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第4話 豪雨の田楽狭間

空が裂けたかと思うほどの凄まじい雷鳴が、黒暗谷の山々を震わせた。

昼間であるにもかかわらず、分厚い鉛色の雲が太陽を完全に遮り、周囲は夕闇のように暗い。そして、天の底が抜けたかのような猛烈な豪雨が、大地を容赦なく叩きつけていた。

黎州の砦の正面に広がる平野は、今や見渡す限りの泥の海と化していた。

その泥濘の中で、絶叫と怒号、そして金属がぶつかり合う鈍い音が、雨音を切り裂いて延々と響き渡っている。

「退くな! 一歩でも退いた者は、この俺が後ろから叩き斬る! 黎州の意地を、あの格式ぶった豚共の顔面に叩き込んでやれ!!」

先陣大将シュウスイの咆哮が、雷鳴すらも圧倒するほどの声量で戦場を震わせた。

彼は身の丈を超える大槍を風車のように振り回し、迫り来る煌州の重装歩兵たちを次々と泥の海へ吹き飛ばしていた。その姿はまさに『鬼』そのものであり、彼の周囲だけは敵兵が恐れをなして空白地帯ができている。

しかし、大局的に見れば、黎州軍の劣勢は火を見るより明らかだった。

シュウスイが率いる囮の部隊はわずか二千。対する煌州の先鋒部隊だけでもその三倍以上の数がおり、後方にはさらに無数の軍勢が控えている。黎州の兵たちは泥に足を取られ、体温を奪う冷雨に体力を削られながら、必死に槍を突き出しているが、じわじわと砦の方向へと押し込まれつつあった。

「……ソウガ様。このシュウスイ、この命が尽きるまで、貴方様の覇道の礎となりましょうぞ!」

シュウスイは血と泥に塗れた顔で、嵐の空に向かって低く唸った。彼には、ソウガが企てたあの狂気に満ちた奇襲作戦が成功する確証など微塵もなかった。ただ、主君が「持ち堪えれ」と命じたからこそ、己の武人の誇りを懸けてこの死地を死守しているのだ。

一方、その凄惨な激戦地から数里後方。

黒暗谷の入り口に位置する『田楽狭間』の盆地では、煌州の覇侯ギエンが、二万の軍勢の中心で豪奢な大天幕を張っていた。

「ふん。黎州の野蛮人どもめ。この雨の中で正面から突撃してくるとは、身の程知らずにも程がある。まるで泥に群がる豚のようではないか」

ギエンは毛皮が敷き詰められた寝椅子に深く腰掛け、黄金の盃に注がれた葡萄酒を傾けながら、鼻で笑った。

彼は恰幅の良い体格をしており、身につけている鎧は実戦用というよりも儀礼用に近い、煌びやかな装飾が施された代物だった。彼の周囲には、煌州軍の中でも特に精鋭とされる数百の近衛兵が、雨一つ入り込まないよう天幕の周囲を鉄壁の陣形で固めている。

「御館様。前線の部隊より伝令です。敵の先陣大将シュウスイの抵抗が思いのほか激しく、前線の押し上げが遅れているとのこと」

「構わん」

報告に上がった将校に対し、ギエンは退屈そうに手を振った。

「この豪雨だ。無理に行軍を進めれば、我が軍の美しい陣形が乱れる。我らはこの田楽狭間で雨をしのぎ、敵が泥の中で体力を使い果たすのを待てばよい。いずれ息絶える虫ケラのために、我が軍の精鋭を無駄に動かす必要などないのだ。戦とは、かくも雅で、理路整然と行われるべきものよ」

ギエンは絶対の自信を持っていた。

四方を山に囲まれたこの田楽狭間は、雨風をしのぐには最適の地形である。唯一の懸念は背後にそびえ立つ黒暗谷の断崖絶壁だが、あんな場所から人が降りてこられるはずがない。彼にとって、背後の崖は天然の巨大な城壁に過ぎなかった。

彼は葡萄酒を飲み干し、優雅な音楽でも奏でさせるかのように、側近に盃を差し出した。

ギエンの頭上、見上げるほど高い崖の上に、死神の刃が突きつけられていることなど、彼は夢にも思っていなかった。

「……足元に気をつけろ。この岩肌は『滑り苔』が密集してる。踏み込めば一発で谷底行きだ。左手のツルを命綱にして、三点支持で進め」

雷鳴と豪雨が吹き荒れる中、黒暗谷の断崖絶壁を這うように進む黒い影の群れがあった。

先頭を行くのはジンである。彼は松明の光すら使えない完全な暗闇の中で、手のひらに伝わる岩の感触と、草木の匂い、そして僅かな稲光だけを頼りに、道なき道を切り開いていた。

