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第6話 泥犬たちの初陣、土竜の牙

黎州の領土拡大は、覇侯ギエンを討ち取った田楽狭間の大勝を契機として、凄まじい速度で進んでいた。

かつて煌州が支配していた豊かな穀倉地帯や街道の要所が、次々とソウガの巨大な大剣の前に平伏していく。しかし、全てが順風満帆というわけではなかった。領土が広がれば広がるほど、それを維持するための補給線は間延びし、局地的な防衛拠点が必要不可欠となる。

黎州軍の本陣が置かれた陣幕の中では、重苦しい空気が漂っていた。

中央に置かれた巨大な周辺地図。その一点を、先陣大将であるシュウスイの大柄な指が憎々しげに叩きつけている。

「……この『犬牙砦』が落とせぬ限り、我々の軍勢はこれ以上西へ進軍することができん。補給の荷馬車が、背後から完全に狙い撃ちにされる位置にあるからだ」

シュウスイの言葉に、周囲の将校たちも渋い顔で頷いた。

犬牙砦。旧煌州の残党が立て籠もるその砦は、名前の通り、犬の牙のように鋭く切り立った岩山の頂上にへばりつくように建設されていた。

砦へ至る道は、人が一列になってようやく登れるほどの細く険しい山道が一本あるのみ。しかも、その道中には幾重にも防壁が築かれ、上からの弓矢と落石による防衛網は鉄壁を誇っていた。まともに攻め上れば、黎州軍にどれほどの兵力があろうとも、狭い道で身動きが取れず、ただ矢の雨を浴びて死体の山を築くだけである。

「ソウガ様。この砦を正攻法で落とすには、最低でも数千の兵で麓を包囲し、三ヶ月かけて兵糧攻めにするしかありません。敵の備蓄が尽きるのを待つのが、最も損害の少ない兵法かと存じます」

シュウスイが進言すると、床几に腰掛けていたソウガは、退屈そうに欠伸を一つした。

「三ヶ月だと? 馬鹿を言え。俺の覇道に、そんな悠長に足踏みをしている暇はない。旧煌州の領地が完全に混乱している今こそ、一気に西を制圧せねばならんのだ」

「しかし、あの地形はまさに難攻不落。いかにソウガ様の大剣をもってしても、空を飛んで岩山を登ることは不可能です。兵法書に照らし合わせても、ここは包囲の陣を敷くのが……」

「兵法、兵法と。貴様は本当に頭の固い男だな、シュウスイ」

陣幕の入り口付近から、場違いなほど軽い声が響いた。

将校たちが一斉に振り返ると、そこには泥に汚れた革の胸当てを身につけ、草鞋履きのままのジンが、腕を組んで柱に寄りかかっていた。百人将に昇格したとはいえ、その身なりは辺りをうろつく流れ者と何ら変わらない。

「貴様……ここは将官の軍議の場だぞ。百人ぽっちの乞食を率いる程度の新参者が、軽々しく口を挟むな!」

シュウスイが目を吊り上げて怒鳴ったが、ジンはどこ吹く風とばかりに地図の前に歩み寄った。

「三ヶ月も大軍を麓に貼り付けておく兵糧の無駄遣い。その間に、敵の同盟国が援軍を送ってきたらどうするんです? 戦ってのは、時間をかければかけるほど想定外の毒が回るもんだ」

「ならば、貴様にあの砦を落とす策があるというのか! あのような絶壁、いかなる奇策を用いようと登れはせんぞ!」

「登れないなら、潜ればいいでしょうが」

ジンは地図上の犬牙砦を小刀の鞘でトントンと叩いた。

「俺に三日ください。あの砦、俺の『泥犬共』だけで内側から食い破って見せますよ。……もちろん、落とした暁には、砦の中にある備蓄の三分の一は、俺の部隊のボーナスとして頂きますがね」

「貴様、正気か!? たった百人で、あの犬牙砦を三日で落とすだと!?」

「面白え」

シュウスイの怒号を遮り、ソウガが獰猛な笑みを浮かべて身を乗り出した。

「やってみせろ、ジン。三日で落とせば、備蓄の半分を貴様の部隊にくれてやる。だが、失敗すれば貴様の首を刎ね、部下の浮浪者共は全員谷底へ放り捨てる。……俺の期待を裏切るなよ」

