表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/111

第55話 白銀の意地、正道の饗宴

覇宮を包囲した数万の泥犬たちは、不気味なほどの静寂を保っていた。

王都の城内は、天才謀略家クロウが放った間者たちによる内応と放火によって、未だ各所から黒煙が立ち上り、混乱の極致にあった。南門を突破したジンの主力軍であれば、その混乱に乗じて一気に宮殿へと雪崩れ込み、略奪と虐殺の限りを尽くしてメイカクの首を強引に獲ることも容易であったはずだ。それが、これまでのジンが幾度となく繰り返してきた、泥臭く勝率のみを追求する邪道の戦法であった。

しかし、覇宮の堅牢な白壁の上から眼下の広場を見下ろしていたメイカクは、己の目を疑い、白銀の兜の奥で息を呑んだ。

そこに広がっていたのは、無軌道な暴徒の群れではなかった。

三日三晩を不眠不休で走り続け、肉体の限界を迎えているはずの数万の泥犬部隊は、驚くべきことに、寸分の乱れもない幾何学的な包囲陣形を寸時に完成させていたのである。

中央に厚く、両翼をゆるやかに前方に突き出させたその構えは、兵法における基本中の基本、にして最も完成された包囲殲滅の陣――「鶴翼の陣」であった。

兵士たちは軽装であり、泥と汗にまみれて衣服はボロボロであったが、その構えには一切の隙がなかった。盾を隙間なく並べて強固な鉄壁を作り、その背後から長い槍の穂先が太陽の光を浴びて整然と突き出されている。後方に控える弓隊は、矢を番えたまま微動だにせず、ただ一人の号令を静かに待っていた。

無駄な雄叫びを上げる者もいなければ、功を焦って突出する者もいない。

完璧な規律。完璧な統率。それは、かつて筆頭家老であったメイカク自身が、黎州の軍規として木簡に書き記し、そして西国の雪山で自らの死を覚悟した夜に、ジンへと託した分厚い書物の中に記されていた「正道」の布陣そのものであった。

「……馬鹿な。あり得ん……」

メイカクは城壁の手すりを強く握りしめ、驚愕のあまり声を震わせた。

「あの薬草売り上がりの泥犬が……。これほどまでに完璧な正道の陣を、わずか三日の強行軍の直後に、なぜ敷くことができるのだ。私の残した書物を、本当にすべて頭に叩き込み、己の血肉にしていたというのか……!」

メイカクの頭脳は、即座にその陣形の完成度の高さを理解した。

邪道を得意とするジンが、あえて一切の奇策を排し、正面から非の打ち所のない正統なる兵法をもって覇宮を包囲している。それが何を意味するのか、メイカクには痛いほどに伝わってきた。

それは、ジンからメイカクに対する、最大級の「誠意」であった。

『オッサン。あんたが命を懸けて守ろうとした正義を、あんたが俺に託してくれた正道の力を、俺はここで証明してみせる。あんたの遺志は、俺の中でちゃんと生きている。だから、正面からあんたを越えてみせる』

言葉はなくとも、眼前に広がる圧倒的な銀色と黒の陣形そのものが、ジンの放つ無言のメッセージとしてメイカクの魂を激しく揺さぶっていた。

「……見事だ、ジン」

メイカクの瞳から、驚愕が消え、代わりに深い感動を孕んだ戦慄が広がっていく。

ジンの正道の戦略は、あまりにも見事であった。かつて古い血筋や格式だけに縋り付き、実戦の泥を知らなかった頃のメイカク自身が敷いていた、机上の空論の陣形とは根本的に異なる。ジンの陣には、西国で民の飢えを救い、兵站の重要性を身をもって知った者だけが宿せる、重厚で血の通った「秩序の力」があった。

陣形の中央。数万の兵士たちが左右へと静かに道を拓く中、一頭の漆黒の馬に跨った男がゆっくりと前進してきた。

ジンであった。

彼の身なりは相変わらず粗末な胸当てをつけただけの軽装であり、顔には三日間の死闘の泥がこびりついている。しかし、その佇まいは、かつて覇宮の玉座で周囲を威圧していた魔王ソウガとも、古き血筋を誇る旧貴族とも違う、全く新しい異質な「王」の風格を放っていた。

