第49話 紅蓮の業火に散る魔王、そして灰燼からの幕開け
新龍寺の伽藍を包み込む炎は、まるで天を焦がそうとする巨大な赤竜のように、凄まじい勢いで渦を巻いていた。
境内の至る所に累々と横たわるのは、白銀の甲冑を纏った反乱軍の兵士たち、そしてソウガの盾となって散っていった近衛兵たちの屍である。
その血の海の中心で、覇侯ソウガは圧倒的な死の旋風を巻き起こしていた。彼が身の丈ほどもある大剣を一閃するたびに、重装備の兵士たちが十数人まとめて紙切れのように吹き飛ばされ、絶命していく。
メイカクの軍勢は数万という絶対的な優位にありながら、たった一人の「魔王」が放つ異常な暴力と威圧感の前に、完全に足止めを食らっていた。
「フハハハッ! 脆い! 脆すぎるぞ、メイカクの兵ども! 貴様らが信じる法や陣形など、この一振りの鉄の塊の前には何の役にも立たん!」
ソウガは返り血で漆黒の髪を濡らしながら、腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。
しかし、いかに彼が超人的な武力を誇ろうとも、ここは完全に包囲された絶望的な死地である。周囲の炎はすでに彼の退路を塞ぎ、本堂の屋根からは火の粉を散らしながら巨大な梁が次々と崩れ落ちていた。さらに、メイカク軍の弓隊が放つ無数の矢が、雨霰のようにソウガの周囲に降り注ぐ。
ソウガは、自らの腕に突き刺さった数本の矢を無造作に引き抜くと、燃え盛る本堂の方へと視線を向けた。
「……興は尽きた。この程度の兵をいくら斬ろうと、ジンやシュウスイと斬り合うほどの熱気は得られんか」
彼は退屈そうに大剣を肩に担ぎ直すと、メイカクの兵士たちが怯んで道を開けた隙を突き、燃え落ちようとしている本堂の奥深くへと、悠然たる足取りで入っていった。
「お、追え!! 奴を逃すな! 本堂へ突入せよ!!」
メイカクの指揮官たちが叫ぶが、本堂の入り口はすでに紅蓮の炎の壁となっており、兵士たちは熱気と煙に阻まれて一歩も中へ入ることができなかった。
本堂の最奥、辛うじて炎の魔の手から逃れている奥の間に、ソウガは足を踏み入れた。
そこには、ソウガの寵愛を受けていた美しい妻と、幼い頃から彼に付き従い、自らの命よりも主君を重んじる一人の若き小姓が、静かに正座して彼を待ち受けていた。
部屋の周囲からは、木材が超高温で爆ぜる恐ろしい音が絶え間なく響き、煙が足元を這うように満ち始めている。
しかし、妻も小姓も、一切の取り乱した様子は見せなかった。彼らもまた、ソウガという魔王のそばで生きてきた修羅の眷属である。この時が来ることを、とうの昔に覚悟していたのだ。
ソウガは血塗られた大剣を床に突き立て、二人の前にどっかりと腰を下ろした。
「御館様……」
小姓が静かに頭を下げ、妻がソウガの顔についた血糊を白い布で優しく拭い取った。
「二人とも、よくぞ逃げずに残っていた。だが、ここから先は生者の道ではない」
ソウガは静かな、しかし確かな慈愛を込めた声で言った。
彼は自らの懐から、黎州の覇侯の証である印章を取り出し、妻の膝の上に置いた。
「お前は、裏の隠し通路から逃げよ。炎の勢いが強すぎるゆえ、メイカクの兵も裏道までは完全に塞ぎきれておらんはずだ。……私の子を身籠っておるのだろう。ならば、その腹の子に、私が創り出したこの狂った世界の行く末を見せてやれ」
「……はい。我が君の御意志、この身に代えましても」
