第51話 野犬の目覚めと、悪魔が描く神速の軌跡
炎州の荒野に、血のように赤い夕陽が沈もうとしていた。
灼熱の太陽が大地に焼き付けた熱気は、夜が近づいてもなお衰えることを知らず、兵士たちの流す汗に混じって焦げ臭い風を運んでくる。
しかし、黎州・南国討伐軍の本陣を包んでいたのは、気候の熱さとは全く質の異なる、張り詰めた極限の緊張感であった。
巨大な天幕の中に、黎州軍の主要な将たちが集められていた。
巨大な鉄砕棒を背負った特攻隊長ゴウ。竹竿を傍らに置き、無表情を貫くガク。真紅の甲冑を纏う沙那家の若武者レン。海の男の荒々しさを漂わせる水軍の将リョウガ。そして、暑さに喘ぎながらも巨躯を丸めて控える北国の大将軍ハクヤ。
彼らの視線の先には、床几に深く腰掛けたジンと、その背後に影のように寄り添う杖の男、天才謀略家クロウの姿があった。
「……集まってもらって悪いな」
重い沈黙を破り、ジンが低く、しかし天幕の隅々にまで届くよく通る声で口を開いた。
彼の瞳は、いつもの飄々とした野犬のそれではなく、深く、暗く、そして静かに燃え盛る炎を宿していた。
「単刀直入に言う。……本都から早馬が来た。ソウガの親分が死んだ」
その一言が落とされた瞬間、天幕の中の空気が凍りついた。
「な……親父、今なんて言った?」
ゴウが、信じられないものを見るような目でジンを見つめ返した。
「あの、バケモノみたいに強えソウガの親分が……死んだ? 冗談だろ? この炎州の暑さで頭がイカれちまったのか?」
「冗談じゃねえ。事実は一つだ」
ジンは床に広げられた地図に、自らの短刀を突き立てた。短刀の刃は、王都・本都のすぐ東、新龍寺のある位置を貫いていた。
「親分を討ったのは、他でもねえ。西国で俺たちと一緒に飯を食った……あの白銀のオッサン、メイカクだ」
「なっ……!?」
ガクがわずかに目を見開き、レンが息を呑んだ。
ハクヤに至っては、あまりの衝撃に言葉を失い、ただ口をあんぐりと開けている。
「あの体裁ばかり気にする筆頭家老が、ソウガ様を討ったというのか……! いくら何でも、信じられん!」
レンが叫ぶように言った。
しかし、ジンは首を横に振った。
「信じる信じねえの話じゃねえ。現にオッサンは親分を火の海に沈め、今や本都の覇宮を占拠して、自分が新しい覇侯として国を動かし始めてる。……親分が王都で寺院を焼き払い、天帝の血筋を絶やしたことが引き金になったんだろう。オッサンは、自分の信じる『正道』を守るために、親分を討つ決意をしたんだ」
天幕の中に、再び重苦しい沈黙が落ちた。
メイカクという男が、いかに王都の法と秩序を愛し、真面目すぎるほどの武人であったか。西国で彼と共に戦ったジンたちには、その動機が痛いほどに理解できてしまったからだ。
しかし、その沈黙を切り裂いたのは、ゴウの腹の底から湧き上がるような怒号であった。
「ふざけんなァァァッ!!」
ゴウが立ち上がり、巨大な鉄砕棒を地面に激しく叩きつけた。大地が震え、天幕の柱がミシミシと軋む。
「オッサンの理屈なんか知らねえ! あのオッサンは、西国で泥水すすって泣き喚いてたところを、親父に助けられたんじゃねえか! ソウガの親分だって、オッサンの才能を惜しんで命を助けてやったんだぞ! それを裏切って主君の寝首を掻くたァ、武人どころか人間のクズのやることだ!!」
ゴウの目には、怒りの涙が浮かんでいた。
「ゴウの言う通りだ。感情論はともかく、軍規と大義名分において、主殺しは決して許されざる大逆である」
