第3話 圧倒的なる絶望と這い寄る毒蛇
蛇咬峠での小規模な衝突から十日が過ぎた。
黎州軍の本陣が置かれた砦は、かつてないほどの異様な緊張感と、重苦しい空気に包み込まれていた。兵士たちの顔からは生気が失われ、武器を研ぐ手は微かに震え、誰もが押し黙ったまま虚空を見つめている。
無理もないことだった。隣国の大国である煌州が、ついに本腰を入れて黎州を地図から消し去るべく、全軍を挙げて進軍を開始したという凶報がもたらされたからである。
その数は、およそ二万。
対する黎州軍の総兵力は、農民上がりの足軽や寄せ集めの兵を全てかき集めても、三千に届くかどうかであった。およそ七倍という絶望的な兵力差。平野で正面からぶつかれば、一刻も経たずに黎州軍は蹂躙され、跡形もなく粉砕されるだろう。
そんな陰鬱な空気が漂う陣地の片隅で、ジンは一人、焚き火の前に座り込んで小刀の手入れをしていた。
彼の装備は、蛇咬峠で討ち取った煌州の部隊長から剥ぎ取った良質なものに変わっていた。刃こぼれ一つない見事な造りの短刀に、軽くて丈夫な革の胸当て。相変わらず足元は草鞋だったが、ただの使い捨ての足軽とは一線を画す姿になっている。
「二万、ねえ……。大層な数だが、そんな大軍を動かせるだけの兵糧がよく続くもんだ」
ジンは砥石で短刀をシャッシャッとリズミカルに研ぎながら、他人事のように呟いた。
周囲の兵士たちは、ジンを遠巻きにして奇異の目で見ていた。彼らにとってジンは、覇侯ソウガに直接拾われ、初陣で奇策を用いて敵指揮官の首を獲った得体の知れない男だ。武人の誇りを重んじる者からは『山賊上がりの外道』と蔑まれ、生き残ることに必死な者からは『死神を欺く悪魔』として気味悪がられていた。
しかし、ジンはそんな視線など全く気にかけていなかった。他人にどう思われようが、腹は膨れないし命も守れない。ジンが今考えているのは、どうすればこの圧倒的な軍勢のひしめく戦場で、自分という小さな蟻が一匹だけ生き延び、あわよくば甘い蜜を吸えるかということだけだった。
「おい、草売り。ソウガ様がお呼びだ。指揮所の天幕へ来い」
焚き火の向こうから、重い鎧を鳴らしながら歩いてきた伝令の兵が、吐き捨てるように言った。
ジンはゆっくりと立ち上がり、研ぎ終わった短刀を鞘に収めると、衣服の土を軽く払った。
「下っ端の足軽が指揮所に呼ばれるとは、随分と出世したもんだ。案内してくれや」
ジンが軽口を叩くと、伝令の兵は忌々しげに顔をしかめたが、無言で背を向けて歩き出した。
砦の中心にある大天幕の中は、外の空気以上に息が詰まるような重圧に満ちていた。
黎州軍の主だった将校たちが顔を揃え、中央に置かれた大きな木の机を囲んでいる。机の上には、動物の皮に描かれた簡素な周辺地図が広げられていた。
将校たちの中心で腕を組み、仁王立ちしているのは、先陣大将である『鬼』のシュウスイだ。その顔には焦燥と決死の覚悟が入り混じったような凄絶な表情が浮かんでいる。
そして、その奥の床几に足を組んで座り、一人だけまるで退屈な芝居でも見ているかのようにリラックスした態度を崩さないのが、若き覇侯ソウガであった。
ジンが天幕に入ると、将校たちの視線が一斉に突き刺さった。
「ソウガ様、なぜこのような下民を軍議の場に……! ここは我ら将校が、国の存亡を懸けて話し合う神聖な場ですぞ!」
古株の将校の一人が、耐えきれないといった様子で声を上げた。シュウスイもまた、眉間に深い皺を寄せてジンを睨みつけている。
「黙れ。俺が呼んだのだ」
ソウガが低く、しかし絶対的な威圧感を伴った声で言うと、天幕の中は水を打ったように静まり返った。
