第53話 野犬の大博打と、白銀の完璧なる計算
炎州の空に、ギラギラと燃え盛るような太陽が昇り始めていた。
乾燥した熱風が吹き抜ける広大な荒野に、身軽な軽装のみを纏った数万の黎州兵が、一糸乱れぬ隊列を組んで整列している。
彼らの足元には、燃え尽きて黒い灰となった焚き火の跡が点在していた。兵糧、天幕、重い甲冑、そして予備の武具。昨日まで彼らの命を繋いでいたはずのすべての「常識」が、すでにこの砂漠に遺棄され、燃やし尽くされている。
兵士たちが身につけているのは、使い慣れた一振りの武器と、水筒だけだ。
その異様な集団の先頭にある小高い岩山の上に、ジンが立っていた。
彼は、泥と汗にまみれた自らの顔を拭うこともせず、眼下に広がる数万の瞳を真っ直ぐに見下ろしていた。
兵士たちの顔には、疲労も恐怖もなかった。あるのは、自分たちの親玉がこれから何を仕掛けるのかという、極限の期待と狂気じみた高揚感だけであった。
「……お前ら、よく聞いてくれ」
ジンの声は、荒野の風に乗って、軍勢の最後尾にまで不思議なほどはっきりと届いた。
「王都で、とんでもねえことが起きた。俺たちに生きる場所を与えてくれたソウガの親分が、逆賊メイカクの刃に倒れた。……あのオッサンは、親分の寝首を掻いて玉座に座り、自分が新しい国の主面をしてやがる」
ジンが事実を告げると、数万の兵士たちの間に、怒りと闘志の混じった地鳴りのようなざわめきが起こった。
「俺は、小難しい理屈や大義名分はわからねえ。だがな、受けた恩を仇で返すような奴が、天下の頂点に立つことだけは、絶対に気に食わねえ! 俺たちはこれより、炎州の砂漠を抜け、王都・本都へと引き返す。……逆賊メイカクを討ち、ソウガの親分への恩返しをするためだ!」
ジンは自らの小刀を抜き、空高く掲げた。
「だが、ただ戻るんじゃ意味がねえ。メイカクのオッサンは頭が切れる。普通の速度で戻れば、王都はガチガチの要塞になっちまう。……だから俺たちは、誰も考えつかないような異常な速度で、最速で本都に到着し、オッサンの首を獲る!」
ジンの放つ熱気が、空気を震わせる。
「道中の飯も寝床も全部捨てた。これからの三日間が、俺たちの、いや、この黎州の天下を決める最大の勝負の時だ! 三日三晩、寝ずに走り続けろ! 限界を超えて、足がちぎれても前の奴の背中を追え!
この狂った大博打に見事勝てば、俺がお前らにいくらでも金銀財宝をくれてやる! うまい飯も、いい女も、全部お前らのもんだ! ……だが、もし途中で倒れたり、負けたりすれば、待っているのは胴体と首が離れるだけの惨めな死だ。
どうだ、お前ら! この俺の、命を懸けた大博打に、乗ってもらうぞ!!」
ジンの絶叫が荒野に響き渡った瞬間。
数万の兵士たちから、不安の声やためらいの吐息は、ただの一つも上がらなかった。
「応ォォォォォォォォッ!!」
大地を割り、天を衝くような凄まじい雄叫びが爆発した。
彼らは最底辺から這い上がってきた泥犬の群れである。命を懸けた博打など、毎日のようにやってきた。ジンという男がすべてを賭けると言うのなら、それに乗らない理由など彼らの魂のどこにも存在しなかった。
士気は、文字通り最高潮に達していた。
「全軍、出立!! 目指すは本都、覇宮!!」
ジンの号令が下された。
ドドドドドドォォォォォッ!!