ジンの背後には、ガク、ゴウ、レン、ハクヤ、リョウガといった、かつては敵味方として殺し合っていた者たちが、一糸乱れぬ忠誠の構えで付き従っている。

さらにその後ろでは、車椅子に座ったクロウが、薄気味悪い笑みを完全に消し去り、厳粛な面持ちでジンの覇道を見守っていた。

ジンは覇宮の城壁の下、メイカクの視線が届く位置でピタリと馬を止めた。

彼は大声を上げることも、逆賊と罵ることもせず、ただ静かに白銀の甲冑を纏った恩師を見上げた。

そのジンの瞳を見た瞬間、メイカクの全身に電流のような衝撃が走った。

(……ああ、そうか。ソウガ様が、新龍寺の炎の中で仰っていたことは、本当であったのだな)

メイカクの脳裏に、数日前の夜、燃え盛る火の海の中でソウガが放った言葉が鮮明に蘇る。

『お前は、この世界の天下を統べる器ではない。……一つは、あの泥の中から這い上がり、邪道を極め、どんな絶望の淵からでも必ず生き残るという恐るべき生存本能を持った野犬。ジンだ』

今のジンから放たれているのは、ソウガをも超えんとする、すべてを飲み込む真の「覇道」の熱量であった。

彼は邪道を極め、メイカクから正道を受け継いだ。その二つの車輪が完全に噛み合った時、一介の薬草売りだった泥犬は、この混沌とした乱世のすべてを上書きし、新たなる新世界を創造する真の「天下人」の器へと、完全に覚醒を遂げていたのだ。

それに比べ、今の自分はどうだ。

ソウガを討ち、覇宮を占拠したものの、法と計算だけで国を縛ろうとし、信頼していた部下たちにさえ不信の影を落とされ、孤独に怯えていた。ソウガの言う通り、自分は安全な枠の中から出られない、ただの一政務官に過ぎなかったのではないか。ジンの持つ圧倒的な王の器の前に、自分が築き上げようとした理性の城など、あまりにも脆く、儚い幻想に思えてならなかった。

ジンの覇道が、メイカクの心を優しく、そして容赦なく圧迫する。

ここで白旗を掲げ、覇宮の門を開けてジンを迎え入れれば、自分の命は助かるかもしれない。ジンなら、主を殺した罪人である自分であっても、その卓越した内政の才能を惜しんで、再び自らの右腕として重用してくれるだろう。ジンの創る新世界の中で、自分は思う存分、経世済民の法律を敷くことができるはずだ。

それは、極めて合理的で、計算に叶った、正しい選択肢であった。

しかし。

メイカクの手は、自らの腰にある長剣の柄を、ギリギリと音を立てるほどに強く握りしめていた。

(……いや。私にも、譲れぬものがある)

メイカクの胸の奥底から、凍りついていたはずの熱い血が、爆発的な勢いで逆流を始めた。

それは、彼が生まれてからずっと教え込まれてきた、名門の生まれとしての「プライド」。そして、西国の泥水の中で一度死に、真の武人として覚醒した一人の男としての「意地」であった。

いかにジンが自分を超えた器であろうと。

いかにジンの敷いた陣形が見事であろうと。

自分は黎州の筆頭家老であり、世界を破滅から救うために魔王ソウガを討った、新たな秩序の先駆者なのだ。ジンの進歩に驚嘆し、ただ道を開けて引き下がるような生き方は、白銀の鎧を纏うメイカクの美学が、何よりも激しく拒絶していた。

「ジンよ……。私は貴公を褒めてやる。貴公の歩んできた道は、紛れもなく本物だ。……だがな、私にも、この命を懸けて貫くべき『正道』があるのだ。ただお前の踏み台となって消え去るほど、私の背負った二百年の秩序は軽くはない!」

メイカクは顔を上げ、面頬めんぽおをガシャリと下ろした。

彼の細い瞳に、孤独な執政者としての迷いは完全に消え失せていた。残されたのは、自らの存在のすべてを懸けて、生涯最高の宿敵であり最愛の弟子でもある男を迎え撃つ、一人の誇り高き大将軍の顔であった。

「全軍、聞け!!」

メイカクの声が、覇宮の城壁の上から、広場を埋め尽くす数万の泥犬たちに向かって響き渡った。

「我が信頼すべき黎州の武士たちよ! 目の前を見よ! そこにいるのは、飢えと疲労に塗れた南国の野犬どもだ! 奴らは我が主君ソウガ様の仇討ちを掲げているが、その実、この王都を再び暴力と混沌の世へと引き戻さんとする不義の輩である!」

