第5話 泥まみれの百人将と野犬たち
田楽狭間での歴史的な大番狂わせから、ひと月が経過していた。
煌州の覇侯ギエンの死は、瞬く間に近隣の勢力へと伝わり、二百年続く乱世の勢力図に巨大な地殻変動を引き起こした。大国煌州は後継者争いで内部分裂を起こして事実上崩壊し、黎州の若き覇侯ソウガは、その領土の半分以上を一気に飲み込んだのである。
黎州はもはや新興の小国ではない。一躍、大陸でも一目置かれる強大な勢力へと変貌を遂げていた。
その黎州の新たな最前線拠点となった『玄武砦』の執務室で、ジンは目の前に放り出された木札を胡散臭そうに見つめていた。
それは、百人の兵を率いる権限を示す『百人将』の証だった。
「で、俺にこれを押し付けて、一体何をさせたいんですか。ソウガ様」
ジンは腕を組み、執務机の上に足を投げ出しているソウガに向かってため息をついた。
ソウガは相変わらず不遜な態度で寝椅子に寝そべり、手元の小刀で果物の皮を剥いている。
「言ったはずだぞ、草売り。貴様は今日から百人将だ。部隊を一つ任せる」
「それは田楽狭間で聞きましたよ。俺が聞きたいのは、なぜ俺の部隊に配属された連中が、正規の兵士じゃなくて『難民キャンプの浮浪者たち』なのかってことです」
ジンが渋い顔をするのも無理はない。
将に昇格したとはいえ、ジンに与えられた兵力は、煌州との戦で焼け出された農民や、親を失った戦災孤児、あるいは素行が悪すぎて他の部隊から追い出された荒くれ者ばかりを集めた、文字通りの『掃き溜め』だったのだ。
ソウガは剥き終わった果物をかじりながら、ニヤリと笑った。
「当然だろう。貴様のような出自の知れない、しかも剣もまともに振れない小男の下に、誇り高き黎州の正規兵が素直に従うと思うか? シュウスイが鍛え上げた連中は、陣形と武士の作法が骨の髄まで染み込んでいる。貴様が蛇咬峠や田楽狭間で見せたような、泥水を啜り、背後から毒を盛るような戦い方は、奴らにはできん」
ソウガの指摘は、ぐうの音も出ないほど的を射ていた。
伝統的な戦い方しか知らない兵士たちに、ジンのようなゲリラ戦法を強要しても、反発を生むだけで機能しないだろう。
「俺の覇道には、シュウスイのような正攻法の『金床』と、貴様のような常識外れの『毒矢』の両方が必要だ。だからこそ、貴様には真っ白な連中を与える。失うものが何もない、這い上がることしか考えていない野犬共をな。貴様の色に染め上げ、俺の牙として育ててみせろ」
「……要するに、面倒な連中の世話を俺に丸投げしたってわけだ。人使いが荒い主君を持っちまったもんだ」
ジンはぼやきながらも、机の上の木札を手に取り、懐に放り込んだ。
ソウガの言う通りだ。綺麗な鎧を着たお坊ちゃん兵士など、ジンの戦術には足手まといになるだけである。生きることに飢え、泥に塗れることを厭わない連中の方が、よほど使い勝手がいい。
「せいぜい、最高に狂った毒矢に仕立て上げてやりますよ。その代わり、餌代(給金)と装備の予算は弾んでもらいますからね」
「結果を出せば、国庫の金などいくらでも使わせてやる。期待しているぞ、ジン」
ソウガの笑い声を背に受けながら、ジンは執務室を後にした。
砦の裏手、吹き晒しの荒野に設けられた難民の集落。
そこは、ジンがかつて暮らしていた最下層の生活よりもさらに悲惨な有様だった。
雨風を凌ぐのはボロボロの布を張っただけのテント。辺りには排泄物と病人の体臭が混ざったような饐えた匂いが漂い、痩せ細った子供たちが泥の中を這い回りながら、食べられる草の根を探している。
戦の華々しい勝利の裏側には、必ずこうした凄惨な現実がつきまとう。これが、二百年続く乱世の真実だった。
ジンは真新しい革の胸当てを軋ませながら、集落の中心へと歩みを進めた。