「御意に。首を洗って待っててくださいよ、大将」

ジンは真っ赤な顔をしているシュウスイに向かって不敵にウインクをすると、陣幕を後にした。

その夜。

犬牙砦から少し離れた麓の森の中で、ジンの部隊は息を殺して集結していた。

百人の孤児や浮浪者たち。彼らの手には、槍や剣ではなく、泥まみれの鶴嘴、短いシャベル、そして大量の麻袋が握られている。

「いいか、お前ら」

ジンは闇の中で、部下たちに向かって低く声をかけた。

「偉そうな武将様たちは、あの岩山を見て『登れないから三ヶ月待つ』なんて寝言を抜かしやがった。だが、俺たちは腹を空かせたネズミだ。目の前に美味そうな食い物があるのに、三ヶ月も待てるか?」

「待てるわけねえだろ!」

巨大な岩砕き用のハンマー(これも武器ではなく工具だ)を肩に担いだゴウが、牙を剥き出して笑った。

「俺の腹はもう限界だ。早くあの中の肉を食わせろ、大将!」

「ああ、そうだ。俺たちは下から食い破る。あの岩山の地質は、下層にいくほど脆い石灰岩の層が走っている。山で薬草を掘りながら、嫌というほど地層を見てきた俺の目に狂いはない。砦の城壁の真下まで穴を掘り進め、土台を崩す。……いわゆる『土竜攻め』だ」

ジンが作戦の概要を説明すると、ガクが竹竿を杖代わりにしながら前に出た。

「親父。砦の城壁までの距離はおよそ三百歩。岩山の傾斜と地盤の硬さを計算すると、俺たち百人が交代で不眠不休で掘り進めても、三日で届くかどうかだ。それに、途中で地下水脈にぶつかるか、岩盤が崩落すれば全員生き埋めになる」

ガクの指摘は極めて冷静かつ正確だった。暗闇の穴ぐらでの作業は、敵の矢よりも恐ろしい自然の脅威との戦いになる。

しかし、孤児たちは誰一人として怯えなかった。

「生き埋め? 上等じゃねえか。俺たちは元々、太陽の光なんかまともに当たらねえドブの底で生きてきたんだ。泥に塗れて息が詰まるのなんて、いつものことだろ」

一人の浮浪者上がりの兵が吐き捨てるように言うと、周囲の者たちもニヤニヤと笑いながら同意した。

綺麗な死に方など望んでいない。ただ、結果を出して腹一杯の飯を食う。その圧倒的な生存への執着こそが、この部隊の最大の武器であった。

「よし、ガク。お前は落盤を防ぐための支柱の配置と、掘削の進行方向の計算を任せる。ゴウ、お前は持ち前の馬鹿力で、一番硬い岩盤を砕きまくれ。残りの連中は、掘り出した土を麻袋に詰めて、絶対に外から見えないように森の中に捨てろ。音は立てるな、光も出すな。……作業開始だ!」

ジンの号令と共に、百匹の泥犬たちは岩山の麓の死角に張り付き、猛烈な勢いで地面を掘り始めた。

暗く、狭く、息苦しい地下の作業は、まさに地獄だった。

酸素は薄く、汗と泥が混ざり合った異臭が穴の中に充満する。松明の光は敵に気づかれる恐れがあるため最小限に抑えられ、ほぼ手探りの状態で岩を砕き、土を掻き出さなければならない。

ガンッ、ガンッ、と鈍い音が地中深くに響く。

先頭では、ゴウが上半身裸になり、全身を泥と汗で真っ黒にしながら、狂ったような速度でハンマーを振り下ろしていた。

「オラァッ! 砕けろクソ岩ァッ!!」

常人であれば数回振り下ろすだけで腕が上がらなくなるような重量のハンマーを、ゴウは息一つ切らさずに何百回と振り続ける。その異様なスタミナと筋力は、過酷な孤児の環境で生き残るために培われた突然変異のようなものだった。

そしてその後ろでは、ガクが冷静な目で岩盤の亀裂を観察し、的確な指示を飛ばしている。

「ゴウ、そこは叩きすぎるな。天井の層が脆い。右に三寸ずらして砕け。……おい、そこの班、支柱の木材をもっと深く打ち込め。角度が甘いと一気に崩落するぞ」

ガクの指示は、建築の専門家が見ても舌を巻くほど理にかなっていた。彼はかつて、捨てられる前に大工だった親の仕事を見て育ったという僅かな記憶と、持ち前の天才的な空間認識能力を頼りに、この崩落スレスレの地下トンネルの安全を完璧に管理していた。

