上の天下を乱した責任として、貴様の首、あるいは一生涯の奴隷としての奉仕を要求する! これを飲めば、貴様の配下の泥犬どもの命だけは助命してやろう!」
その傲慢極まりない要求が響き渡った瞬間。
大広間の空気が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。
「……てめえ、寝言は雪の中で凍死してから言いな」
ゴウが、額に青筋を浮かべ、巨大な鉄砕棒を引きずりながら前に出ようとした。レンも十文字槍の穂先をわずかに下げ、殺気を隠そうともしない。
「クックック……」
静寂を破ったのは、クロウの気味の悪い笑い声であった。
「これは傑作だ。半年間、雪の中で冬眠している間に、頭の中までお花畑になってしまわれたか。北国で戦勝を飾ったとはいえ、兵糧は底をつき、帰る国すら失った迷子の若君が、この広大な旭州の主に降伏を勧告するとは。喜劇の台本としても三流ですな」
「貴様ら、言うに事欠いて……! シュウスイ! 奴らを斬れ!!」
トウガが激昂し、シュウスイに命令を下す。
シュウスイが一歩、前に踏み出した。
ドンッ!!
ただそれだけで、大広間の床板が悲鳴を上げ、周囲の空気が重くのしかかった。旭州の将たちが一斉に武器を構え、一触即発の極限状態となる。
「……待て、シュウスイ」
ジンが、静かに、しかし絶対的な力を持った声でそれを制した。
ジンは足元に落ちた書状を一瞥すらせず、ただトウガの目を真っ直ぐに見据えた。
「返還、臣従、首を差し出せ、か。……あのな、トウガ。お前はまだ、自分がどうして雪の中で半年も立ち往生する羽目になったのか、わかっちゃいねえんだな」
「なんだと?」
「二百年の伝統だの、正統な血筋だの、親父の無念だの……そんなもんはな、腹を空かせた民の胃袋を一つも満たしちゃくれねえんだよ!」
ジンの怒声が、雷鳴のように大広間に轟いた。
「俺が薬草を売ってた頃、お前の言う正統なる黎州は、民を飢えさせ、野垂れ死にさせていた。ソウガの親分は古い歴史を壊そうとしたが、結局は自分自身が新しい恐怖の象徴になっちまった。メイカクのオッサンは法と秩序で国を守ろうとしたが、人間の泥臭い欲望を理解しきれずに孤立した。結果がどうだ? 黎州は内部から崩壊したんだ」
ジンは自らの胸を強く叩いた。
「俺は、その両方を見た! 泥の中で這いつくばる人間の執念も、国を動かすための冷たい法律も、両方この身に叩き込んだんだ! だから俺は、古い歴史の怨念が染み付いた王都を帝宮という名のただの飾りに変え、この西国に実力主義の新しい拠点を創った! 血筋がなんだ! 歴史がなんだ! 今日一日を必死に生き抜いて、汗水流した奴が一番報われる国。それが俺の創る旭州だ!!」
ジンの言葉は、単なる反論ではない。
それは、二百年の旧体制を完全に破壊し、己の力と意志だけで新たな天下の理を打ち立てた、真の覇王による新世界宣言であった。
「……お前の要求は、一つ残らず却下する」
ジンは、冷酷なまでに断固として言い放った。
「俺は、泥の中からここまで登り詰めた。俺を信じてついてきてくれた連中に、一番高い景色を見せるって約束したんだ。……死んだ親父の威光に縋って喚くだけのガキに、くれてやる国は一寸たりともねえ」
「き、きさまァァァッ!!」
トウガが顔を真っ赤にして長剣を引き抜こうとした瞬間。
「そこまでになされよ、若君」
シュウスイの太く重い腕が、トウガの肩をガッチリと掴んで制止した。
「……シュウスイ! なぜ止める! この屈辱、これ以上耐えられるか!」
「ここで剣を抜けば、我々は一歩も外に出られず全滅する。……それに」
シュウスイは、燃えるような鬼の双眸で、ジンを真っ直ぐに見つめ返した。
シュウスイの胸の奥底で、旧来の武人としての誇りとは全く別の、一人の戦士としての本能が激しく共鳴していた。
ジンの語る言葉には、一切の虚飾がない。血筋や伝統という借り物の鎧を脱ぎ捨て、己の足で泥を踏みしめ、実力だけで天下の頂点に立った男だけが持つ、絶対的な説得力。
