第78話 泥犬の覇道と、血脈の終焉
西国の大平原を覆い尽くしていた喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
悲鳴も、怒号も、爆発音も、まるで分厚い泥の壁の向こう側に隔てられたかのように、トウガの耳には届かなくなっていた。
視界にあるのは、どんよりと垂れ込めた灰色の空と、見渡す限りの血と泥。そして、その陰惨な景色の中心にただ一人、圧倒的な存在感を放って立つ漆黒の影だけであった。
「……ハァッ……ハァッ……」
トウガは、黄金の甲冑を鉛のように引きずりながら、泥の中に突き立てた自らの長剣を杖代わりにして、辛うじて立ち上がった。
兜を失い、泥と血に塗れた若き猛将の顔には、かつての傲慢なまでの自信は微塵も残っていない。あるのは、理解の及ばない現実に対する恐怖と、それを誤魔化すための激しい憎悪だけであった。
彼の周囲には、いつの間にか旭州の精鋭たちが幾重にも円陣を組み、広大な戦場の中に「二人だけの決闘場」を作り出していた。
ゴウが鉄砕棒を肩に担いで鼻を鳴らし、レンが十文字槍を手に静かに見守り、ガクとゲントが氷のような視線でこちらを見据えている。しかし、彼らは誰一人として手出しをしようとはしなかった。
これは、新しい時代を創る覇王と、古い時代の残骸にしがみつく若虎との、最後にして神聖なる儀式なのだと、彼らは理解していたからだ。
「ジ、ジン……ッ!!」
トウガの喉から、血の混じった呪詛のような声が漏れた。
「貴様が……貴様のような下賤な泥犬が、私の父上を……私の国を……私の誇りをォォォッ!!」
トウガは、泥から長剣を引き抜き、よろけながらもジンに向かって剣先を向けた。
その構えは、かつて魔王と恐れられた父ソウガから受け継いだ、黎州王家の正統なる剣術の型であった。大上段から振り下ろされる一撃で敵を両断する、圧倒的な破壊力と美しさを兼ね備えた絶対の剣。
しかし、その構えを正面から見据えるジンの瞳には、一切の揺らぎも、警戒の色すらもなかった。
ジンは、泥に汚れた長剣をだらりと右手に下げたまま、まるで道端の石ころでも見るかのように、ただ静かにトウガを見下ろしている。
「……誇り、だと?」
ジンの低く、地を這うような声が、冷たい風に乗ってトウガの鼓膜を打った。
「兵站を無視して突っ走り、腹を空かせた部下たちに西国の民を殺させ、略奪させ、最後には自分を守ろうとした近衛兵まで自らの手で斬り捨てた。……その無様な姿のどこに、誇りなんて立派なもんが残ってんだよ、お坊ちゃん」
「黙れッ! 貴様のような下民に、天に選ばれた私の何が分かるというのだ! 私は黎州の正統なる継承者だ! この天下は、私のものになるはずだったのだァァァッ!!」
トウガは絶叫と共に大地を蹴り、ジンに向かって一直線に突進した。
重い甲冑の音を響かせ、大上段に構えた長剣が、空気を裂いてジンの脳天へと振り下ろされる。
父の血脈が宿る、渾身の一撃。剣の軌道は美しく、もし相手が普通の武将であれば、その気迫と剣筋に見惚れ、一瞬で両断されていたかもしれない。
しかし。
キィィィンッ!!
甲高い金属音が平原に響き渡った。
トウガの渾身の一撃は、ジンが片手で軽く持ち上げた長剣の腹によって、いとも容易く受け止められていた。
「な……っ!?」
トウガは驚愕に目を見開いた。
自分の剣の威力が完全に殺されている。刃と刃が拮抗しているのではない。ジンは、トウガの剣の力を力で押し返すのではなく、手首の絶妙な返しによって剣の軌道を僅かにずらし、その威力を泥の大地へと完全に逃がしていたのである。
「軽いな」
ジンの冷酷な声が、トウガの耳元で囁かれた。
「道場で綺麗な素振りだけを繰り返してきた、お上品な剣だ。……人を殺す覚悟も、生き残るための執念も、何も乗ってねえ」
刹那、ジンの姿がトウガの視界から消えた。
いや、消えたのではない。ジンは剣を受け流した反動を利用して、トウガの懐へと瞬時に潜り込んだのだ。
「がはっ!?」
ジンの肘が、トウガの鳩尾の装甲の隙間を的確に打ち抜いた。
肺の中の空気をすべて吐き出させられ、トウガの体が「く」の字に折れ曲がる。そこに、ジンは下から蹴りを放ち、トウガの膝の裏を容赦なく刈り取った。
「ぐああッ!」
トウガは無様にバランスを崩し、仰向けに泥の中へと倒れ込んだ。
頭から泥水を被り、口の中に鉄の味と土の味が広がる。
「おのれ……! おのれェェェッ!」
トウガは泥にまみれながらも必死に立ち上がり、再びジンに向かって剣を振り回した。
今度は型などない。ただ怒りと屈辱に任せた、大振りの連続攻撃である。
右からの横薙ぎ、左からの斬り上げ、そして喉元を狙った突き。
しかし、そのすべてが、ジンの体をかすりもしない。
ジンは、まるで舞を踊るように、最小限の動きでトウガの刃を躱していく。
一歩下がり、半身になり、時には刃が鼻先を掠める距離で首を傾けるだけ。幾多の死線を越え、生き残るためだけに最も効率的な殺し合いをしてきたジンにとって、怒りで我を忘れたトウガの剣筋など、止まって見えるほどに単調で遅かった。
「なぜだ! なぜ当たらない! 私は父上の血を引いているのだぞ! 貴様のような野犬に、私が後れを取るはずがないのだ!!」
トウガは発狂したように剣を振り続ける。
彼の脳裏には、城の道場で剣術の稽古をしていた頃の記憶がよぎっていた。
指南役の武将たちは、トウガの振るう剣を「見事な太刀筋でございます」「さすがはソウガ様の血を引く若君」と称賛し、誰も彼に本気で打ち込んでくることはなかった。彼は常に勝者であり、誰もが彼の血脈にひれ伏していた。
だが、ここは道場ではない。血と泥と臓物が散乱する、本物の死地である。
ジンは、血筋などという目に見えない幻影には一ミリの価値も見出していない。ただ目の前の「敵」を、最も確実に、最も効率よく機能停止させることだけを考える、冷酷な捕食者であった。
「……血脈だと?」
トウガの大振りの斬り下ろしを、ジンは半歩退いて完全に空振らせた。
トウガの剣が泥の大地に深々と突き刺さり、一瞬だけ動きが止まる。
その致命的な隙を、ジンは見逃さなかった。
ドンッ!!
