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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第50話 玉座の白銀と、目覚めゆく野犬の血

黎州本都、覇宮。

かつて魔王ソウガが座し、恐怖と暴力によって世界を支配せんとした漆黒の城郭は、今、新たな主を迎え入れていた。

新龍寺の焼け跡から本都へ凱旋したメイカクの軍勢を、王都の民衆は恐る恐る、しかしやがて爆発的な歓喜をもって出迎えた。

ソウガによる一方的な虐殺と寺院の焼き討ちに怯え、明日の命すら保証されていなかった民たちにとって、秩序と法律を重んじる白銀の将軍の帰還は、まさに地獄からの解放を意味していた。

メイカクは覇宮の最も奥深い広間、謁見の間に足を踏み入れた。

そこには、かつてソウガが座っていた豪奢な玉座と、主を失ったまま壁に立て掛けられている予備の巨大な剣があった。

メイカクは玉座には座らなかった。代わりに、その一段下に簡素な執務用の机と椅子を用意させ、そこに腰を下ろしたのである。

「私は、恐怖で民を見下ろす魔王ではない。法をもって国を支える、ただの執政者だ」

メイカクは直ちに、黎州全土に向けて新たな布告を発した。

第一に、ソウガが命じていた特権階級への無差別な処刑および略奪の即時停止。

第二に、焼き払われた寺院の再建許可と、行き場を失った僧侶や旧貴族たちの保護。

第三に、極端な実力主義を改め、身分を問わず能力ある者を登用しつつも、明確な法律に基づいた公正な裁判と徴税を行うこと。

これらの布告は、瞬く間に黎州全土へと通達され、恐怖に凍りついていた国家の機能が、正常な血流を取り戻すように息を吹き返し始めた。

かつて筆頭家老として王都のすべてを取り仕切っていたメイカクの行政能力は、まさに神業であった。彼が机に向かって筆を走らせるだけで、乱れきっていた兵站が整い、民の腹が満たされ、崩壊しかけていた国の土台が強固な石垣へと組み直されていく。

「……ソウガ様。貴方様が破壊した更地に、私が種を蒔き、麦を育ててみせます。これこそが、人間の歩むべき正道なのです」

メイカクは、山のように積まれた木簡の束から顔を上げ、覇宮の窓から王都の街並みを見下ろした。

街には活気が戻り始め、復興のための槌音が響いている。

自らの決断は間違っていなかった。そう確信できる光景であった。

しかし、メイカクの眼光は決して緩んではいなかった。

ソウガを討ったことで、黎州の内部に巨大な亀裂が入ったことは事実である。遠からず、この覇宮を目指して二つの巨大な牙が迫ってくることを、彼は誰よりも正確に計算していた。

南の炎州で猛威を振るうジンと、北国を蹂躙しているシュウスイである。

「来い、ジン。貴公の持つ野犬の熱気と邪道が、私の構築したこの巨大な国家の法と秩序を打ち破れるものか。私が、貴公にとっての最大の壁となってやろう」

白銀の鎧を傍らに置き、メイカクは静かに、そして圧倒的な自信を持って、迫り来る決戦への準備を進め始めた。

その頃、黎州の東の国境を接する東国では、覇侯トクナガが静かな安堵の息を漏らしていた。

「申し上げます! 黎州の軍勢が放棄した国境沿いの三つの砦、我が軍が無血にてすべて奪還いたしました!」

「うむ、大儀である」

陣幕の中で報告を受けたトクナガは、温厚な顔にふくよかな笑みを浮かべ、手元の茶をすすった。

「メイカク殿も、なかなかに思い切ったことをなされた。魔王ソウガを討ち、自ら覇宮を占拠するとは。……だが、おかげで我ら東国は、一兵も損なうことなく奪われた領地を取り戻すことができた」

トクナガは「狸」と恐れられるほどの狡猾な男である。

彼は最初から、メイカクを唆してソウガを討たせ、黎州の内部崩壊を誘発することだけが目的であった。もしメイカクが誘いに乗らなくとも、ソウガの狂気が黎州を内側から食い破るのを待てばいいと考えていた。

結果として、メイカクは自らの意志で軍を反転させ、東国の脅威は去った。

「御館様。この機に乗じて、黎州本都へ一気に攻め込みますか?」

血気盛んな家臣が尋ねるが、トクナガはゆっくりと首を振った。

「馬鹿を言え。黎州にはまだ、南と北に化け物のような軍勢が残っている。メイカク殿が覇宮を固めたとはいえ、あの国はこれから、血で血を洗う内乱の時代に突入するのだ。我らがわざわざ火中の栗を拾う必要はない。東国の守りを完全に固め、あ奴らが互いに噛み合い、疲弊しきったところを……ゆっくりと喰らえばよいのだ」