ソウガが壊し、メイカクが整えようとした世界を、ジンは最も泥臭く、しかし最も強靭な形で完成させようとしている。シュウスイは、ジンがすでにソウガをも超える天下の器であることを、己の魂の深い部分で完全に認めてしまっていた。
しかし、だからといって、彼がジンに首を垂れることは絶対にない。
二百年の歴史が、武人としての誇りが、そして何より、自分を拾い、右腕として重用してくれた魔王ソウガへの忠義が、それを許さないのだ。
「……ジン。貴様の言い分は、よくわかった」
シュウスイは、地を這うような低い声で言った。
「貴様は確かに、己の力でこの城を築き、民を従わせた。その武と覇気、見事というほかない。……だが、我々黎州の武人は、古い伝統と血脈を重んじる。ソウガ様が遺した黎州の旗を、そう簡単に下ろすわけにはいかんのだ」
シュウスイはトウガを庇うように一歩前に出て、大槍の石突きを床に強く叩きつけた。
「交渉は決裂のようだな。……我々はこれより、金牙城の客間に下がる。数日間の猶予をやろう。我々が完全な軍勢を整えて貴様の喉首を掻き切るか、それとも貴様が考えを改め、少しでも我々に譲歩するか。……よく考えておくことだ」
「……ふん。何度話しても結果は同じだぜ、鬼の旦那」
ジンは鼻で笑い、再び玉座へと背を向けた。
「客間は用意してある。せいぜい、俺たちの新しい城の飯でも食って、頭を冷やしてくるんだな」
トウガは最後までジンを呪うような目で睨みつけながら、シュウスイに促されるようにして大広間を後にした。
ゲントは、無言のままジンの陣容とクロウの存在をもう一度だけ視線で確認し、静かに踵を返した。
巨大な両開きの扉が閉まり、三将の姿が見えなくなると、大広間に張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
「親父。あんな奴ら、ここで全員首を刎ねちまえばよかったじゃねえか。戦をするなんて、手間の無駄だぜ」
ゴウが不満そうに鉄砕棒を肩に担ぐ。
「駄目だ、ゴウ」
ジンは玉座に深く腰掛け、大きく息を吐き出した。
「あいつらは、使者としてこの城に来たんだ。ここで騙し討ちにすれば、俺たちの創る旭州は、最初から筋を通さねえ卑怯者の国になっちまう。それに……」
ジンは、扉の向こうへと消えていったシュウスイの背中を思い出し、目を細めた。
「あの鬼の旦那は、俺の言葉を全部理解した上で、それでも意地を通そうとしてる。……あのオッサンと同じだ。そういう本物の武人の誇りは、正面から叩き潰さなきゃ、天下は本当の意味で一つにはならねえんだよ」
「……その通りですな」
クロウが、車椅子の車輪を回しながらジンの傍らに近づいた。
「武人の誇り、旧来の伝統。それらは目に見えない厄介な呪いのようなもの。しかし、呪いであるならば、解く方法も必ず存在します」
クロウの細い瞳が、悪魔のような紫色の光を帯びて妖しく輝いた。
「ジン殿。若君と鬼神の首は鋼でできておりますが……あの中にもう一人、極めて優秀で、それゆえに理性という脆い弱点を持った男がおりましたな」
「……ゲントか」
ガクが眉をひそめる。「あの男はソウガへの忠誠心が異常なまでに高い。そう簡単に揺らぐ男ではないぞ」
「クックック。忠誠心が高いのではなく、彼が信じているのは軍規と秩序です。ならば、その秩序の天秤に、旭州の圧倒的な正理を乗せてやればよい。……彼らの滞在する数日間。少々、私にお任せいただけますかな?」
「好きにしろ、クロウ。だが、殺すなよ。ゲントの指揮能力は、俺たちの国にも喉から手が出るほど欲しいもんだ」
ジンはニヤリと笑い、クロウに全権を委ねた。
天下を二分する旭州と北国討伐軍。
その激突を前にした金牙城での会談は、初日から完全に平行線をたどり、決裂への道をひた走っていた。
しかし、盤面の下ではすでに、悪魔の頭脳による恐るべき心理戦の糸が、静かに、そして確実に張り巡らされようとしていたのである。




