第54話 神速の泥犬と、崩壊する白銀の盤上
炎州の乾いた風が、次第に湿り気を帯びた王都周辺の青々とした風へと変わっていく。
太陽が三度目の昇降を繰り返し、天地を焦がすような過酷な大行軍は、ついに三日目の朝を迎えていた。
数万の黎州・南国討伐軍。彼らの姿は、もはや正規軍のそれとは似ても似つかない、凄惨極まる有様であった。
軍靴の底はすり減って穴が開き、多くの兵士が裸足のまま、血で泥を赤く染めながら大地を蹴っている。喉は干上がり、唇はひび割れ、極度の睡眠不足と疲労によって、彼らの眼球には真っ赤な血走りが走っていた。
走る。ただ走る。
思考はとうの昔に限界を超え、白濁した意識の中で、ただ前の者の背中だけを追い続けるという原始的な生存本能のみが、彼らの両足を強制的に動かし続けていた。
「ハァッ……ハァッ……! 止まるな! 止まった奴から死ぬぞ!!」
特攻隊長のゴウが、自らの巨大な鉄砕棒に加え、倒れかけた部下の槍を何本も脇に抱え込みながら、先頭集団で咆哮を上げる。彼の全身からは滝のような汗が噴き出し、水蒸気となって白く立ち上っていた。
その後方では、無表情なガクが、自らも極限の疲労に喘ぎながら、竹竿を杖代わりにしつつ部隊のペース配分を叫び続けている。
誰一人として脱落を許さない。
この狂気とも言える「神速の大返し」を支えていたのは、恐怖による統制ではない。彼らを率いる大将、ジンという男に対する、狂信的なまでの信頼と熱狂であった。
「へへッ……。俺たちの親父は、嘘はつかねえ。このイカれた競争に勝てば、一生遊んで暮らせるだけの金銀財宝をくれるって約束したんだ……!」
足から血を流す古参の兵士が、荒い息を吐きながら隣の若兵に笑いかけた。
「ああ、そうだ。あの人は、ただの御大層な貴族様じゃねえ。俺たちと同じ、一番下っ端の泥水から這い上がってきた御方だ。約束した恩賞は必ずくれる。俺たちに、今まで誰も見たことのない一番高い景色を見せてくれるんだ!」
この戦いに勝利すれば、必ず何かが得られる。
ただ命をすり減らすだけの捨て駒ではなく、自分たちの流した血と汗が、そのまま天下の覇権と自らの富に直結する。ジンという男は、そういう「実利」と「夢」を同時に見せてくれる、稀代の野犬の王であった。
だからこそ兵士たちは、肺が破れ、筋肉が断裂するほどの苦痛を味わいながらも、その瞳に決して消えることのないギラギラとした欲望と闘志の炎を燃やし続けていたのである。
「見えたぞォォォォッ!!」
軍の先頭から、裂帛の歓声が上がった。
朝靄が晴れゆく地平線の彼方に、黒々とそびえ立つ巨大な城郭。かつて魔王ソウガが座し、今は逆賊メイカクが占拠する、天下の中心たる黎州本都・覇宮の偉容であった。
「よくやった、お前ら! あと少しだ!! 最後に残った気力を全部脚に叩き込めェェッ!!」
漆黒の馬に跨るジンが、小刀を振りかざして全軍を鼓舞する。
地鳴りのような数万の足音が、ついに王都の領域へと雪崩れ込んでいった。
それは、物理的な限界と兵法の常識を完全に置き去りにした、歴史上誰も成し得なかった奇跡の到達であった。
同じ頃、覇宮の最も高い天守閣にある執務室。
白銀の将軍メイカクは、朝日を浴びながら、机の上に広げられた膨大な書類に目を通していた。
東国のトクナガに対する防衛網の構築は、順調に進んでいる。王都の治安維持のための法整備も、少しずつではあるが形になりつつあった。
彼の頭脳が弾き出した計算式によれば、あと十七日。南国にいるジンの軍勢が到着するまでに残されたその十七日間で、王都を難攻不落の要塞へと作り変える手はずは、完璧に整えられていた。
「……計算通りだ。兵站、人員配置、物資の輸送。私の敷いた正道の理屈に、一分の狂いもない」
メイカクが静かに茶をすすり、心地よい疲労感に浸ろうとした、まさにその時であった。
カンカンカンカンカンカンッ!!