数万の軍靴が同時に大地を蹴り上げ、巨大な砂嵐を巻き起こしながら、狂気の大行軍が開始された。
その行軍の速度は、戦史の常識を完全に破壊するものであった。
馬は泡を吹いて走り、歩兵たちは武器を杖代わりにしながら、ただひたすらに北を目指して駆け抜ける。
「遅れるな! 隊列を乱す者は、容赦なく切り捨てるぞ!」
ガクが、竹竿を振り回しながら冷徹に軍の規律を維持する。彼の頭脳は、数万の人間が走り続けることで生じる摩擦や渋滞を瞬時に計算し、最適な隊列の幅と交代のタイミングを指示し続けていた。ガクの極限の統率力なくして、この巨大な集団が自滅せずに走り続けることは不可能であった。
そして、彼らの常識外れの速度を支えていたのは、二人の「悪魔」の力であった。
「ジン殿、この先の渓谷は、シオン殿が遺した地形図によれば、左の獣道を抜けることで半日の行程を短縮できます」
馬上で揺られながら、クロウが亡きシオンの遺した分厚い手記を開いて指示を出す。
シオンは生前、南国への進軍の過程で、ありとあらゆる地形、獣道、隠された抜け穴を徹底的に調査し、記録に残していた。「いずれ必ず、急いで本都へ帰還せねばならない日が来る」と予見していたかのように。
シオンの残したその地形操作の遺産が、ジンの軍勢に「最短の直線距離」を突き進むことを可能にしていた。
さらに、クロウ自身の悪魔的な兵站工作が、兵士たちの命を繋いでいた。
彼らが街道沿いの村に差し掛かると、そこにはクロウが事前に放っていた間者たちによって買収され、あるいは脅迫された村人たちが、道の両脇にずらりと並んで待機していた。
「ほれ、握り飯だ! 立ち止まるな、走りながら受け取れ!」
「水だ! 樽から直接すくって飲め!」
兵士たちは歩みを止めることなく、差し出された握り飯を引ったくるように受け取り、泥と汗にまみれた手でそれを口にねじ込みながら、そのまま走り抜けていく。
黄金の力と、村を焼かれるという恐怖によって作り出された、全長数百里に及ぶ「移動食堂」。
このクロウの狂気の兵站術がなければ、荷をすべて捨てた数万の軍勢は、半日も持たずに飢えと渇きで全滅していただろう。
「ハハハハッ! 食え食え! 食って走れェッ!」
特攻隊長のゴウが、両手にいくつもの握り飯を抱え込みながら、先頭集団を引っ張って爆走している。彼の無尽蔵の体力は、兵士たちにとって最大の道標となっていた。
足の裏の皮が破れ、血が滲んでも、誰一人として倒れる者はいない。
ジンが最後尾から見せる「俺も走っている」という事実が、すべての兵士に超人的な力を与えていた。
彼らはもはや人間ではなく、本都を目指す一つの巨大な弾丸となっていた。
天下の覇権を握るため、亡き主君の仇を討つため、そして何より、自分たち自身の「天下の景色」を見るために。
神速の大返しは、誰にも止められない猛烈な速度で、炎州を北上し続けていたのである。
一方その頃、黎州本都、覇宮。
謁見の間に設えられた執務机の前に座るメイカクは、書類の山から顔を上げ、深く、重い疲労の息を吐き出した。
ソウガを討ち、王都を掌握してから数日。彼が描いた「法と秩序」の国作りは、想像を絶する困難に直面していた。
恐怖という重石が取れたことで、各地の領主たちはそれぞれの思惑で動き始め、税の徴収は滞り、王都の治安も完全には安定していない。メイカクの優秀な頭脳をもってしても、人間の持つ果てしない欲望と利己心を完全に計算式に当てはめることは不可能であった。
しかし、内政の苦難以上に、メイカクの頭脳を最も悩ませていたのは、外部からの軍事的な脅威であった。
彼は広げられた巨大な天下の地図の上に、三つの駒を置いた。
東、北、そして南。
「……天下を制するためには、この三方向からの脅威を完璧に処理せねばならない」
メイカクは独りごちながら、まず東国を指し示した。
「現在、最も危険なのは東国の覇侯、トクナガだ」
東国は、黎州の国境と直接接しており、本都までの距離が最も近い。
トクナガという男は「狸」と呼ばれるほど狡猾であり、ソウガの死と王都の混乱というこの絶好の好機を、決して見逃すはずがない。
