第7話 臥竜の咳払いと泥を啜る知恵
黎州の西端に位置する『霞懸の峰』は、その名の通り一年中濃い霧に覆われた険しい岩山である。
旧煌州の領地であったこの一帯は、覇侯ギエンの死によって支配者が不在となり、現在はどの勢力の手も及んでいない空白地帯となっていた。山賊すら寄り付かないとされるこの不気味な山道を、三つの人影が黙々と登っていた。
「あー……くそっ。なんだってこんなジメジメした山を登らなきゃならねえんだよ。腹減ったぜ、大将」
巨大な木の根の棍棒を肩に担ぎ、大げさなため息をついたのは、泥犬部隊の特攻隊長であるゴウだ。彼の顔には不満が露骨に浮かんでおり、周囲の濃い霧を忌々しげに睨みつけている。
「文句を言うな、ゴウ。足元に集中しろ。この霧はただの霧じゃない。視界を奪うだけでなく、方向感覚を狂わせる」
その後ろから、先端に石を括り付けた竹竿を杖代わりにして歩く無口な少年、ガクが冷たく嗜めた。彼の目は油断なく周囲の木々の配置や、足元の苔の生え方を観察し続けている。
「ガクの言う通りだぞ、ゴウ。この霧の中には『幻惑草』の花粉が混じってる。長く吸い込めば、幻覚を見て崖から落ちるか、自分の首を絞めることになる。さっき渡した『苦ヨモギの根』、ちゃんと噛んでるだろうな?」
先頭を歩くジンが、振り返らずに言った。彼の口元には、強烈な苦味を持つ草の根が咥えられており、ゴウとガクも同じようにそれを噛み続けていた。
ここはただの自然の山ではない。何者かによって意図的に配置された、天然の罠が張り巡らされた防衛陣地なのだ。
「しかし、親父。本当にこんな山奥に、アンタが探してる『天才』とやらがいるのか? 俺にはただの死の山にしか見えねえ」
ガクの問いに、ジンは前方のさらに濃い霧を見据えながら頷いた。
「ああ、いるはずだ。俺はすでに二度、使者を送ったんだが、どいつもこいつもこの霧の罠にビビって逃げ帰ってきやがった。だから、三度目の今回は俺が直接出向くことにしたのさ。……相手は元々、西の小国で軍師を務めていた男だ。名前はシオン」
ジンは、行商人の間で流れていた噂を思い返していた。
シオンという男は、かつて存在した小さな国の軍師であり、その悪魔的な知略で大国からの侵略を幾度も退けたという。しかし、その国の君主が『武人の誇り』にこだわり、シオンが提案した「降伏を装った騙し討ち」という非情な策を拒否した結果、国は滅亡した。シオン一人が生き残り、世を儚んでこの霞懸の峰に隠遁したのだという。
「誇りだの名誉だのってくだらねえ理由で国を滅ぼされた軍師様だ。きっと、今の俺たちと同じくらい、この世界の綺麗事に反吐が出てるはずさ。俺の部隊の『脳みそ』にするには、これ以上ない人材だ」
ジンたちが霧と幻惑草の罠を抜け、ようやく視界が開けた山頂付近に辿り着いた時、そこには朽ちかけた小さな庵がポツンと建っていた。
周囲には手入れされた薬草の畑があり、軒先には干し肉や獣の皮が吊るされている。少なくとも、誰かがここで生活しているのは間違いない。
「おい、誰かいるか! 黎州の百人将、ジン様がわざわざ迎えに来てやったぞ!」
ゴウが空腹の苛立ちに任せて大声で叫ぼうとした瞬間、庵の中から、肺を絞り出すような激しい咳き込みの音が聞こえてきた。
「ゲホッ……ゴホッ……ケホッ……」
血を吐くようなその音に、ゴウも思わず口を噤む。
やがて、ギィと音を立てて庵の粗末な板戸が開き、一人の男が姿を現した。
年齢はジンより少し上、二十代の半ばといったところだろうか。しかし、その姿はあまりにも痛々しかった。
かつては上等であっただろう絹の着物はすり切れ、泥と染みで薄汚れ、その下にある身体は枯れ木のように痩せ細っている。肌は太陽の光を長年浴びていないように青白く、目の下には深い隈が刻まれていた。そして何より、手にした布の端には、赤黒い血の染みが付着している。
しかし、その男の瞳だけは、病弱な肉体とは裏腹に、氷のように冷たく、刃のように鋭い知性の光を放っていた。
