第8話 悪魔の献策と死地への誘い
黎州軍における異端の独立部隊、ジン隊の野営地は、病弱な天才軍師シオンを迎え入れてからというもの、その様相を一変させていた。
「ゲホッ……ゴホッ。動きが鈍いですよ、あなたたち。死にたいのですか」
青白い顔でひきつったような咳をしながら、シオンは床几に腰掛け、冷徹な目で練兵場を見渡していた。彼の膝には毛布が掛けられ、手には温かい白湯の入った木の椀が握られている。その病的な姿とは裏腹に、彼が放つ言葉は凍てつくような殺気を帯びていた。
練兵場では、百人の泥犬たちが全身泥まみれになりながら、奇妙な訓練をやらされている。彼らが持っているのは槍や剣ではなく、麻縄、手斧、そして無数の小さな竹筒だった。
「いいですか。あなたたちのような素人が、正規兵と正面から武器を打ち合えば十秒で挽肉になります。あなたたちが学ぶべきは、いかに敵に気付かれずに足を奪い、視界を奪い、呼吸を奪うか。ただそれだけです」
シオンの指示のもと、ガクが竹竿を使って森の中に巧妙な鳴子と罠線を張り巡らせていく。その精密な作業を、シオンは満足げに頷いて見ていた。
一方、不満を爆発させていたのはゴウである。彼は竹筒に入った細かい砂と砕いた唐辛子の粉末を混ぜる作業をさせられており、くしゃみを連発していた。
「ハックション! くそっ、なんで俺がこんなチマチマしたこと……俺は最前線で敵の頭をカチ割りたいんだよ! こんな砂遊び、戦じゃ役に立たねえだろうが!」
「馬鹿が。その砂遊びが一番の武器になるんだよ」
背後からゴウの頭を軽く小突いたのは、部隊長のジンだった。彼は腕を組み、シオンの横に立って部下たちの訓練を眺めていた。
「敵の重装歩兵が密集して突っ込んできたら、お前の馬鹿力でも三人が限界だ。だが、この『目潰し粉』を風上から撒けば、五十人の動きを同時に止められる。その隙にお前が横から頭をカチ割ればいい。……そうだろ、軍師殿」
「ええ。ゴウの暴力的な膂力は得難い手駒ですが、使い所を間違えればただの肉の壁です。私の盤面では、全ての駒に役割を与えます。無駄死には許しません」
シオンは白湯をすすり、静かに目を閉じた。
ジンはこの数日間で、シオンという男の恐ろしさを肌で感じていた。彼は人間の感情や武人の誇りというものを一切信用しておらず、戦場を純粋な「数字と効率」だけで計算する。
泥水啜って生き延びてきたジンの生存本能と、シオンの冷酷な計算能力。この二つが組み合わさった時、ジン隊は単なる浮浪者の集まりから、黎州軍で最も厄介な暗殺部隊へと変貌しつつあった。
その日の午後。
黎州軍の本陣から、全将校を召集する早馬が駆け込んできた。
大天幕に集められたのは、先陣大将のシュウスイをはじめとする数十名の武将たちである。ジンもまた、百人将の末席としてシオンを伴って参加していた。シオンの姿を見た武将たちは、病弱な文官がなぜ軍議の場にいるのかと眉をひそめたが、ソウガの直属部隊であるジンの連れとあっては表立って文句を言う者はいなかった。
中央の巨大な床几に深く腰掛けた覇侯ソウガは、立ち並ぶ武将たちを見下ろし、獰猛な笑みを浮かべた。
「皆の者、朗報だ。旧煌州の残党どもが立て籠もっていた最後の要衝、『紅牙城』を落とす時が来た」
その言葉に、天幕の中がどよめいた。
紅牙城は、かつての覇侯ギエンの親族が守る堅牢な城であり、黎州の西側への進出を阻む最大の障壁であった。これを落とせば、旧煌州の領地は完全にソウガのものとなる。
「しかしソウガ様」
シュウスイが一歩前に出て進言した。
「紅牙城へ至るには、『金啼の谷』と呼ばれる細く長い隘路を抜けねばなりません。あそこは現在、中立を保っている豪族・アサクラの領地。もし我々が谷を進軍中にアサクラが裏切れば、前後の退路を絶たれ、袋のネズミとなります」
シュウスイの懸念はもっともだった。金啼の谷は両側を切り立った崖に挟まれた死地である。
しかし、ソウガは余裕の笑みを崩さなかった。
「案ずるな。昨夜、そのアサクラから密書が届いた。奴らは我々黎州の圧倒的な武威に恐れをなし、軍門に降ると言ってきた。我々の紅牙城攻めに対し、アサクラは谷の通行を全面許可し、さらに自軍の兵糧まで提供すると申し出ている」
武将たちから安堵と歓喜の声が上がった。
中立の豪族が味方についたとなれば、紅牙城の陥落は時間の問題である。シュウスイでさえも、「ならば我らの勝利は揺るぎない」と深く頷いた。
「全軍、明日出陣する。総勢一万。俺自らが本陣を率い、紅牙城の残党どもを一人残らず撫で斬りにしてくれる。各将、出立の準備を急げ!」