彼の手足は泥と自分の血で汚れきっていた。鋭い岩角で指の肉が裂け、爪が剥がれかけているが、ジンは痛みに顔をしかめることすらしない。

(ここで滑れば終わりだ。俺だけじゃない。後ろにいる千の馬鹿共も、全員道連れになる)

ジンは大きく息を吸い込み、冷たい雨水を肺に満たして神経を研ぎ澄ませた。

彼のすぐ後ろには、巨大な大剣を背負ったソウガが、獣のような身軽さでジンの足跡を正確にトレースして続いている。さらにその後方には、黎州軍の精鋭千人が、誰一人として声を上げることもなく、ただひたすらに崖を横断し、下へと降りるルートを辿っていた。

これは進軍ではない。崖にへばりつく虫の群れのような、狂気の行軍だった。

途中で数名の兵士が足を滑らせ、音もなく暗闇の底へと飲み込まれていった。しかし、誰も助けを呼ぶことはない。悲鳴を上げれば、その瞬間に奇襲は失敗し、全滅が確定するからだ。落ちる者は、ただ己の不運を呪いながら、無言で死んでいく。それがこの作戦の絶対の掟だった。

「……草売り。そろそろか」

雷鳴の合間を縫って、ソウガがジンの耳元で低く囁いた。その声には疲労の色など微塵もなく、むしろ殺戮を前にした高揚感が滲み出ている。

「ええ。この崖を越えれば、ギエンの頭の真上に出ます。……お宝の真上ですよ」

ジンは這いつくばりながら、最後の大岩を乗り越えた。

眼下に広がった光景を見て、ジンは口元を三日月のようにつり上げた。

そこは、田楽狭間の盆地をすり鉢状に見下ろすことができる、急勾配の崖の端だった。眼下の盆地には、煌州軍の巨大な陣地が広がっており、その中心には、雨の中でもひときわ明るく篝火が焚かれた、ギエンの大天幕が鎮座していた。

敵兵たちは皆、前方の砦の方向(シュウスイが戦っている方向)を向いて警戒しており、背後の崖上を見上げている者は一人としていない。

「ビンゴだ。見事に無防備な背中を晒してやがる」

ジンが呟くと、ソウガは崖の縁に立ち、眼下の獲物を睥睨した。

千の兵士たちが、崖の斜面に沿って静かに展開し、武器を構える。皆、極度の緊張と寒さで震えていたが、その瞳には獲物を狩る直前の獣の光が宿っていた。

ソウガは背中の大剣をゆっくりと引き抜いた。

雨が鋼の刀身を打ち据え、鈍い音を立てる。

「よく聞け、黎州の狼共」

ソウガの低く響く声が、雨音を縫って兵士たちの耳に届いた。

「この崖を下りきった先に、我々の新しい世界がある。古いしきたりに縋る豚共の首を刎ね、その血でこの腐った大地を洗い流せ。狙うはギエンの首一つ。他は全て肉の壁と思え。……喰らい尽くせ!!」

ゴロゴロゴロ……ピシャァァァンッ!!!

天を劈く巨大な雷鳴が轟いた。

それを合図にするかのように、ソウガが崖を蹴って宙へ跳んだ。

「うおおおおおおおおっ!!!」

千の兵士たちが、一切の躊躇いなく崖の斜面を一気に滑り降り始めた。

それは軍隊の突撃というよりは、巨大な泥流、あるいは山崩れそのものだった。急勾配の斜面と泥が彼らの速度を異常なまでに加速させ、ブレーキなど最初から存在しない、決死の特攻である。

「な、なんだ!? 崖の上から……敵だ! 敵襲ゥゥゥッ!!」

煌州の近衛兵の一人が、背後に迫る異常な音に気づいて振り返った時には、すでに手遅れだった。

ドゴォォォォンッ!!

ソウガの巨体が、隕石のようにギエンの大天幕の入り口を守っていた兵士たちの中心に落下した。

同時に、彼が振り抜いた身の丈ほどの巨大な大剣が、周囲にいた十数名の近衛兵の鎧を、肉も骨もまとめて紙屑のように粉砕し、吹き飛ばした。血の雨が、本物の雨に混じって周囲に降り注ぐ。

「黎州覇侯ソウガ! ギエンの首、貰い受ける!!」

ソウガの咆哮と共に、千の黎州兵が雪崩を打って煌州の本陣に突入した。

煌州の兵士たちは完全に不意を突かれた。彼らの陣形は、前方からの攻撃を想定したものであり、背後の崖上から、しかもこれほどの速度で突っ込まれることなど全く想定していなかったのだ。