ガクもまた、静かな声の中に冷たい殺意を滲ませて同意した。
「メイカク殿の行政能力は確かに傑出している。だが、主君を討った逆賊が玉座に座る国など、いずれ内部から腐敗し崩壊する。我々黎州の将として、この謀反を看過することは断じてできん」
「俺も同感だぜ、ジン!」
レンが身を乗り出した。
「義に反する輩を討つ。それこそが、俺たち野犬の意地ってやつだろうが! 釜田峡谷で誓った盟約、ここで果たさせてもらうぜ!」
「海狗衆も、ジン大将の行くところならどこへでもお供しやすぜ。海だろうが陸だろうが、あの白銀の野郎の首、俺たちが一番乗りで獲ってやらぁ!」
リョウガが野卑な笑みを浮かべて拳を鳴らす。
北国のハクヤも、無言で深く頷き、自らの巨大な戦斧を撫でた。
ジンの配下たちは、誰一人として迷っていなかった。
ソウガという絶対的な恐怖の重石が消えた今、彼らを繋ぎ止めているのは黎州という国への忠誠ではない。泥水をすすりながら共に死線を越えてきた、ジンという一人の男に対する絶対的な信頼と、義の心だけであった。
ジンは、熱気に満ちた仲間たちの顔を一人一人見渡し、ゆっくりと立ち上がった。
「……お前らの気持ちは、痛いほどわかった。俺も、同じ気持ちだ」
ジンは短刀を引き抜き、地図の南国から、王都へ向かって真っ直ぐに直線を引いた。
「俺たちはこれより、全軍を反転させる。南国討伐はここで打ち切りだ。……逆賊メイカクを討ち、俺たちがソウガの親分の仇をとる!」
「「「応ォォォォォッ!!」」」
諸将の地鳴りのような勝鬨が、天幕を揺らした。
「だが、ジン殿。勢いだけでは戦は勝てませぬぞ」
熱狂に包まれる中、ただ一人、クロウだけが氷のように冷たい声で水を差した。
クロウは杖をつきながら、地図の前に進み出た。
「現在、我々がいる炎州の最深部から、王都の覇宮までは、通常の行軍であればいかに急いでも二十日はかかります。……メイカク殿は内政の天才。二十日もあれば、王都周辺の防衛網を完璧に再構築し、難攻不落の要塞へと変えてしまうでしょう。さらに、北国のシュウスイ殿も、雪解けを待って南下してくる。東国のトクナガも機を窺っている。我々がちんたらと歩いていては、天下の情勢は完全に我々の手の届かないところへ行ってしまう」
「二十日もかかってたまるかよ」
ジンがニヤリと笑い、クロウを見た。
「クロウ。お前のその腐った悪魔の頭脳なら、もっと早く、それこそ非常識な速度で王都へ帰る絵図面ができあがってんだろ?」
「クックック……。ご明察で。亡きシオン殿であれば、間違いなく同じ策を立てたことでしょう」
クロウは懐から数枚の木簡を取り出し、床に並べた。
そこには、常人の理解を超えた、狂気に満ちた撤退計画がびっしりと書き込まれていた。
「目標日数は……三日。たった三日で、この数万の軍勢を王都の目前まで移動させます」
「さ、三日だと!?」
冷静なガクでさえ、思わず声を荒らげた。
「馬鹿なことを言うな! 物理的に不可能だ! 兵の体力、兵糧の輸送、馬の限界……すべてにおいて計算式が成立しない!」
「ええ、通常の軍隊であれば不可能でしょう。ですから、軍隊であることをやめるのです」
クロウは不気味に目を細めた。
「まず、兵糧、重火器、野営のための天幕、そして余分な甲冑……行軍の妨げになるすべての『荷』を、この炎州の砂漠に遺棄します」
「なっ……兵糧を捨てるだと!? 道中、兵はどうやって食い繋ぐ気だ!」
「そのための、事前の工作です」
クロウは杖の先で、街道沿いの要所を次々と指し示した。