トクナガは自らの腹をさすりながら、東国の豊かな大地を見渡した。

古い伝統を守り、堅実な地盤を築き上げる。それこそが彼のやり方であった。黎州の嵐が過ぎ去るまで、東国の狸は決して自らの牙を剥くことなく、分厚い毛皮に包まれて静かな眠りについたのである。

一方、遥か北の果て、氷雪に覆われた北国。

「……おのれぇッ!! なぜだ! なぜこんな時に、これほどの雪が降るのだ!!」

氷雪城の跡地に築かれた黎州軍の陣地で、若き総大将トウガが、天を仰いで怒りの咆哮を上げていた。

彼の足元には、数メートルにも達しようかという分厚い新雪が積もり、視界の数歩先すら真っ白に染め上げる猛吹雪が、狂ったように吹き荒れている。

トウガ、シュウスイ、そしてゲントの三将が率いる北国討伐軍は、その圧倒的な武力をもって、北国の残存勢力を完全に制圧することに成功していた。ソウガの命に従い、抵抗する者はことごとく槍の錆とし、北の大地を黎州の支配下に置いたのである。

しかし、自然の猛威は、魔王の軍勢であろうと容赦はしなかった。

「若。お気を確かに。これほどの大吹雪となれば、数万の軍勢を動かすことは物理的に不可能です。強行軍を行えば、敵の刃ではなく、雪と寒さによって我が軍の半数が命を落とすことになります」

ゲントが、一切の感情を交えない冷徹な声で進言した。

「そんなことはわかっている! だが、父上が……父上が本都で、狂気の大粛清を行っていると風の噂に聞いた! 私は一刻も早く本都へ凱旋し、父上のその覇業を隣で支えねばならないのだ!!」

トウガの焦燥は限界に達していた。初陣を完璧な勝利で飾った彼にとって、この雪に足止めされる状況は屈辱以外の何物でもなかった。

「……若。ゲントの言う通りです。我ら北国討伐軍は、春の雪解けまで、あるいはこの異常な吹雪が収まるまで、この地に留まる他ありませぬ」

吹雪の中から、大槍を雪に突き立てたシュウスイが歩み寄ってきた。

その「鬼」と恐れられる猛将の顔にも、深い苛立ちと、得体の知れない不吉な予感が影を落としていた。

(ソウガ様。貴方様の行いは、もはや武人の道を外れておられる。私が本都へ戻った時、黎州は一体どうなっているのだ……)

シュウスイは、南の空、本都のある方角を睨みつけた。

しかし、いかに彼が超人的な武力を誇ろうとも、天の降らす数千万トンの雪を槍で払いのけることはできない。北国の制圧という最大の武功を上げながらも、シュウスイの軍勢は、この白き檻の中に完全に閉じ込められてしまったのである。

そして、最も激しい運命の転換点を迎えていたのは、遥か南、焦熱の炎州の砂漠であった。

「……嘘だろ。おい、もう一度言ってみろ」

ジンの本陣となる巨大な天幕。

泥と汗にまみれたジンは、手にしていた水筒を取り落とし、目の前に平伏する早馬の使者の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。

「ほ、本当でございます! メイカク様が東国への進軍を突如として反転させ、新龍寺に滞在しておられたソウガ様を急襲……! 伽藍は完全に焼け落ち、ソウガ様は……ソウガ様は、自刃なされました!! 現在、王都の覇宮は、メイカク様の手によって完全に掌握されております!!」

使者の悲痛な報告が、天幕の中の空気を完全に凍りつかせた。

「親分が……あのバケモノみたいに強え、ソウガの親分が、死んだ……? あのオッサンに、討たれたってのか……!?」

ジンの手から力が抜け、使者が床に崩れ落ちる。

ジンはよろめきながら後退りし、力なく椅子に腰を下ろした。

信じられなかった。

最下層の薬草売りだった自分を拾い上げ、「天下を獲る手伝いをしろ」と笑った魔王。どんな絶望的な戦場でも、あの漆黒の巨大な剣が振るわれるだけで、すべての敵が塵に還った。ジンにとって、ソウガという存在は、恐怖の象徴であると同時に、この狂った乱世において絶対に倒れることのない、巨大な天空の柱そのものであった。