大混乱に陥る煌州の本陣。怒号と悲鳴が飛び交い、指揮系統は一瞬にして崩壊した。

ジンもまた、斜面を滑り降りながら、乱戦の中に身を投じていた。

彼はソウガのように大剣で敵を薙ぎ払うような力はない。彼の武器は、徹底した合理性と容赦のなさだった。

「おらっ、どきな!」

ジンは迫り来る敵兵の顔面に、斜面の泥を鷲掴みにして投げつけた。敵が目に泥を入れられ怯んだ一瞬の隙を突き、すれ違いざまに膝の裏の腱を短刀で斬り裂く。体勢を崩して倒れた敵の首筋に、迷うことなく刃を突き立てる。

泥臭く、卑劣で、しかし圧倒的に効率的な殺戮。ジンは生き残るために、一切の無駄を省いて敵の急所だけを的確に削いでいった。

「お、おのれ! 野蛮人どもがぁっ!!」

大天幕が引き裂かれ、中からギエンが転がり出てきた。

彼は顔を真っ赤にして激怒し、腰に提げていた黄金の装飾が施された宝剣を抜いた。

「このような下劣な奇襲など、戦とは認めん! 武士の誇りを踏みにじる外道どもめ! 余は煌州の覇侯ぞ! 出会え、出会えぇっ!!」

ギエンが喚き散らすが、彼の声に応える近衛兵はすでに半数以上がソウガの刃の前に肉塊と化していた。

ソウガはゆっくりと、血塗られた大剣を引きずりながらギエンの前に歩み出た。

「誇りだと? そんな紙切れのように薄っぺらいもので、俺の刃が止められるとでも思っているのか、豚」

「貴様がソウガか! 身の程を知れ、新参者が!」

ギエンは自ら宝剣を振りかぶり、ソウガに向かって斬りかかった。

伝統ある剣術の型に則った、美しい一撃だった。

しかし、ソウガはそれを避けることすらしない。

ガァァァンッ!!

ソウガが無造作に振り上げた大剣が、ギエンの宝剣と激突した。

その瞬間、ギエンの誇る黄金の剣は、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。

「なっ……!?」

驚愕に見開かれたギエンの顔。

ソウガの目は、冷酷な破壊者のそれだった。

「さらばだ、旧き時代の亡霊よ」

大剣が閃いた。

鋼の塊が、ギエンの豪華な鎧ごと、その太い首を横薙ぎに粉砕した。

ゴトリ、と重い音を立てて、煌州の覇侯の首が泥の中へと転がり落ちた。

「敵将ギエン、黎州覇侯ソウガが討ち取ったり!!」

ソウガの勝利の咆哮が、雷鳴を凌駕して田楽狭間の盆地に響き渡った。

大将の討ち死にという決定的な事実を前に、周囲の煌州兵たちは完全に戦意を喪失した。彼らは武器を放り出し、四方八方へと散り散りに逃げ出していった。

その日の夜明け。

雨は嘘のように上がり、雲の隙間から朝日が差し込み始めていた。

泥と血に塗れた平野では、シュウスイ率いる囮部隊が、敵の本陣崩壊の報を受けて総崩れとなった煌州軍の残党を追撃し、完全な勝利を収めていた。

田楽狭間の本陣跡地で、ジンは全身泥だらけになりながら、疲れ果ててその場に大の字に寝転がっていた。

全身の筋肉が悲鳴を上げ、手足には無数の切り傷があるが、確かな生存の実感が彼の胸を満たしていた。

ザクッ、ザクッ、と重い足音が近づいてくる。

見上げると、そこにはギエンの首を提げたソウガが、逆光を背に受けて立っていた。

「見事な案内だったぞ、草売り。貴様の言う通り、俺の覇道はこの崖を下りた先にあった」

ソウガはそう言うと、持っていた巨大な大剣の柄で、ジンの胸当てをコンコンと軽く叩いた。

「今日この時から、貴様はただの足軽ではない。俺の直属の『将』だ。百の兵を預ける。貴様のその生き汚い知略で、これからも俺の道を切り拓け」

最下層の薬草売りから、一軍の将への大抜擢。

常識では考えられない特例の昇進だった。

ジンはゆっくりと上体を起こし、口の中の血が混じった泥をペッと吐き出した。

「百の兵、ね。いいでしょう。俺が束ねるからには、徹底的にしぶとく、悪賢い部隊に育て上げてやりますよ。大将の首を裏口からかっさらうような、ね」

ジンが不敵に笑うと、ソウガもまた満足げに口角をつり上げた。

圧倒的な兵力差を覆した『田楽狭間の奇襲』。

この戦いによって、黎州と覇侯ソウガ、そして新星の将・ジンの名は、乱世を生きる全ての者たちに、畏怖と共に知れ渡ることとなるのである。

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