兵法において、最も近く、最も兵力に余力のある敵に対して最大の防衛線を構築するのは、初歩中の初歩であり、絶対の常識である。
「東の国境沿いには、我が直属の精鋭を急ぎ派遣し、防衛陣地をさらに強固なものにせねばならん。トクナガの軍勢を王都に一歩たりとも近づけてはならない」
メイカクは即座に命令書をしたため、東の防衛に黎州軍の主力の半分以上を割く決断を下した。
彼の計算では、これでトクナガの侵攻は完全に防ぐことができるはずだ。
次に、彼は北国に置かれた駒を見た。
「北のシュウスイとトウガ様……。彼らの武力は脅威だが、今は動けない」
放っていた密偵からの報告によれば、北国は現在、数百年ぶりとも言われる異常な大吹雪に見舞われているという。いかにシュウスイが鬼のような武力を持っていようと、数万の軍勢をあの雪の中で動かせば、春を待たずに全滅する。
さらに、北国の残党たちがゲリラ戦を展開し、街道を封鎖しているという情報も入っていた。
北の脅威は、少なくとも雪が解ける数ヶ月後までは、完全に盤上から排除して考えることができた。
そして最後。メイカクの視線は、地図の遥か南、炎州の奥深くに置かれたジンの駒へと向けられた。
「……問題は、この男だ」
メイカクの脳裏に、西国の雪山で不敵に笑っていた、泥だらけのジンの顔が浮かぶ。
常識を破壊し、どんな絶望的な状況からでも生き残る、あの野犬の生存本能。
メイカクが最も警戒し、そして最も恐れているのは、シュウスイでもトクナガでもなく、自分が「正道」を託したあのジンであった。
ジンは必ず、ソウガの仇を討つという大義名分を掲げて、本都へ向かってくるだろう。
メイカクは、手元のそろばんを弾き、ジンの軍勢が南国から王都へ到達するまでの日数を、ありとあらゆる変数を考慮して極めて精密に計算した。
「現在の彼らの布陣位置、炎州の過酷な気候、南国諸侯の妨害、そして数万という軍勢の兵糧輸送と行軍速度……」
パチパチというそろばんの音が止まる。
メイカクの導き出した答えは、揺るぎないものであった。
「いかにジンが急行軍を行おうと、兵站を維持しながら数万の軍を動かす以上、王都に到達するには最短でも二十日はかかる。これは物理的な限界であり、兵法の絶対的な常識だ」
メイカクは、南国に置いたジンの駒を、地図の真ん中あたりまで少しだけ進めた。
「二十日。……私には、二十日という時間が残されている」
メイカクの顔に、久しぶりに自信に満ちた冷徹な笑みが浮かんだ。
二十日あれば、東国のトクナガに対する防衛網を完全に盤石なものにし、さらに王都周辺の地形を活かした無敵の迎撃陣地を構築することができる。
城壁を補強し、堀を深くし、兵糧を城内に蓄え、弓隊の配置を完了させる。
「ジンよ。貴公の持つ邪道の力は確かに恐ろしい。だが、戦とは結局のところ、兵站と計算、そして国家の総合力で決まるのだ」
メイカクは、自らの計算式に一点の曇りもないことを確信していた。
彼は、王都の防衛計画書の作成に取り掛かった。
それは、いかなる猛将の突撃をも粉砕し、いかなる軍師の策をも無効化する、白銀の頭脳が編み出した完璧な「正道」の防衛陣の設計図であった。
「この二十日間を乗り越え、王都の守りを固めきれば……私の勝利は揺るぎないものとなる。ジン、貴公の熱気も、私の構築した理性の壁の前では、ただの虚しい波しぶきとなって散るだろう」
メイカクは、自分が絶対の安全圏にいると信じて疑わなかった。
兵法という常識の枠内で考える限り、彼の計算は宇宙の真理のように正しかったのだ。
しかし、メイカクには想像することもできなかった。
その常識の枠組みそのものを、荷を捨て、飯を食いながら走り続けるという狂気によって完全に破壊した数万の泥犬たちが、物理法則を無視した神速で、すでに王都の目と鼻の先にまで迫りつつあるという事実を。
玉座で完璧な計算に酔いしれる白銀の統治者と、極限の飢えと渇きを熱狂で越えていく野犬の群れ。
天下を懸けた激突の時は、メイカクの計算を遥かに凌駕する恐るべき速度で、目前にまで迫っていたのである。