すると、前方の広場のような場所で、怒号と鈍い衝突音が響いているのに気づいた。
「このクソガキ共! 俺たちが集めた食い扶持に手ぇ出すんじゃねえ!!」
「うるせえ! 先に手を出してきたのはそっちだろうが! ぶっ殺されてえのか、豚共!!」
広場では、五人ほどの屈強な大人のゴロツキたちが、二人の少年を取り囲んで暴行を加えようとしていた。
ゴロツキたちは手に錆びた鉈や木の棒を持っている。対する少年たちは、まだ十三、四歳といったところだ。身なりはボロ布を纏っただけで、体には無数の傷と泥がこびりついている。
しかし、その二人の少年の戦いぶりは、とてもただの孤児とは思えないほど凄まじいものだった。
「オラァッ!! 死ねやァァッ!!」
一人の少年が、自らの身長ほどもある巨大な木の根(先端が瘤のように太くなっている)を、凄まじい膂力で振り回した。
体格は大人の半分ほどしかないにもかかわらず、その一撃をまともに盾で受けた大人のゴロツキが、たまらず数メートルも吹き飛ばされて泥水の中に沈む。
少年の顔は感情を爆発させたように歪み、目は血走っている。考えるよりも先に身体が動くタイプで、防御など一切考えず、ひたすらに力任せの特攻を繰り返していた。
「おい、ゴウ。前に出過ぎだ。右の死角が空いている」
もう一人の少年が、冷静で感情の起伏を感じさせない低い声で警告した。
その少年は、ゴウと呼ばれた少年とは対照的に、極めて無口で冷静だった。彼が手にしているのは、先端に鋭く尖らせた石を括り付けた長柄の竹竿だ。
彼はゴウの背中を守るように立ち、大柄なゴロツキがゴウの右側から鉈を振り下ろそうとした瞬間、その手首の関節に向かって、竹竿の先端を正確に、かつ冷酷に突き入れた。
「ぎゃあっ!?」
手首を破壊されたゴロツキが鉈を落としてうずくまる。少年は表情一つ変えず、すぐさま次の敵の膝裏へと竿を薙ぎ払い、体勢を崩させた。
ゴウという少年の圧倒的な『破壊力』と、もう一人の少年の精密な『制圧』。
素人同士の喧嘩とはいえ、そのコンビネーションは息を呑むほど完成されていた。
(……拾い物だな、こいつは)
ジンは少し離れた場所から、腕を組んでその戦いを観察していた。
しかし、いかに才能があろうとも、相手は大人五人である。次第に体格差とスタミナの差が表れ始め、ゴウが背後から木の棒で殴られて膝をつき、もう一人の少年も二人に囲まれて動きを封じられそうになっていた。
「調子に乗りやがって、クソガキが! ここでミンチにして豚の餌にしてやる!」
ゴロツキの頭目らしき男が、倒れたゴウの頭に向かって、錆びた鉈を容赦なく振り下ろそうとした。
その瞬間である。
ヒュッ、という風切り音と共に、何かが頭目の顔面に直撃した。
「ぐわぁぁぁッ!? め、目がァッ!!」
頭目は鉈を取り落とし、顔面を両手で覆って絶叫した。彼の顔には、黄色い粉末のようなものがべったりと付着している。
それは、ジンが山でよく使っていた『煙玉茸』の粉末を、小石と一緒に布で包んで投げつけたものだった。目に強烈な刺激を与え、一時的に視力を奪う効果がある。
「誰だテメェ!!」
残りのゴロツキたちが一斉にジンを睨みつけた。
ジンはゆっくりと歩み寄りながら、腰の短刀を抜く……ことはせず、懐から一枚の木札を取り出して見せびらかした。
「黎州覇侯ソウガ様直属、百人将のジンだ。お前ら、ウチの兵士候補にずいぶんと乱暴な真似をしてくれてるじゃないか。その怪我の治療費、どう払ってくれるんだ?」
ジンが飄々とした態度で言うと、ゴロツキたちは顔を見合わせた。
「ひ、百人将だと? こんなヒョロガキが……嘘をつくな!」
「嘘かどうか、試してみるか?」
ジンは短刀を抜く代わりに、足元の泥の中に生えていた見慣れない紫色の草を無造作にむしり取り、それを指先で潰して緑色の汁を出した。