メイカクは長剣を抜き放ち、眩しい朝日の光を刃に反射させた。

「我らが為すべきことはただ一つ! ソウガ様が壊したこの地平に、真の法と秩序を敷くことだ! 私を信じ、共にソウガ様を討ったお前たちの正義を、ここで偽りの野犬どもに踏みにじらせてはならん! 私の白銀の鎧と共に、黎州の真の正道を世界に示せ!!」

その悲壮にして、圧倒的な威厳を孕んだ号令は、これまで主君殺しの罪悪感に震えていたメイカクの直属の部下たちの魂に、再び猛烈な火を灯した。

「おおおおおッ!! メイカク様と共に!!」

「逆賊は我らにあらず! 我らこそが、黎州の正義なり!!」

武将たちの瞳に、迷いが消え、決死の闘志が蘇る。彼らは自らの武器を固く握りしめ、主君の仇を討つという大義名分のもと、一斉に戦闘配置へと就いた。

「籠城はせん!!」

メイカクは高らかに宣言した。

「開門せよ!! ジンが正面から正道の陣をもって我らに誠意を示したならば、私もまた、正面から打って出て、我が武を尽くして雌雄を決するのが、武人の礼儀というものだ!!」

「メイカク様、しかし敵の数は……!」

副官が制止しようとするが、メイカクはそれを一喝した。

「数など関係ない! 敵は三日三晩走り続け、足元はおぼつかん! 我らの気骨と、完璧な一撃をもってすれば、必ずや敵の中央を突破できる! 門を開けろ!!」

ギィィィィィィン……。

覇宮の巨大な黒鉄の重門が、内側から重々しい音を立てて、ゆっくりと左右へと開け放たれていった。

城門の奥から湧き出してきたのは、煤を浴びながらも美しく磨き上げられた白銀の具足を纏う、メイカク直属の精鋭数千騎であった。彼らは一糸乱れぬ密集陣形を組み、馬の鼻先を揃えて、ジンの敷いた鶴翼の陣のど真ん中を見据えていた。

その先頭に立つのは、白馬に跨り、白銀の鎧を太陽の光で眩いばかりに輝かせる総大将、メイカク。

折れ曲がった兜の角さえも、今の彼にとっては数々の死線を越えてきた真の武人の勲章のように見えた。

ジンは、門の中から歩み出てきたメイカクの姿をじっと見つめ、その口元に、どこまでも不敵で、そしてどこまでも嬉しそうな野犬の笑みを浮かべた。

「……へへッ。やっぱり、そうこなくっちゃな、オッサン」

ジンは馬の脇腹を軽く蹴り、自らの長槍を前に向けた。

「お前ら、よく見とけよ! あれが、俺たちに正道を教えてくれた、最高のオッサンだ! 敬意を持って、全力でぶっ潰すぞ!!」

「応ォォォォォォォォッ!!」

ゴウが鉄砕棒を振り回し、ガクが十文字槍を構え、レンが真紅の愛馬をいななかせる。数万の泥犬たちの士気は、メイカクの出陣によって、さらに一段高い狂熱の域へと達していた。

朝の光が覇宮の広場を真っ白に照らし出す中、二つの巨大な意志が、完全に正面から衝突しようとしていた。

邪道を極め、正道を手に入れた新時代の覇王、ジン。

古き秩序を背負い、自らの意地とプライドのために修羅となった白銀の将、メイカク。

「黎州千人将、ジン!! 参る!!」

「黎州執政、メイカク!! 迎え撃つ!!」

二人の総大将の裂帛の突撃の号令が、同時に王都の空を引き裂いた。

ズドドドドドドドドォォォォォォォンッ!!

数千の白銀の騎馬隊と、数万の泥まみれの歩兵一団が、地鳴りあふれる大音響と共に、真正面から激突した。

槍と槍がぶつかり合い、火花が散り、剣が甲冑を切り裂く鈍い音が広場に響き渡る。

黎州の、そしてこの世界の天下の行く末を決定づける、宿命の最終決戦が、今、最高の正道の舞台の上で、華々しく幕を開けたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