「二万の敵を前にして、貴様らは先ほどから『砦に籠城しての玉砕』か、『平野での名誉ある決戦(全滅)』しか口にせん。そんなカビの生えた誇りなど、俺の覇道には一文の価値もない。俺が聞きたいのは、どう死ぬかではなく、どうやってあの二万の豚共を皆殺しにするかだ」
ソウガはそう言い放つと、視線をジンに向けた。
「草売り。貴様の生き汚い頭脳なら、この盤面、どう引っ繰り返す?」
突然振られた大役に、将校たちがどよめいた。シュウスイに至っては、怒りで大槍の柄を握る手が小刻みに震えている。しかし、ジンは臆することなく机に近づき、広げられた粗末な地図を覗き込んだ。
「……なるほど。煌州の軍勢は、この大街道を真っ直ぐ南下してきているわけですか」
ジンは地図を指でなぞりながら言った。
「敵の大将であるギエンという男。噂に聞く限りでは、伝統と格式を病的なまでに重んじるお大尽だとか。二万もの大軍を動かすとなれば、なおさら陣形や見栄えにこだわるはずだ。こそこそと山道を抜けるような真似はせず、堂々と大街道を行軍し、自らの威容を見せつけながら進む。……違いますか?」
「その通りだ」とソウガが頷いた。
「煌州の軍は、まるで祭りのパレードのように華美な軍装で大街道を進んでいる。斥候の報告によれば、ギエン自身も巨大な輿に乗り、周囲を強固な近衛兵で固めているそうだ」
ジンは地図のある一点――大街道が大きく迂回している山間部の手前を指差した。
「ギエンの二万の軍勢が、我々の砦に辿り着く前にある最大の難所。それがここ、『黒暗谷』の入り口に広がる『田楽狭間』の盆地です」
その言葉に、シュウスイが鼻を鳴らした。
「それがどうした。田楽狭間は確かに四方を低い山に囲まれた盆地だが、大軍が展開するには十分な広さがある。ギエンがそこで陣を敷けば、我々が奇襲をかける隙など全くない」
「ええ、晴れていればの話ですがね」
ジンは悪びれる様子もなくシュウスイを見返した。
「ギエンは格式を重んじる。自分の美しい軍装が泥に汚れるのを極端に嫌うはずだ。もし、行軍中に大雨が降ったらどうなります? ぬかるんだ泥道を二万の軍勢で進めば、行軍速度は落ち、陣形は崩れ、何より兵士たちの疲労がピークに達する。ギエンは必ず、風雨をしのげる田楽狭間の盆地で全軍を停止させ、天候が回復するまで陣を敷いて休息を取るはずです」
「仮にそうだとして、それが我々の勝利にどう繋がるというのだ。敵が休んでいようと、二万は二万だ。我々の三千が正面から突っ込んでも、跳ね返されて終わる」
他の将校が苛立ちを隠せずに反論した。
ジンはニヤリと笑い、地図の田楽狭間の北側、つまりギエンの陣が敷かれるであろう背後の山――黒暗谷の斜面をトントンと叩いた。
「正面から突っ込むから負けるんですよ。なら、敵が絶対に警戒していない場所から、大将の首だけをピンポイントでもぎ取ればいい」
「馬鹿な!」
シュウスイが吠えた。
「黒暗谷の斜面は、人が軍勢を率いて下れるような地形ではない! 崖のように切り立っており、足場もない。ましてや雨が降っていれば、滑落して自滅するだけだ! そんな場所からの奇襲など、机上の空論にも劣る妄言だ!」
「正規の兵士が、重い甲冑を着て、隊列を組んで降りようとすれば、な」
ジンはシュウスイの怒号を冷たく遮った。
「だが、山を知り尽くした猟師や草売りなら別だ。あそこには、獣たちだけが通る『獣道』がいくつか存在する。人が通れるようにはできていないが、身軽な装備で、地の利を完璧に把握している者が先導すれば、千の兵を敵の本陣の背後――それも、ギエンの輿の真上まで密かに導くことができる。雨の音と暗闇が、我々の足音を全て消してくれる」
天幕の中が、再び重い沈黙に包まれた。