「この『腐毒草』の汁を傷口に一滴でも垂らせば、三日三晩、全身の肉が腐るような激痛にのたうち回って死ぬことになる。お前らが持ってるその錆びた鉈の傷口に、これをたっぷりと塗り込んでやろうか? 黎州の将に刃向かった罪だ、それくらいは許されるだろう」
ジンの目は一切笑っていなかった。
人を殺すことなど造作もないという、冷酷な戦場を潜り抜けてきた者の目がそこにあった。
ゴロツキたちはジンの持つ異常な雰囲気と、毒の脅しに完全に怯えきり、目を押さえてうずくまる頭目を引きずりながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
静寂が戻った広場で、ジンは潰した草をぽいと捨てた(実はただの苦いだけの雑草である)。そして、息を乱して座り込んでいる二人の少年に向き直った。
「怪我はないか、お前ら」
ジンが声を掛けると、巨大な木の根を持った少年――ゴウが、敵意剥き出しの目でジンを睨みつけた。
「ふざけんな! 助けなんか頼んでねえぞ! あんな奴ら、俺一人で全員ぶっ殺してやったのに!」
「強がりを言うな。あと三秒遅かったら、お前の頭はカチ割られてたぞ」
ジンが呆れたように言うと、無口な少年がゆっくりと立ち上がり、ゴウの前に庇うように立った。彼は竹竿を両手でしっかりと構え、ジンの動きを油断なく監視している。
「……アンタ、黎州の将って言ったな。俺たちに何の用だ」
無口な少年が、感情を読み取れない声で問う。
「俺はジン。今日からこの集落の連中をまとめて、俺の部隊を作る。お前ら、名前は?」
「……俺はガクだ。こっちの馬鹿はゴウ。俺たちは誰の下にもつかない。この集落の子供たちは、俺たちが守る」
ガクと呼ばれた少年は、警戒心を全く解かずに言った。
ジンは彼らの背後を見た。ボロボロのテントの陰から、さらに幼い子供たちが数人、怯えた様子でこちらを見つめている。ガクとゴウは、この孤児たちのリーダー格として、身を呈して彼らを守っていたのだ。
「なるほど。立派な心がけだ」
ジンは懐から、砦で支給された硬い軍用のパンと干し肉の束を取り出し、ガクの足元に放り投げた。
「だが、お前ら二人だけでいつまで守り切れる? 今はただのゴロツキだったから良かったが、他の国の軍隊が来たらどうする? 餓死を待つか、殺されるのを待つか、どっちかだ」
パンと肉の匂いに、テントの陰の子供たちが生唾を飲み込む音が聞こえた。ゴウもまた、腹の虫を盛大に鳴らし、悔しそうに唇を噛んだ。
「俺の部隊に入れ。そうすれば、その子供たちも含めて、全員分の飯は保証してやる。錆びた鉈で怯えることもない、本物の武器も支給する。……生き残りたければ、俺を利用しろ」
ジンの言葉に、ガクの目が僅かに見開かれた。
彼はジンの泥だらけの草鞋から、戦場の血の匂いが染み付いた革の胸当て、そして、その底知れない深さを持つ瞳を観察した。
「……アンタは、強いのか?」
ガクの問いに、ジンはあっさりと肩をすくめた。
「剣術なら、そこら辺の足軽にも勝てないかもしれないな」
「なんだと!?」
ゴウが怒鳴った。
「そんな弱え奴の下で働けるか! 俺は強い奴にしか従わねえ!」
「だが」
ジンはゴウの言葉を遮り、冷たく言い放った。
「俺は、二万の軍勢を率いる大将の首を、たった千の兵で裏口からかっさらった。剣が振れなくても、頭と泥水啜る覚悟があれば、どんな強え奴だって殺せる。お前らみたいな、考えるより先に突っ込むだけの猪や、自分の手の届く範囲しか守れないガキには、一生できない戦い方だ」
ジンの言葉には、田楽狭間という地獄を生き抜いた者だけが持つ、圧倒的な説得力があった。