ソウガの号令と共に軍議は解散となり、武将たちは意気揚々と天幕を後にした。
しかし、その中でただ一人、ジンだけは浮かない顔をしていた。彼の横に立つシオンが、口元を布で覆いながら、誰にも聞こえない声で低く、不気味な笑い声を漏らしていたからだ。
「……何が可笑しいんだ、軍師殿」
自陣に戻るなり、ジンはシオンに問い詰めた。
シオンは天幕の入り口を閉め、ジン、ガク、ゴウの三人を集めると、地面に木の枝で金啼の谷の地図を描き始めた。
「ジン殿。あなたは山で狩りをする時、獲物をどうやって仕留めますか?」
「どうって……罠を仕掛けて、餌を置いて、獲物が一番無防備になったところを背後から狙う」
「その通りです。ゲホッ……。では、今のアサクラの動きは、どう見えますか?」
シオンの冷たい問いかけに、ジンはハッとして地面の地図を見た。
「無傷の大軍を、狭い谷底へ招き入れる。そしてご丁寧に兵糧まで差し出す……。まるで、罠の奥深くまで獲物を誘導するための『極上の餌』じゃねえか」
「御名答です。アサクラは降伏などしていない。旧煌州の残党と裏で通じていますよ。我々の一万の軍勢が金啼の谷の中央に差し掛かった瞬間、前方の紅牙城から残党軍が打って出ます。そして同時に、背後からアサクラの軍勢が蓋をする。完璧な挟撃。退路を断たれた我々は、谷底で全滅するでしょうね」
シオンの予言に、ガクの目が鋭く細められ、ゴウが信じられないという顔で声を上げた。
「お、おい! それならなんでさっきの軍議で言わなかったんだ! 今すぐソウガ様に知らせて、出陣を取りやめさせねえとマズいだろうが!」
ゴウが立ち上がろうとするのを、ジンが無言で腕を掴んで引き留めた。
ジンの目は、シオンの瞳の奥にある底知れない悪意の深淵を覗き込んでいた。
「……言わなかったんじゃない。『言わなかった方が、俺たちにとって都合がいい』んだろ? シオン」
ジンの問いに、シオンは満足げに薄く微笑んだ。
「その通りです、ジン殿。軍師の役目とは、味方を勝たせることだけではない。時には味方を窮地に陥れ、その中で特定の人物の『価値』を極限まで高めることも含まれます」
シオンは咳き込みながら、木の枝で地図の「背後」の部分を強く叩いた。
「ソウガの軍勢は、罠に落ちます。挟撃を受け、大混乱に陥るでしょう。その絶望的状況の中で、ソウガが生き延びる道はただ一つ。誰かが『殿』を引き受け、背後のアサクラ軍の足止めをしている間に、本陣だけを強引に前方の血路から脱出させるしかない」
殿軍。
それは撤退戦において最後尾に残り、迫り来る敵軍の猛攻を一身に受けて味方を逃がす、文字通りの『死に役』である。生還の可能性は万に一つもなく、全滅が前提の絶望的な任務だ。
「いいですか、ジン殿。この乱世において、最も主君の恩を売り、絶対的な地位を築くことができるのは、敵の大将の首を獲った者ではありません。『主君の命を救うために死地に残った者』です。田楽狭間でギエンの首を獲ったあなたの評価は、まだ成り上がりの小悪党に過ぎない。しかし、ここでソウガの命を身を呈して救えば、あなたの黎州における地位は、あのシュウスイをも凌駕する絶対的なものとなる」
「……本気で言ってるのか、アンタ。俺たち百人に、一万の敵軍の足止めをして死ねってことかよ!」
ガクでさえも、シオンの狂った献策に声を荒げた。
「死ねとは言っていません。……死ぬ気で足止めをして、生き延びろと言っているのです。ゲホッ。まともに戦えば一瞬で全滅します。だからこそ、泥犬のあなたたちの出番だ。罠と毒と地形を使い尽くして、敵の進軍を丸二日遅らせる。そして、誰よりも早く逃げるのです」
シオンはジンの目を見据えた。
「この死の博打、乗りますか? これはただの生き残りゲームではない。覇道の中枢へ食い込むための、極上の毒薬です」
常人であれば、恐怖に震えて逃げ出すような提案だ。味方を見殺しにして罠にかけ、その尻拭いを自分たちで行うという狂気の沙汰。
しかし、ジンは静かに笑い出した。
それは、シオンの悪魔的な知略に対する賞賛であり、己の生存本能を極限まで試されることへの歓喜でもあった。
「……いいだろう。その極上の毒薬、俺たちが飲み干してやる。ガク、ゴウ。お前ら、明日から地獄の底を這いずり回るぞ。死にたくなければ、俺の言うこととこの悪魔の指示に絶対服従しろ」
ガクは無言で深く頷き、ゴウは「上等じゃねえか、暴れてやるぜ」と牙を剥いた。
そして翌日。
黎州の一万の大軍は、ソウガの指揮の下、意気揚々と金啼の谷へと進軍を開始した。