「私はすでに、南国から王都に至るまでのすべての街道の村長や豪商たちに、早馬と間者を放っております。……『黎州の泥犬部隊が、数万の軍勢で街道を通る。通過する時刻に合わせて、すべての村で握り飯と汁物を用意し、道端に並べておけ。さもなくば、村を一つ残らず焼き払う』と。もちろん、協力した者には後で莫大な黄金を支払うという飴も添えてあります」
クロウの言葉に、諸将は息を呑んだ。
それは、自前で兵站を持ち歩くという軍の常識を完全に破壊し、道中の村々を「移動する食堂」として金と恐怖で買収するという、まさに悪魔のような発想であった。
「兵士たちは、武器だけを持ってひたすらに走る。走りながら道端に用意された飯を食い、水を飲み、夜を徹して駆け続けるのです」
クロウはさらに、水軍の将リョウガに視線を向けた。
「リョウガ殿の水軍の船には、限界まで兵を詰め込み、河川を逆上って陸路組の疲労をローテーションで回復させます。……これは行軍ではない。数万の人間による、狂気の死の競争です。三日後、王都に辿り着いた時には、半数の兵は疲労で倒れ、使い物にならなくなっているでしょう。……ですが、それでも良いのです」
クロウの目が、薄暗い天幕の中でギラリと光った。
「たった三日で、南国の果てにいたはずの泥犬部隊が王都の目と鼻の先に現れる。その『物理的にあり得ない事実』そのものが、完璧な計算を信条とするメイカク殿の頭脳に、最大の恐怖と混乱をもたらす最強の武器となるからです」
あまりにも無茶苦茶で、あまりにも非人道的な策。
しかし、これ以外にメイカクの虚を突き、天下の覇権を握る術はない。
「……いいだろう。それでいく」
ジンは一切の迷いなく、決断を下した。
「ガク! ゴウ! レン! ハクヤ! お前らは直ちに兵を叩き起こし、明日の日の出までに不必要な荷をすべて燃やせ! 一分一秒が惜しい。たった一日で、進発の準備を完璧に終わらせろ!」
「「「応!!」」」
「それとクロウ、南国の連中はどうする。俺たちが背中を見せれば、奴らは必ず追撃してくるぞ」
「ご心配なく」
クロウは冷酷に笑った。
「南国の諸侯には、すでに私の放った密偵から『ソウガ様は健在であり、メイカク殿こそが討伐された』という偽情報を流してあります。さらに、シオン殿が最後に遺した火薬兵器の残りを、敵の陣地の目前でド派手に爆発させて脅しをかけましょう。……奴らは混乱し、我々が撤退しているのか、新たな奇襲を仕掛けようとしているのか判断できず、数日は陣から動けなくなります」
天才軍師シオンの遺産と、謀略家クロウの心理戦。二つの悪魔の頭脳が組み合わさることで、後顧の憂いは完全に断ち切られた。
その夜から翌日にかけて、炎州の黎州陣営は、常軌を逸した速度で撤収の準備を進めた。
空を焦がすような巨大な焚き火が焚かれ、運びきれない兵糧や天幕、予備の武器が次々と投げ込まれていく。兵士たちは身軽な軽装となり、最低限の武器と水筒だけを身につけた。
ジンは、小高い丘の上から、蟻の群れのように走り回り、汗水流して働く配下の武士たちや兵士たちの姿をじっと見下ろしていた。
(……すげえな、こいつら)
ジンは心の中で独りごちた。
かつての自分は、今日を生き延びるためだけに道端の薬草を売り、泥水をすすって生きてきた。他人の命など知ったことかと思っていた。
だが今、眼下に広がる数万の男たちは、文句一つ言わず、自分という一人の男の号令のために、己の命を削って狂気のマラソンに挑もうとしている。
彼らはジンを信じ、ジンと共に死ぬ覚悟を決めているのだ。