妻は一筋の涙をこぼし、深く一礼すると、ソウガの言葉に従い、隠し扉の奥へと静かに姿を消した。
残されたのは、ソウガと、若き小姓の二人だけとなった。
小姓はソウガの前に進み出ると、自らの腰から鋭い短刀を抜き、両手で捧げ持った。
「御館様。私は、どこまでも御館様のお供を仕ります。介錯の任、どうかこの私めにお命じください」
ソウガはその短刀を受け取り、小姓の忠義に満ちた顔を見つめて、満足そうに頷いた。
「……人生五十年、などという古い歌があったな。白き王が遺したと言われる、あの退屈な歌が」
ソウガは、迫り来る炎の熱気を感じながら、目を閉じて自らの半生を振り返った。
すべてを憎み、すべてを壊した。身分も、権威も、神仏も。自らの刃で切り裂いたものの数は知れない。
志半ばで倒れることへの無念は、不思議なほど彼の心には存在しなかった。なぜなら、彼の最大の目的である「旧秩序の破壊」は、王都の炎と天帝の死をもって、すでに完全に成し遂げられていたからだ。
ソウガはゆっくりと目を開き、小姓に向かって、自らの魂のすべてを込めた最後の「辞世の言葉」を紡ぎ出した。
『業火もて、古き世の殻 焼き尽くさん。
我が身は半ばに灰と散るも、
灰の中より、必ずや新たなる獣の牙が天を食い破る。
破壊の果てにこそ、真の天下あり。
我が覇道、一片の悔いも遺さず』
その言葉は、絶望の淵にある敗者のものではない。
自らの死すらも、新しい世界を創り出すためのひとつの儀式として楽しむ、完全なる覇王の勝利宣言であった。
「……見事な御覚悟にございます」
小姓は涙を拭い、自らの長剣を抜き放ち、ソウガの背後に回って上段に構えた。
ソウガは上半身の衣服をはだけ、鍛え上げられた強靭な腹部を露わにした。そして、小姓から受け取った短刀を逆手に握りしめる。
「メイカクの禿ネズミめ。私が自らの首を、あの白銀の盆の上に乗せてやるとでも思ったか。天下の覇侯の首印、あのような臆病者にくれてやるには惜しすぎる」
ソウガは背後に立つ小姓に命じた。
「私が腹を斬った瞬間に首を落とせ。そして、私の首をこの本堂で最も火勢の強い炎の底へと投げ捨てろ。……私の体は、誰の戦利品にもならん。この新龍寺の炎と完全に同化し、新しい世界の礎となるのだ」
「はっ……! 承知、仕りました……!」
ソウガは、眼前まで迫ってきた紅蓮の炎を見つめた。
その炎の向こうに、泥水を啜りながら常識を破壊し続けるジンと、武人の誇りを貫き通すシュウスイの姿が幻のように浮かび上がる。彼らがこれから繰り広げるであろう、死力を尽くした凄惨で美しい天下取りの戦い。
それを想像するだけで、ソウガの胸は高鳴り、歓喜の笑みが自然とこぼれた。
「ハハハハハッ! これで……これで私が理想とする、本当の世界が出来るぞ!!」
笑い声と共に、ソウガは短刀を自らの腹部に深々と突き立て、真横へと一文字に引き裂いた。
凄まじい激痛が走るはずのその瞬間でさえ、ソウガの顔からその傲慢で狂気的な笑みが消えることはなかった。
「御館様ァァッ!!」
小姓の振り下ろした長剣が、ソウガの首を正確に刎ね飛ばした。
血柱が天井にまで達する中、小姓は主君の首を素早く布で包み込み、自らも炎に巻かれる覚悟で、本堂の奥深く、最も激しく燃え盛る業火の中心へと、その首印を力いっぱい投げ捨てた。
首が炎の中に消えたのを見届けると、小姓は「御館様、今お供いたします!」と叫び、自らの首を刃で掻き切ってその場に倒れ伏した。
ズゴォォォォォォンッ!!