突如として、王都の外壁に設けられた見張り塔から、非常事態を告げる半鐘が狂ったように打ち鳴らされた。
その音は一つや二つではない。南方の城壁に等間隔で配置されたすべての見張り塔から、悲鳴のような鐘の音が連鎖的に鳴り響いたのである。
「何事だ!?」
メイカクが手から筆を取り落とし、立ち上がった。
部屋の扉が乱暴に開かれ、血相を変えた警備の武将が転がり込んできた。彼は極度の恐慌状態にあり、息も絶え絶えに叫んだ。
「め、メイカク様ッ! て、敵襲!! 敵の大軍です!! 南の地平線が、完全に敵の旗で埋め尽くされております!!」
「馬鹿なことを言うな! 敵だと? 東のトクナガは動いていないはずだ。南の諸侯がここまで一気に攻め上ってくることなど、物理的にあり得ん!」
「ち、違います!! 掲げられている旗印は……『泥犬』!! ジン将軍の軍勢です! 数万の軍勢が、すでに王都の南門を完全に包囲しつつあります!!」
「――――なっ、だと……!?」
メイカクの頭の中で、完璧に組み上げられていた巨大な計算式が、音を立てて粉々に砕け散った。
彼は武将を突き飛ばすようにして部屋を飛び出し、天守閣の南側の高欄へと駆け寄った。
眼下に広がる、朝日に照らされた王都の郊外。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
無数の、本当に数え切れないほどの土埃が舞い上がり、その中から、泥にまみれた黎州・南国討伐軍の旗印が、まるで地獄から湧き出してきた亡者の群れのように押し寄せてきているではないか。
彼らは美しい陣形など組んでいない。ただひたすらに、本都の城壁を目指して一直線に爆走してきている。
「ば、馬鹿な……! 馬鹿な馬鹿な馬鹿な!!」
メイカクは、高欄の手すりを握りしめ、顔面を蒼白にして絶叫した。
彼の優秀な頭脳が、必死に目の前の現実を否定しようとフル回転する。
「南国から王都まで、いかに急行軍を行おうと二十日はかかる! 兵站の輸送、兵の体力回復、野営の準備……それらを行えば、絶対に、絶対に三日で到着することなど不可能なのだ!! 幻だ、これは何かの妖術だ!!」
しかし、城壁の外から響いてくる、数万の兵士たちの地鳴りのような怒号と足音は、それが紛れもない現実であることをメイカクに突きつけていた。
(……荷を、捨てたのか?)
メイカクの卓越した知能は、やがて一つの恐るべき結論へと到達した。
兵糧も、天幕も、重火器も、甲冑すらも。軍隊としての機能をすべて放棄し、道端の村を脅して食料を奪いながら、文字通り「走り続けた」のだとすれば。
「……なんという、狂気。なんという悪魔の所業……!」
それは、理性を重んじ、法と秩序で世界を治めようとするメイカクにとって、到底理解できない、絶対的な「邪道」の極致であった。
ジンという男は、天下の覇権を握るために、数万の部下の命を使い捨ての弾丸に変え、自らも泥水に顔を突っ込んで走ってきたのだ。
メイカクは震える手で、自らの額を押さえた。
東国の脅威に備え、すでに防衛兵力の過半数を東の国境へと移動させてしまっていた。現在、王都に残っているのは治安維持のための守備隊と、メイカクの直属部隊のわずかな兵力のみ。
二十日の猶予があるという前提で動かした盤面が、たった三日でひっくり返された。
王都は今、南からの大規模な防衛戦に耐えられる状態にはなかった。
(どうする。打って出るか? いや、兵力差は圧倒的だ。ならばこの覇宮に籠城するか? だが、城内の兵糧も防衛設備も、まだ完全には整っていない……!)
メイカクの頭脳に、かつてないほどの激しい焦燥と絶望が渦巻いた。
計算が通じない。理屈が通じない。自分の信じてきた「正道」が、ジンの持つ圧倒的な生存本能と熱気の前で、ただの無力な紙切れに成り下がろうとしている。
「……いや。まだだ」
メイカクは深く息を吸い込み、自らの頬を強く平手で叩いた。
彼は天守閣の奥に置かれた、白銀の甲冑を睨みつけた。
(私は、ただの計算高い内政官ではない。西国の過酷な戦場で、補給を絶たれ、飢えに苦しみ、泥水をすすって命を繋いだ経験がある。……私もまた、あの泥の中で『邪道』を知り、生き残った身なのだ)
メイカクの目に、かつてソウガを討つと決めた夜と同じ、冷徹な修羅の光が宿った。
ジンは確かに常識を破壊した。しかし、彼らの軍勢は三日三晩走り続け、疲労の極致にあるはずだ。武器もろくに持たず、陣形も崩れている。
ならば、城壁の利を活かし、残存兵力を総動員して南門を死守すれば、必ず勝機はある。いや、ここで迎え撃たねば、自分の思い描いた正道の天下は永遠に失われる。