ジンは穴の中を行き来しながら、兵士たちに水を含ませた布を配り、疲労の限界が近い者には無理やり休息を取らせた。

ただの冷酷な指揮官であれば、使い捨ての駒として死ぬまで働かせただろう。しかし、ジンは『生きて結果を出させる』ことにおいて、誰よりも合理的だった。彼らの命は、ジンにとって自分の覇道を進むための最も貴重な財産だからである。

二日目の夜。

問題が発生した。

ゴウのハンマーが、どうやっても砕けない巨大な黒曜石の岩盤にぶつかったのだ。

「クソッ……! 親父、これ以上は無理だ! ハンマーの柄が折れちまう!」

手に血豆を潰しながら、ゴウが悔しそうに叫んだ。

ガクも岩盤を触り、首を横に振った。

「迂回するには時間がかかりすぎる。三日の期限には間に合わないぞ」

暗闇の中で、絶望の空気が漂いかけた。

しかし、ジンは慌てることなく、持っていた水袋の中から、強烈な酸の匂いがする液体を取り出した。

「馬鹿野郎、力押しだけで解決しようとするな。山を舐めるなよ」

ジンは岩盤の周辺に薪を積み上げ、火をつけた。

狭いトンネル内に煙が充満し、兵士たちが咳き込む。

「全員、布で口と鼻を塞げ! 煙を吸うなよ!」

岩盤が火の熱で十分に熱せられたのを見計らうと、ジンはその上から、水袋に入っていた液体――発酵させた特殊な木酢液と水を混ぜたものを、一気に浴びせかけた。

ジュウウウウウッ!!!

猛烈な水蒸気と共に、急激な温度変化を引き起こされた巨大な岩盤が、ピキピキと音を立てて内側からひび割れていく。

古代の鉱山で使われていた『火破り』という古典的な技術だが、高度な文明の知識が失われたこの時代では、誰も知らない奇跡の魔法のように見えた。

「今だ、ゴウ! ヒビの入った中心を全力で叩け!」

「おおおおおッ!!」

ゴウが渾身の力を込めてハンマーを振り下ろした瞬間、決して砕けなかったはずの黒曜石の岩盤が、まるでガラスのように粉々に砕け散った。

「す、すげえ……!」

兵士たちから歓声が上がる。

ジンは煤けた顔でニヤリと笑った。

「感心してる暇はねえぞ。休まず掘れ。敵の寝首を掻くまでは、止まることは許さねえ!」

そして約束の三日目の未明。

雨上がりの冷たい風が吹く、最も空が暗くなる時間帯。

犬牙砦の城壁の上では、煌州の残党兵たちが、退屈そうに松明の火を見つめながら欠伸をしていた。

「全く、黎州の連中め。麓で陣を張ったまま、三日も動こうとせん。ビビって登ってこられないのだろう」

「この砦がある限り、奴らは一歩も進めないさ。我々はここで酒でも飲みながら、奴らの食料が尽きるのを見物していればいい」

見張りの兵士たちが笑い合っていた、まさにその時である。

ズズズズズ……ッ!

足元の地面が、不気味な地鳴りを立てて微かに揺れた。

「ん? なんだ、今の揺れは……?」

「地震か?」

兵士たちが首を傾げた次の瞬間。

砦の東側――備蓄庫と兵舎が集中し、最も頑丈に造られていたはずの城壁の真下の地面が、前触れもなく巨大なすり鉢状に陥没したのである。

「うわあああああッ!?」

「な、なんだ!? 地面が抜けたぞ!!」

轟音と共に、堅牢な石積みの城壁が内側へと崩れ落ち、その上にいた兵士たちは、次々と暗い大穴の底へと飲み込まれていった。

砦の中に、もうもうと土煙が舞い上がる。

何が起きたのか全く理解できず、パニックに陥る敵兵たち。

その土煙の中から、地獄の底から這い上がってきた悪鬼のような雄叫びが響き渡った。

「オラァァァァッ!! 飯の時間だァァァッ!!」

崩落した城壁の瓦礫を吹き飛ばし、泥で真っ黒に汚れたゴウが、巨大な鉄砕棒(ハンマーではなく、敵から奪った武器だ)を振り回しながら飛び出してきた。

彼は考えるよりも早く、混乱して立ち尽くす敵兵の集団のど真ん中に突っ込み、その馬鹿力で次々と人間を鎧ごと宙へ跳ね飛ばしていく。

「な、敵襲だ!? どこから湧いて出た!!」

「正門ではない! 地面の下からだ!!」

敵の指揮官が慌てて弓兵を集めようとしたが、その首筋に、暗闇から無音で突き出された竹竿の鋭い石突きが深々と突き刺さった。

「……右翼、制圧完了。無駄な抵抗はやめろ」

ガクが感情のない声で呟きながら、倒れた指揮官から竿を引き抜く。

彼に率いられた孤児たちも、穴の中から次々と這い出し、長年培った路地裏での殺し合いの技術――目潰し、金的、関節技という、正規の兵士が全く想定していない卑劣な乱戦術で、砦の守備隊を内側から徹底的に蹂躙していった。