ゴウは気圧されたように口を噤み、ガクは竹竿を下ろした。
「……誰が敵だ?」
ガクが静かに問う。
「俺たちの飯を奪い、命を脅かす全ての奴らだ。偉そうにふんぞり返ってる覇侯だろうが、武士の誇りを押し付けてくる味方だろうが関係ない。俺の邪魔をする奴は、全て泥の中に引きずり込んでやる」
そのジンの宣言を聞き、ガクは躊躇うことなくその場に片膝をつき、深く頭を下げた。
「わかった。今日からアンタが俺たちの『親父』だ。命に代えても、親父の背中は俺が守る」
まだ十代半ばの少年に『親父』と呼ばれることにジンは思わず苦笑したが、その言葉に込められた絶対的な忠誠の重みはしっかりと受け止めた。
ガクの行動を見たゴウも、慌てて木の根を放り投げ、乱暴に頭を下げた。
「……ちっ、飯のためだ。仕方ねえから従ってやるよ、大将! その代わり、一番槍は俺にやらせろよ!」
「ああ、好きにしろ。ただし、死ぬなよ」
こうして、後に黎州軍において最も規律正しく堅牢な陣を築くことになる猛将『ガク』と、敵陣を単騎で粉砕する特攻隊長『ゴウ』という二匹の野犬が、ジンの手綱に繋がれた。
数日後。
玄武砦の練兵場には、異様な光景が広がっていた。
シュウスイ率いる正規兵たちが、槍を揃えて美しい陣形の訓練を行っているその隣で、ジンの部隊――百人の孤児や浮浪者たちが、全身泥だらけになって奇妙な訓練をやらされていたのである。
彼らは重い石を背負わされて山中を走らされ、素手で素早く落とし穴や塹壕を掘る訓練をし、さらにはジンが山から採ってきた毒草や薬草の選別までさせられていた。槍の突き方など、一切教えていない。
「……貴様、一体何の真似だ」
練兵場を巡回していたシュウスイが、ジンの元へ歩み寄り、忌々しげに顔をしかめた。
シュウスイの目から見れば、ジンの部隊は烏合の衆以下の、ただのゴミの集まりにしか見えなかった。
「彼らは軍人ではない。ただの乞食の集まりだ。このような野犬共を戦場に連れ出せば、いざという時に陣形を崩し、真っ先に逃げ出して味方の足を引っ張るに決まっている。もしこのネズミ共が戦場で退けば、俺が貴様ごと全員斬り捨てるぞ」
シュウスイの冷酷な宣告。
しかし、ジンは泥だらけの顔で、不敵な笑みを浮かべて言い返した。
「逃げる? こいつらがですか? 大将、あんたは下民のことが全くわかってないな」
ジンは、一心不乱に泥を掘り起こしている自分の部下たちを顎でしゃくった。
その中心では、ガクが冷徹な指揮で塹壕の角度を指示し、ゴウが誰よりも重い岩を軽々と運んで土台を作っている。
「綺麗な服を着た正規兵は、命が惜しくなれば逃げるでしょうね。でも、こいつらは違う。こいつらの背後には『飢え』と『死』しかないんです。前を向いて敵から奪わなきゃ、明日食う飯がないんだ。だから、絶対に逃げない。……生き汚いネズミは、病気で獅子を殺すんですよ」
シュウスイはジンのその言葉に、一瞬だけ言葉を失った。
ジンの瞳の奥にある、生き残ることへの異常なまでの執着。それは、武人の誇りや名誉などという言葉では到底測れない、人間の本能の底流から湧き上がるおぞましいほどのエネルギーだった。
「……ならば、戦場で見せてもらおう。貴様のその泥臭い理屈が、どこまで通用するかをな」
シュウスイは吐き捨てるように言うと、踵を返して去っていった。
ジンはその後ろ姿を見送りながら、深く息を吐いた。
「さあて、野犬共の調教はこれからが本番だ。大将の肝を冷やすような、最強の泥棒部隊に育て上げてやる」
黎州軍の中に誕生した、最も異端にして最も凶悪な独立部隊。
草売り上がりと戦災孤児たちで構成された『ジン隊』の、これが始まりであった。
天下を統一する覇道への階段は、まだその第一歩、泥まみれの土台を踏み固めたばかりである。