直後、ついに限界を迎えた新龍寺の本堂の巨大な屋根が、爆音と共に完全に崩落した。
天を突くほどの火柱が上がり、黎州を恐怖で支配した魔王ソウガの体は、その絶対的な意志の通り、誰の手に渡ることもなく、紅蓮の炎の中で完全に灰へと帰していったのである。
翌朝。
激しかった炎は完全に燃え尽き、新龍寺の跡地には、見渡す限りの白と黒の灰の海が広がっていた。
まだあちこちで燻る煙が立ち上る中、白銀の甲冑を煤で真っ黒に汚したメイカクが、数百の兵士を連れて灰の中を歩き回っていた。
「探せ! 瓦礫の底まで徹底的に掘り返せ! ソウガ様の首印を、あるいはその遺品となるものを必ず見つけ出すのだ!」
メイカクの叫び声が、朝の冷たい空気に響く。
武道のしきたりにおいて、敵の大将の死は、その首を検分することによって初めて証明される。いかに圧倒的な炎に包まれたとはいえ、骨の欠片一つ、あるいは身につけていた装飾品のひとつでも見つけ出さねば、ソウガを討ったという完全な証明にはならない。もし生存の噂が流れれば、新しい秩序を創るための致命的な障害となるからだ。
しかし、兵士たちがどれほど熱い灰を掘り返し、崩れた柱を退けても、見つかるのは誰のものとも知れない炭化した骨の残骸ばかりであった。
「……メイカク様。本堂の最奥と思しき場所を掘り起こしましたが、やはり何も……。あまりにも火の勢いが強すぎたため、すべてが灰と化しております。お首はもちろん、あの巨大な剣すらも、高熱で溶け落ちて原型を留めておりませぬ」
副官が、灰まみれになりながら絶望的な報告を行った。
メイカクは、その場に立ち尽くした。
足元に広がるのは、ただの白い灰。それはかつて、この乱世を終わらせようとした一人の覇王の、あまりにも呆気なく、そしてあまりにも絶対的な最期であった。
(……ソウガ様。貴方様は、自らの首を私に渡すことすら拒絶されたのですね)
メイカクは、崩れ落ちた焼け跡を見つめながら、ソウガの最後の覚悟と、自らに対する底知れない悪意、そして意地を感じ取っていた。
首を渡さないということは、メイカクに「完全なる勝者」の称号を与えないということだ。ソウガは死してなお、自らの意志を貫き、メイカクの思い通りにはさせなかったのだ。
「……やはり、貴方様は恐ろしいお方だ」
メイカクは静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。
主君を自らの手で討ったという罪悪感。そして、これからたった一人で背負わねばならない、国家という巨大な重圧。そのすべてが、煤に汚れた白銀の鎧にのしかかってくる。
しかし、メイカクの瞳に、もはや迷いはなかった。
ソウガの首を得られなかったとしても、彼がここで死んだことは紛れもない事実である。魔王が消え去った今、この黎州には、新たな支配者と、新たな法律が必要なのだ。
「……捜索はここまでとする」
メイカクは振り返り、灰まみれの兵士たちに向けて力強く宣言した。
「ソウガ様は、この炎の中で天に召された。……これより、我らは本都・覇宮へと帰還する。古い破壊の時代は終わった! 私が、この黎州の新たな覇侯となり、誰もが法の下に等しく生きられる、新たなる正道の国作りを始めるのだ!!」
兵士たちの間に、どよめきと、やがて確かな安堵と歓喜の入り混じった勝鬨が上がった。
彼らもまた、ソウガの恐怖政治に怯え、終わりの見えない虐殺に疲弊していたのだ。メイカクの掲げる「秩序と法律」の国は、彼らにとって何よりも待ち望んだ光であった。
メイカクは、自らの白馬の代わりとなる馬に跨り、焦げ臭い風が吹く東の空を見上げた。
(ジン。シュウスイ。貴公らがこの事実を知った時、いかに動くか……。私は、私の正道をもって、貴公らの圧倒的な力とカリスマをねじ伏せてみせよう。この国を、二度と野犬や獣の戦場にはさせない)
白銀の将は、自らの手で血塗られた覇道への第一歩を、新龍寺の灰の中から確かに踏み出した。
こうして、魔王ソウガの時代は終わりを告げ、天下の覇権は、メイカク、ジン、そしてシュウスイという三つの巨大な歯車が激突する、まったく新しい次元の戦いへと突入していくのである。