(俺は、こいつらを路頭に迷わせるわけにはいかねえ。……いや、それだけじゃねえ)
ジンの胸の奥底から、これまで感じたことのない、強烈で、傲慢なまでの感情が湧き上がってきた。
単なる「生き残り」ではなく、もっと巨大で、もっと輝かしい何か。
泥の中から這い上がってきた自分たち野犬の群れが、血筋も伝統も関係ない、一番高い場所へ登り詰める。
(こいつらに……誰も見たことのない景色を、見させてやりてえ)
それは、彼が初めて明確に自覚した、真の「野心」であった。
ソウガの傘の下で暴れ回るだけの将軍ではなく、自らが法を定め、自らが国を創り、自らがすべての命を背負う。
天下を統べる覇王への道。
その時、静かな足音と共に、クロウがジンの隣に立った。
クロウは、丘から見下ろす兵士たちの熱気を感じ取りながら、杖をついて南の風に吹かれていた。
「……ジン殿。良い顔になられましたな」
クロウが低く囁く。
「この大返し、決して失敗は許されません。もし我々がたった三日で王都に辿り着き、メイカク殿を討つことができれば……天下の情勢は一気に貴公に傾くでしょう。しかし」
クロウは、東の空へと視線を向けた。
「もし我々が遅れ、東国のトクナガが動けば、彼が『逆賊討伐』の大義名分を横取りし、そのまま天下を持っていってしまう。トクナガの世になれば、貴公らのような実力と野心を持つ者たちは、再び身分という古い檻の中に閉じ込められることになります」
「……わかってるよ、クロウ」
ジンは、自らの腰にある小刀の柄を強く握りしめた。
その瞳には、もはや一切の迷いも、薬草売りの卑屈さもなかった。あるのは、すべてを食い尽くそうとする巨大な獣の眼光だけである。
「俺は、トクナガの狸親父なんかに、この国を渡すつもりはねえ。ソウガの親分が壊し、オッサンが夢見たこの国の更地に、俺の旗を立ててやる」
ジンは丘の縁に立ち、眼下の数万の軍勢に向かって、腹の底から湧き上がるような巨大な咆哮を放った。
「全軍、聞けェェェッ!!」
その声に、作業をしていたすべての兵士たちが手を止め、ジンを見上げた。
「これより俺たちは、三日三晩、寝ずに走る! 飯は走りながら食え! 喉が渇いたら泥水でも啜れ! 後ろを振り返るな、ただ前の奴の背中だけを見て走り続けろ!!」
ジンの言葉は、荒々しく、粗野で、しかし兵士たちの魂の最も深い部分に直接火をつける、異常な熱量を持っていた。
「三日後! 俺たちは王都の覇宮をぶち破り、あの白銀のオッサンをぶっ飛ばす!! ……そして、俺たち泥犬が、この天下を獲るんだ!! お前ら、ついてこれるかァァァッ!!」
「「「オオオオオオオオォォォォォッ!!!」」」
数万の兵士たちから沸き起こった絶叫は、炎州の大地を激しく揺るがし、空を覆う雲を吹き飛ばすほどの凄まじい覇気に満ちていた。
理屈ではない。計算でもない。ただ、ジンという男が見せる途方もない熱に、すべての者が魂を焼かれていた。
「行くぞ!! 神速の大返しだァァッ!!」
ジンの号令と共に、黎州の歴史上、いや、この世界の戦史において誰も成し得なかった、数万の軍勢による狂気の大移動が開始された。
泥臭い生存本能と、悪魔の謀略。そして、目覚めた覇王の野心。
それらが完全に一つに融合した時、ジンの軍勢は、物理法則すらも置き去りにする恐るべき速さで、炎州の砂漠を駆け抜け始めたのである。
王都で新たな法を敷き始めた白銀の統治者、メイカク。
彼がその背後に、自らの想像を絶する速度で迫り来る死の足音に気づくのは、もう少し後のことであった。