ジンの蹴りが、泥に突き刺さったトウガの長剣の刃の側面を強打した。
「あっ……!」
強烈な衝撃によって、トウガの手から剣が弾き飛ばされ、はるか遠くの泥沼へと消えていく。
武器を失い、完全に無防備となったトウガの首筋に、ジンは冷たい長剣の切っ先をピタリと突きつけた。
「ひっ……!」
トウガの喉が引きつり、その場にへたり込んだ。
見上げれば、逆光を背負い、漆黒の外套を羽織ったジンが、まるで地獄の底から這い出してきた悪魔のような冷たさでこちらを見下ろしている。
「血脈なんて薄っぺらいモンで、戦に勝てるわけがねえだろうが」
ジンの声には、怒りよりもむしろ、底知れぬ呆れと哀れみが混じっていた。
「お前は、親父の遺した巨大な財産と名前の上にあぐらをかいて、ただ綺麗な景色を見ていただけだ。……だから、泥の底に広がる現実ってもんを、一寸たりとも理解しちゃいねえ」
ジンは、トウガの首筋に刃を突きつけたまま、ゆっくりと彼に近づいた。
「俺はな、お前が城で温かい飯を食ってた頃、この西国の泥水をすすって生きてきた。腐った死体から金目のもんを剥ぎ取り、少しでも高く売れる薬草を探して、野犬と殺し合いをしてきたんだ」
ジンの言葉と共に、トウガは彼の瞳の奥に、得体の知れない広大な闇の深淵を見た気がした。
「俺の剣は、生きるための剣だ。一振りごとに、俺が殺してきた奴らの命と、俺を信じて死んでいった奴らの想いが乗ってんだよ。……お前みたいに、自分のプライドを満たすためだけに振るう、お遊びの棒切れとは重さが違うんだ」
トウガは、全身の震えを止めることができなかった。
目の前にいる男は、ただの野犬ではない。
旧時代の覇侯ソウガの右腕だった鬼神シュウスイとも、知将ゲントとも違う。
泥の底の醜さと生命力を知り尽くし、その上で天下万民の胃袋と命を背負うという、恐るべき覚悟を持った「真の覇王」の姿がそこにあった。
「私が……私が間違っていたというのか……」
トウガの口から、無意識のうちに絶望の言葉がこぼれ落ちる。
「ああ、間違ってる。お前は、上に立つ者としての責任ってやつを、何一つ分かっちゃいなかった」
ジンは、氷のような目でトウガを断罪した。
「腹を空かせた部下を放置して、自分だけが勝利に酔いしれる。略奪を止められず、民を殺させる。最後には、自分の無能を棚に上げて、部下を裏切り者と罵って斬り捨てる。……お前が振りかざしていたのは、正統な血脈でも覇道でもねえ。ただの子供のワガママだ」
ジンの言葉の一つ一つが、トウガの肥大化した自尊心を完全に、そして残酷なまでに叩き割っていく。
「こんなガキの遊びに付き合わされて、西国の民は死に、お前の兵士たちも無駄死にをした。……シュウスイのオッサンやゲントが、どんな思いでお前に尽くしてきたか、お前のその小さな頭じゃ、一生かかっても理解できねえだろうな」
トウガは、泥の中に両手をつき、ポロポロと涙をこぼし始めた。
悔し涙ではない。己の未熟さ、浅はかさ、そして取り返しのつかないほどの愚かさを、これ以上ないほどに残酷に突きつけられたことによる、完全な精神の崩壊であった。
「あ、あああ……父上……ソウガ様……私は……私は……」
トウガは泥に顔を押し付け、もはや覇侯の威厳など微塵もない、ただの泣きじゃくる子供のような声を上げて咽び泣いた。
二百年の歴史を誇る黎州の血脈。
その最後の希望であった若き猛将は、ジンの圧倒的な器の大きさと、背負っている天下の重みの違いを前に、完全にその心を折られ、戦場という泥濘の中で無惨に敗北したのである。
「……もう終わりだ、トウガ」
ジンは、泣き崩れるトウガの頭上に、泥に汚れた長剣を静かに振り上げた。
その目には、憎しみはない。
ただ、古い時代の残骸を完全に掃除し、新しい天下の礎を築くという、覇王としての冷徹な義務感だけが宿っていた。
刃が冷たい風を切り裂き、血と泥に塗れた西国の大平原に、最後の処刑の時が訪れようとしていた。