そして、その阿鼻叫喚の地獄絵図の中を、ジンは悠然と歩きながら、逃げ惑う敵兵の足元に『煙玉茸』をポンポンと放り投げて回っていた。

「ゲホッ! ゴホッ! め、目が……!」

「悪いな。外からの攻撃には鉄壁でも、内側を食い破られちゃ、この砦はただの狭い鳥かごだ。逃げ場はねえぞ」

ジンは咳き込んでうずくまる敵兵から、質の良い短剣をヒョイと抜き取ると、腰の帯に放り込んだ。

戦いは一刻も経たずに終結した。

内側からの奇襲と、指揮系統の完全な崩壊。いかなる難攻不落の要塞であろうとも、足元を崩されてはひとたまりもない。

夜明けの光が、血と泥に塗れた犬牙砦を照らし出した頃。

麓で待機していたシュウスイ率いる黎州の主力部隊が、恐る恐る砦への山道を登ってきた。彼らは、ジンたちが失敗して全滅したか、あるいは逃げ出したものとばかり思っていた。

しかし、固く閉ざされていたはずの砦の正門が内側からギギギと開き、そこから顔を出したのは、泥だらけで満面の笑みを浮かべたジンだった。

「おせえぞ、大将。こっちはもう、朝飯の準備が終わってるところだぜ」

ジンの背後では、ゴウをはじめとする孤児たちが、敵の備蓄庫から引っ張り出してきた干し肉や果物を、焚き火で炙って貪り食っていた。

彼らの顔には、三日三晩の地下作業の疲労の色は濃かったが、それ以上に、生き残って勝利の味を噛み締める圧倒的な生命力が満ち溢れていた。

シュウスイは、崩落した城壁と、制圧された砦の惨状を見て、ただ唖然として立ち尽くすしかなかった。

「貴様ら……本当に、地面の下を掘って、この砦を落としたというのか……」

「言ったでしょう。三日あれば十分だって。俺の『泥犬共』の腹の虫は、岩山よりも凶暴なんですよ」

ジンは呆然とするシュウスイに、敵の砦の指揮官が持っていた軍配を無造作に投げ渡した。

「これで西への道は開けた。……約束通り、備蓄の半分は俺たちがもらいますからね」

シュウスイは渡された軍配を握り締め、ジンの泥まみれの背中を複雑な表情で睨みつけた。武人の誇りを何よりも重んじる彼にとって、ジンのやり方は卑劣極まりないものだ。しかし、一人の味方の犠牲も出さず、三ヶ月かかるはずの砦を三日で落としたという『結果』は、いかなる兵法書にも勝る絶対的な事実であった。

(ソウガ様は、この男の底知れない生き汚さを、最初から見抜いておられたというのか……)

一方、ジンは美味そうに肉を食う部下たちを見つめながら、内心で冷や汗を拭っていた。

(今回は上手くいったが、こんな綱渡りの奇策、何度も通用するもんじゃねえ。砦一つならともかく、これから先、数万規模の軍勢同士の本格的な国盗り合いになれば、俺の小手先の騙し討ちや、こいつらの特攻だけじゃ絶対に限界が来る)

ジンは、山で草を売っていただけの自分の頭脳の限界を、誰よりも冷静に理解していた。

大局を見極め、軍全体を盤上の駒のように動かせる、真の意味での『軍師』。それがいなければ、ソウガの覇道はどこかで必ず頓挫し、自分もまた使い潰される。

(噂に聞く、かつて西の小国で天才と呼ばれたが、今は世を儚んで山奥に隠遁しているという病弱な学者……。そろそろ、俺の『脳みそ』になってもらうために、頭を下げに行かなきゃならねえな)

泥に塗れた百人将は、口に放り込んだ硬い肉を咀嚼しながら、次なる布石へと既に思考を走らせていた。

乱世の地図を塗り替えるための、新たな異端の才能との出会いの時は、すぐそこまで迫っていた。

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