ジンの提案は、あまりにも常軌を逸していた。二万の大軍の真後ろの崖を、嵐の夜に、道なき道を這い下りて奇襲をかける。一つでも計算が狂えば、敵と戦う前に崖から落ちて全滅する完全な自殺行為だ。武人の兵法書には決して載っていない、狂気の沙汰である。
しかし、ソウガだけは違った。
彼の目は、暗闇で獲物を見つけた肉食獣のように、ギラギラと妖しい光を放っていた。
「……面白い。二万の軍勢を正面に置きながら、背後の崖から少数の兵で本陣の喉首に喰らいつく、か。伝統と格式に凝り固まったギエンの頭では、天地がひっくり返っても予想できまい」
「ソ、ソウガ様! 本気でこのような下民の戯言を信じるおつもりですか!? これは軍を危険に晒すだけの愚策です!」
シュウスイが必死に諫めようとしたが、ソウガは片手でそれを制した。
「シュウスイ。貴様は残りの二千の兵を率いて、砦の正面で煌州の軍勢を迎え撃つ準備をしろ。敵に『黎州軍は正面から玉砕覚悟で挑んでくる』と錯覚させるための囮だ。決して引くな。俺がギエンの首を獲るまで、持ち堪えろ」
「囮……! このシュウスイに、死に役をやれと仰るか!」
「そうだ。貴様の重んじる武人の誇りとやら、存分に死地で発揮してみせろ」
ソウガの冷徹な命令に、シュウスイは屈辱で唇から血が出るほど噛み締めたが、最終的には深く頭を下げた。
「……御意に。このシュウスイ、一歩も退かずに敵の足を止めてみせます」
ソウガは再びジンに向き直った。
「草売り。貴様には千の兵を預ける。いや、正確には俺の直属部隊だ。貴様が先導し、俺がギエンの首を刎ねる。もし貴様の言う獣道が使い物にならず、部隊が山で迷うようなことがあれば、その場で貴様の四肢を切り落として谷底へ放り投げる。覚悟はできているな?」
「お安い御用で。この俺が、自分の仕事場である山で迷うわけがないでしょう」
ジンは薄く笑いながら答えた。
内心では、冷や汗が背中を滝のように流れていた。千人もの兵士、それも山歩きの素人たちを、雨の夜にあの険しい獣道で先導する。それはジンにとっても未知の領域であり、一つ間違えればソウガの大剣で真っ二つにされる命懸けの綱渡りだった。
だが、ここで引き下がる選択肢はなかった。ジンがこの絶望的な乱世で生き残り、人として這い上がるためには、この狂った覇侯の野望に便乗し、自らの手で結果を毟り取るしかなかったのだ。
軍議が終わり、将校たちが足早に天幕を出ていく中、ジンもまた外へ出ようとした。
その時、すれ違いざまにシュウスイがジンの耳元で低く囁いた。
「貴様のくだらん思いつきで、多くの兵が崖から落ちて無駄死にすることになる。もしソウガ様の身に万が一のことがあれば、俺が地獄の底まで追いかけて、貴様のその生き汚い首をねじ切ってやるからな」
その言葉には、隠しようのない明確な殺意が込められていた。
ジンは立ち止まることなく、肩越しにシュウスイを一瞥した。
「心配すんなよ、大将。死に役の囮は、せいぜい派手に暴れて敵の目を引きつけてくれ。俺たちは裏口からこっそりお宝を頂戴するからさ」
シュウスイの怒りのこもった舌打ちを背中に浴びながら、ジンは天幕を後にした。
空を見上げると、先ほどまでの曇り空はさらに色を濃くし、今にも泣き出しそうな漆黒の雲が山々を覆い隠そうとしていた。
風が生暖かい湿気を運んでくる。間違いなく、今夜は大荒れになる。
「さあて、大博打の始まりだ。俺の命と、覇侯の野望、どっちがしぶといか見物だな」
ジンは自らの腰にある短刀の柄を固く握り締め、暗雲立ち込める黒暗谷の方角をじっと見つめた。
二万の圧倒的軍勢を率いる巨大な獲物と、地の利という猛毒を隠し持った一匹の毒蛇。
時代を根底から覆す歴史的な大番狂わせ、『田楽狭間の奇襲』の舞台が、今まさに整おうとしていた。