「……私の張った幻惑草の陣を、たった三人で、しかも力押しではなく解毒して抜けてくるとは。……ゲホッ。二度も逃げ帰った黎州の犬どもとは、少し毛色が違うようですね」
男は、冷ややかな声でそう言い放った。
「あんたがシオンだな。噂通りの病弱ぶりで安心したよ。俺はジン。黎州覇侯ソウガの下で百人将をやってる。あんたのその悪賢い頭脳を、俺の部隊に高く売りつけに来た」
ジンが単刀直入に用件を切り出すと、シオンは微かに眉を動かし、フッと乾いた笑いを漏らした。
「ジン……ああ、なるほど。田楽狭間の奇襲で煌州のギエンの首を獲り、先日も犬牙砦を土竜攻めで落としたという、あの下劣極まりない山賊上がりの将ですか。……ゴホッ。道理で、泥と獣の匂いがするわけだ」
「下劣で結構。俺たちは泥水啜って生き延びるしか能がないネズミだからな」
ジンの背後でゴウが棍棒を構え、ガクが竹竿を握り直したが、ジンは手でそれを制した。
「帰ることです。私はもう、誰の覇道にも手を貸す気はありません」
シオンは庵の戸を閉めようとしながら、冷淡に言い捨てた。
「黎州のソウガは、実力主義を掲げ、旧来の秩序を破壊していると聞く。だが、結局のところやっていることは、領土と血を欲する他の獣と何も変わらない。武人の誇りという飾りを外しただけで、その本質はただの暴力の拡大だ。私が仕えていた愚かな君主も、最後は綺麗事の飾りに縋って死んだ。……人は皆、己の欲望と見栄のために他者を殺す。そんな無意味な血塗られた遊戯の盤面を、私が再び操作する理由など、どこにもないのです」
それは、己の知略が綺麗事の前に敗れ去った男の、深すぎる絶望と虚無から来る言葉だった。
軍師としてどれほど完璧な策を練ろうと、それを行使する君主が感情や名誉に囚われれば、全ては水泡に帰す。シオンは人間そのものに、そしてこの乱世というシステムそのものに見切りをつけていた。
「無意味な遊戯、ね。確かに、偉い奴らのやってる国盗り遊びなんて、俺たち下民からすりゃ大迷惑なだけのクソゲーさ」
ジンは鼻を鳴らし、シオンの庵の前にどっかりと胡座をかいた。
「俺は、ソウガの掲げる天下統一だの、新しい世界だのにはこれっぽっちも興味がねえ。あんなものは、あの上役が勝手に見てる夢だ」
「……では、なぜ戦うのですか?」
シオンが冷たい目を向ける。
「飯を食って、生きるためだ。それ以外に理由があるか?」
ジンは腰に下げていた水袋を外し、中の水を一口飲んでから続けた。
「俺は元々、山で薬草を摘んで売るだけの最下層の民だ。明日食う飯があるかもわからず、いつ他国の兵隊に遊び半分で殺されるか怯えるだけの人生だった。だが、ソウガの足軽になって、敵の首を獲るごとに、支給される飯の量が増え、着る物が良くなり、こうして百人の部下を持つまでになった」
ジンは、ガクとゴウを親指で指し示した。
「こいつらも同じだ。戦災孤児で、路地裏で泥を舐めて生きてきた野犬共さ。俺たちは、誇りだの天下だののために戦ってるんじゃない。今日よりも明日、少しでも美味い肉を食うために、敵の寝首を掻いてるんだよ。それが俺たちの『戦』だ」
シオンの瞳に、僅かな動揺の色が走った。
これまで彼が見てきた武将たちは、皆一様に大義や名誉、あるいは野望を口にしていた。しかし、目の前にいるこの泥まみれの男は、ただ純粋な『生存と飢え』だけを理由に戦場に立っているというのだ。
「……愚かな。そのような低い志で、この絶望的な乱世を生き抜けると思っているのですか? いずれ、ソウガの強大な野望という濁流に飲み込まれ、使い捨ての駒として死ぬのがオチだ。……ゲホッ、ゴホッ」
「だから、あんたの頭が必要なんだよ」
ジンは立ち上がり、シオンに向かって真っ直ぐに歩み寄った。
「俺の頭じゃ、せいぜい砦を一つ騙し討ちで落とすのが限界だ。これから先、万単位の軍勢がぶつかり合う本格的な戦になれば、俺の小手先のゲリラ戦法じゃ、この百人の部下ごとすり潰されて終わる。……俺には、俺たちを死なせないための、盤面全体を見渡せる悪魔の頭脳が必要なんだ」