先陣をシュウスイが務め、本陣は中央を堂々と進む。ジン隊は、最後尾の荷馬車の護衛という名目で、軍の最後尾に配置されていた。これはシオンが軍の配置係を買収し、意図的に最後尾に組み込ませたものである。
谷の中央部、両側から岩肌が迫る最も狭い地帯にソウガの本陣が差し掛かった頃。
空に、一本の赤い鏑矢が甲高い音を立てて放たれた。
「……始まったな」
最後尾を歩いていたジンが、空を見上げて呟いた。
その直後、前方のシュウスイの先陣から、怒号と悲鳴が沸き上がった。紅牙城の残党軍が、突如として谷の前方を塞ぐように姿を現し、雨あられと矢を射掛けてきたのだ。
「敵襲ゥゥッ! 前方に伏兵あり!!」
本陣が動揺する中、さらに絶望的な報告がソウガの元に駆け込んだ。
「ソウガ様! 後方より、アサクラの軍勢が猛烈な勢いで接近! 我々の退路を塞ぐ動きを見せております! その数、およそ五千!」
「何だと……!? アサクラが裏切ったというのか!」
ソウガの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
罠に落ちた。完全に前後の退路を断たれ、身動きが取れない狭い谷底で挟み撃ちにされたのだ。このままでは、一万の軍勢が混乱の中で押し潰される。
「おのれ、卑怯な真似を! ソウガ様、このシュウスイが前方の敵を叩き潰し、血路を開きます!」
シュウスイが大槍を構えて吠える。
「馬鹿者! 前方の敵は堅牢な陣を敷いている。抜けるのに時間がかかれば、背後からアサクラに本陣を喰い破られるぞ! だが……背後を塞ぐにしても、誰がこの死地に残るというのだ……」
全滅の危機。
誰もが絶望の淵に立たされたその時。
「――ソウガ様。ここは俺にお任せを」
混乱する本陣のど真ん中に、泥だらけの百人将が進み出た。
ジンである。
その後ろには、静かに竹竿を構えるガク、鉄砕棒を肩に担ぐゴウ、そして顔を布で覆い、静かに咳き込むシオンの姿があった。
「草売り……貴様……」
ソウガは目を見開いた。
「俺の部隊は最後尾にいます。迫り来るアサクラの五千、俺たち泥犬共で足止めしてみせますよ。その間に、ソウガ様は前方の血路を切り開いて、とっとと逃げてください」
「貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか!? たった百人で五千の軍勢を止められるわけがない! これは死ねと言っているのと同じだぞ!」
シュウスイが怒鳴りつける。
ジンはシュウスイを一瞥し、ニヤリと笑った。
「死にたくねえから、俺がやるって言ってんだ。大将みたいに立派な鎧を着た正規兵じゃ、敵の足止めなんて真っ正直な方法しか思いつかねえだろうが。俺たちネズミには、ネズミの戦い方がある」
ジンはソウガに真っ直ぐに向き直った。
「ソウガ様。俺はアンタの掲げる新しい世界ってやつを見てみたい。だから、ここで死なせるわけにはいかねえんです。……俺の命、ここで最高値で買ってもらいますぜ」
その目にあるのは、死を覚悟した悲壮な決意ではない。
ただ己の野心と生存本能を極限まで燃やし尽くす、強烈な生き汚さであった。
ソウガはジンの顔を数秒間じっと見つめ、やがて、喉の奥から絞り出すような低い笑い声を漏らした。
「……フッ、ハハハハハ! 良かろう、草売り! 貴様のその底知れないしぶとさ、俺の命を預けるに足る! 全軍、前方に突撃! シュウスイ、一時間で血路を開け! 背後は……ジンに任せる!」
ソウガの決断により、黎州軍は反転攻勢に出た。
そして、その後ろ姿を見送りながら、ジン隊の百人は、迫り来るアサクラの五千の軍勢に向かって、ただ一つ残された後方の防衛線へと展開した。
「さあて、地獄の蓋が開いたぞ。シオン、指示をくれ。どうやってあの五千の豚共を泥沼に引きずり込む?」
ジンが背後の軍師に問うと、シオンは懐から火打ち石を取り出しながら、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「簡単なことです。まずはこの谷の入り口にある枯れ森を、我々の荷馬車ごと全て燃やし尽くします。炎の壁で、敵の歩みを半日止めましょう」
「味方の荷馬車と兵糧を全部燃やす!? 正気かアンタ!?」
ゴウが目玉を飛び出させる。
「ええ。ゲホッ。退路も食料も必要ありません。我々は前へ進むのではなく、敵に『我々を殺すのを諦めさせる』のですから。さあ、火を放ちなさい。最高の撤退戦の始まりです」
燃え盛る炎と黒煙が、金啼の谷を覆い尽くしていく。
それは、天下の覇権を争う乱世の歴史において、最も泥臭く、最も残酷で、最も奇跡的な『金啼の退き口』の火蓋が切って落とされた瞬間であった。