それが、崩れ落ちた。

しかも、自分が生きるための『正道』を託してくれた、あのメイカクの刃によって。

「……ウソだ。何かの間違いだろ。あんなにあっさり、あの親分が死ぬわけがねえ……」

ジンが両手で頭を抱え、極度の混乱と動揺に呑み込まれそうになっていた、その時である。

「クックック……。素晴らしい。これほどまでに完璧な盤面が、この世に存在しようとは」

杖を突く乾いた音が、天幕の中に響いた。

暗がりから足を引きずるようにして歩み出てきたのは、亡きシオンの後を継ぎ、黎州軍の頭脳となった天才謀略家、クロウであった。

「クロウ……てめえ、親分が死んだってのに、何がおかしい……!」

ジンが鋭い殺気を込めて睨みつけるが、クロウは全く怯むことなく、妖しく目を細めた。

「笑わずにはいられませんよ、ジン殿。……シオン殿の予言が、あまりにも恐ろしいほどに的中したのですから」

クロウは、手にした杖で、床に広げられた黎州全土の地図を指し示した。

「破壊の魔王であったソウガ様を、正道を重んじるメイカク殿が討った。これで、黎州を覆っていた狂気の炎は消え去りました。しかし、同時にメイカク殿は『主殺し』という大逆の業を背負い、黎州の内部に巨大な歪みを生み出した」

クロウはゆっくりとジンに近づき、その泥に汚れた顔を覗き込んだ。

「ジン殿。これで、貴公を上から押さえつけていた巨大な蓋は、完全に消え去りました。……メイカク殿を討ち、主君の仇を討つという大義名分。そして、貴公がこの炎州で収めた無傷の大軍勢。北のシュウスイ殿は雪に阻まれ、春まで動けない。東のトクナガは動く気がない」

クロウの言葉は、悪魔の囁きのように、ジンの鼓膜の奥へと甘く、そして鋭く浸透していく。

「ジン殿。貴公の天下へと続く道が、今、完全に開かれたのです」

「俺の……天下……」

ジンは、自らの震える両手を見つめた。

ただ生き残るため、ただ仲間を食わせるためだけに振るってきた手。泥にまみれ、卑怯な手を使い、数え切れないほどの命を奪ってきた手。

シオンが最期に託した扇子の文字『覇王たれ』が、脳裏に鮮明に蘇る。

メイカクは、狂ったソウガを止めるために正道を貫いた。

ならば、そのメイカクを止めることができるのは誰か。

彼が西国で自分に託した、あの分厚い法律と統治の書物。正道だけでは天下は治まらない。己の持つ邪道と、メイカクから受け継いだ正道。その両輪を回すことができるのは、この世界で自分しかいないのだ。

(……親分。アンタが壊したこの世界、俺が全部まるごと、泥ごと飲み込んでやるよ)

ジンの体の中で、ドクン、と重い鼓動が鳴った。

それは、今まで感じたことのない、巨大な熱の塊であった。薬草売りの卑屈さも、単なる野犬の生存本能も、すべてがドス黒い炎となって燃え上がり、一つの強大な意志へと昇華していく。

覇王の血が、フツフツと沸き立っているのが、ジン自身にもはっきりとわかった。

ジンはゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、もはや動揺は微塵もなかった。あるのは、乱世のすべてを食い尽くそうとする、最も恐ろしく、そして最も惹きつけられる、真の天下人の眼光であった。

「クロウ。南国の大将の首は、明日の朝までにもぎ取る。……準備を始めろ」

「クックック。どのような準備で?」

ジンは立ち上がり、南国の熱い風が吹き込む天幕の出口を見据え、獣のように獰猛に笑った。

「全軍に荷を捨てさせろ。食料も、重い鎧も、すべてこの炎州の砂漠に置いていく。……誰よりも早く、鳥よりも早く、俺たちは本都へ帰る。そして、あの白銀のオッサンをぶっ飛ばして……俺が、この天下を獲る」

「御意のままに、我が覇王よ」

クロウが深く、恭しく頭を下げる。

ここに、魔王の死によって完全に解き放たれた男たちの、新たな時代の幕が上がった。

正道をもって国を治めんとする白銀の統治者、メイカク。

雪に閉ざされた北で牙を研ぐ武の化身、シュウスイ。

東の国で虎視眈々と機を窺う老獪な狸、トクナガ。

そして、泥の中から這い上がり、ついに自らの覇道へと覚醒した野犬、ジン。

黎州という巨大な獣の死骸の上で、それぞれが自らの信じる道を歩み、激突する。

天下を懸けた最も熱く、最も過酷な狂騒の時代が、今まさに始まろうとしていた。

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