「ジンよ……。貴公の持つ野犬の熱と、私の持つ白銀の理。どちらがこの乱世を統べるに相応しいか。……私自身の誇りを懸け、己と雌雄を決したい!」
メイカクは白銀の甲冑を素早く身に纏うと、長剣を腰に帯び、部屋の外に控えていた伝令に向かって大音声で命令を下した。
「全軍に告ぐ!! 敵は極度の疲労状態にある、恐るるに足らず! 南門の城壁に全弓隊を配置せよ! 鉄砲、投石、使えるものはすべて使え! 城門を分厚い丸太で完全に封鎖し、一匹の泥犬たりとも王都に入れるな!!」
しかし。
メイカクの悲壮なまでの決意と命令が、その伝令の口から王都の防衛部隊へと伝えられることはなかった。
「……メイカク様。それは、いささか手遅れというものですよ」
部屋の隅、影の落ちた柱の裏側から、奇妙に歪んだ、老人のような嗄れた声が響いた。
メイカクが弾かれたように振り返ると、そこには、いつの間にか一人の小柄な男が立っていた。男は薄汚れた商人のような身なりをしていたが、その手には、不気味な黒い杖が握りしめられている。
「貴様……誰だ! いつの間に天守閣へ入り込んだ!」
メイカクが即座に長剣を抜き放ち、切っ先を男へ向けた。
男は刃を向けられても微塵も動じず、ただ杖の先で床をコツンと叩き、薄気味悪い笑みを浮かべた。
「クックック。私は、双頭の悪魔の片割れ……クロウと申す者。我が主君、ジン様のために、少々『場作り』をさせていただきに参りました」
「クロウだと……? 炎州にいたはずの軍師が、なぜここにいる! まさか、この三日間のうちに単身で王都へ潜入したというのか!」
メイカクの背筋に、氷のような悪寒が走った。
「その通り。我が主君が数万の兵を連れてマラソンをしている間、私は最も速い早馬を何頭も乗り潰し、一足先にこの王都へと入り込んでおりました。……ただ王都へ走るだけが、大返しではありませんからな」
クロウは懐から、数枚の真っ黒に焦げた木簡を取り出し、メイカクの足元へと放り投げた。
「……すでに、我が配下の手の者たちが、城内の兵糧庫の三箇所に火を放ちました。同時に、東門と西門を守る守備隊長たちには、たっぷりの黄金と『ソウガ様を討った逆賊メイカクに天罰が下る』という噂を流し込み、彼らの忠誠心を完全にへし折ってあります」
「な……っ!?」
メイカクが窓の外を見ると、確かに王都の各所から、不自然な黒煙が上がり始めている。城内の兵士たちが混乱し、統制を失って走り回る姿がはっきりと見えた。
「さらに、南門の巨大な城門」
クロウは、とどめを刺すように残酷な笑みを深めた。
「あの門の開閉機構の歯車には、すでに私が王都の裏社会の者を買収し、鉄の楔を打ち込ませておきました。……もう、あの門は完全に閉ざすことはできません。ジン様の軍勢を迎えるため、大きく開け放たれたままなのです」
「貴様ァァァッ!!」
メイカクは怒りに任せて長剣を振り下ろしたが、クロウはその一撃を杖で巧みにいなし、そのまま煙玉を床に叩きつけて姿を消した。
「クックック……。計算の及ばぬ人間の『恐怖』と『欲望』。それこそが、私の扱う兵站です。……存分に、我が主君との殺し合いをお楽しみください、白銀の将軍よ」
煙と共に残された嘲笑が、部屋に虚しく響く。
メイカクは呆然と立ち尽くした。
軍を異常な速度で動かすジンという「物理的な狂気」と、その裏で王都の機能を内部から完全に破壊していたクロウという「心理的な悪魔」。
彼らが仕掛けた神速の大返しは、単なる移動ではなく、王都を内と外から同時に食い破る、完璧な必殺の包囲網であったのだ。
ズゴォォォォォンッ!!
その時、眼下の南門から、城壁がへし折れるような凄まじい破壊音が轟いた。
開け放たれたままの門へ向けて、ゴウの振るう鉄砕棒と、数万の泥犬たちが、一切の抵抗を受けることなく、まるで濁流のように王都の内部へと雪崩れ込んできたのである。
「オラァァァッ!! 逆賊メイカクの首を獲れェェッ!!」
「親分の仇だァァッ!!」
怒号と殺意が、王都の美しい街並みを一瞬にして修羅場へと変えていく。
メイカクが築き上げようとした法と秩序の国は、たった三日で、自らが教えを授けた男の持つ野犬の牙によって、根底から噛み砕かれようとしていた。
「……ジン。これが、貴公の覇道か。すべてを破壊し、泥にまみれても勝利を掴むというのか……!」
メイカクは、長剣を固く握りしめた。
すでに盤上は崩壊し、計算は無意味となった。残されたのは、己自身の武力と、この白銀の鎧に込められた意地だけである。
「来るがいい、ジン!! 私は絶対に、貴公の邪道にこの天下を渡しはしない!!」
白銀の将軍は、自らのすべてを懸けた最後の死闘に臨むべく、血と泥の臭いが立ち込める天守閣の階段を、ゆっくりと、しかし力強く下りていった。