ジンはシオンの目の前でピタリと止まり、その目を覗き込んだ。
「あんたは綺麗事に絶望した。だったら、一番汚い俺たちの泥舟に乗ってみろよ。俺の部隊には、武人の誇りも、名誉も、しがらみも一切ない。あんたがどれだけ残酷で、非情で、外道な策を思いつこうが、俺は一切否定しない。あんたの策が俺たちを生かし、敵を殺せるなら、泥水でも毒でも喜んで飲んでやる」
シオンは無言のまま、ジンを見つめ返していた。
彼のかつての君主は、シオンが敵の井戸に毒を投げ入れる策を提案した時、「そのような卑劣な手段は武士の道に反する」と激怒し、シオンを遠ざけた。その結果が、民の虐殺と国の滅亡である。
「……私の策を、一切否定しないと?」
「ああ。結果を出せるならな」
シオンは咳を抑えながら、静かに、しかし試すような口調で問いかけた。
「ならば、一つ聞きましょう。もし、あなたの主君であるソウガが、自らの覇道のために、あなたとこの百人の部下に『確実に死ぬ囮の任務』を命じたとしたら……あなたはどうしますか?」
それは、忠誠心と生存本能を天秤にかける、極めて悪意に満ちた質問だった。
しかし、ジンは一秒の迷いもなく、ニヤリと笑って答えた。
「決まってんだろ。適当に戦うふりをして、一番安全なルートからさっさとトンズラするさ。ソウガの覇道のために、俺たちが死んでやる義理はねえ。首が繋がってさえいれば、また別の場所で飯を食う方法はいくらでもあるからな」
その答えを聞いた瞬間。
シオンは、しばらく呆然とジンを見つめ……やがて、肩を震わせ始めた。
「クッ……フフフ……ハハハハハハッ!!」
それは、シオン自身も驚くほどの、心底からの大爆笑だった。笑いすぎて激しく咳き込み、口の端から血の混じった唾液が飛んだが、それでも彼は笑うのをやめられなかった。
戦場において最も尊ばれる『主君への絶対の忠誠』を、百人将の身でありながらこれほど清々しく、堂々と否定する男。いっそ清々しいほどのクズであり、生き汚さの極みである。
「アハハハッ……ゴホッ、ゲホッ! ……なるほど。あなたは、英雄でも覇王でもない。ただの、最高に悪賢い雑草だ」
シオンは笑い涙と血を袖で拭いながら、ようやく呼吸を整えた。
その目からは、先ほどまでの虚無の濁りが消え去り、かつて西の小国で天才と謳われた頃の、鋭く危険な光が蘇っていた。
「よろしい。どうやらこの世界には、まだ私の悪意と知略を注ぎ込むに足る、面白い器が残っていたようだ。……ただし、私は体が弱い。戦場で槍一本振るうことはできません。私は後方で指示を出すだけ。実行するのは、あなたたち泥犬です」
「それでいい。俺たちの手足は、あんたの描くどんな酷い絵図面でも、文句言わずに動いてやるよ」
ジンが手を差し出すと、シオンはその泥だらけの手を、自らの細く青白い手でしっかりと握り返した。
「一つ、最初の献策です、ジン殿」
シオンが早速、軍師としての顔つきに変わる。
「この山を降りる際、私が仕掛けた幻惑草の罠を全て回収して持ち帰りましょう。あれを乾燥させて粉末にすれば、風向き次第で敵の一軍を丸ごと同士討ちさせることができます。……もったいないですからね」
「……ははっ、こりゃ頼もしい。さすがは悪魔の軍師様だ」
ジンは呆れたように笑いながらも、その徹底した合理性に背筋が寒くなるのを感じた。
ガクはシオンの知性に畏敬の念を抱いたように静かに頷き、ゴウは「罠を掘り返すのは俺の役目かよ」と再び文句を垂れ始めた。
こうして、無口な猛将の卵、狂犬の特攻隊長に加え、黎州軍のみならず大陸全土を後に恐怖のどん底に陥れることになる病弱の天才軍師が、ジンの陣幕に加わったのである。
最下層の薬草売りを頂点とした、武人の誇りを一切持たない異端の部隊『ジン隊』の頭脳が、ついに覚醒の時を迎えた。
彼らが次に盤面を引っ掻き回すのは、黎州軍の歴史において最も過酷で、最も絶望的な戦いとなる『撤退戦』の舞台である。
しかし、その地獄の底でこそ、この泥に塗れた者たちの真価が発揮されるのだ。




