表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/111

第47話 白銀の反逆、新龍寺包囲網

東国の国境に接する峻険な山脈。その一角にある要塞には、未だ数千の黎州軍の旗が秋風に翻っていた。

あたかもこれから東国へ向けて総攻撃を開始するかのように、陣地からは篝火の煙が立ち上り、兵士たちが慌ただしく行き交う影が遠目からも確認できる。

だが、それはすべて、筆頭家老から千人将へと落とされた男、メイカクが仕掛けた壮大な欺瞞工作であった。

要塞に残されたのは、東国の覇侯トクナガの軍勢を威嚇し、国境を防衛するためだけの最小限の兵力に過ぎない。本隊である数万の精鋭は、すでに二日前の深夜、メイカクの完璧な采配によって一切の音を消して陣を引き払っていた。

馬の蹄には何重にも布が巻かれ、兵士たちの甲冑や武器の接合部には、擦れ合う音を防ぐための革紐が厳重に括り付けられている。

数万の軍勢が移動しているにもかかわらず、その行軍は夜陰に紛れる一本の黒い大蛇のようであり、不気味なほどの静寂を保っていた。

行軍の先頭で白馬を駆るメイカクは、白銀の兜の奥から、冷たい月が照らす前方の街道を見つめていた。

彼の脳裏には、寸分の狂いもなく描き出された本都周辺の地図と、目的地である新龍寺までの最短ルートが刻まれている。

(ソウガ様……貴方様が新龍寺に滞在されるのは明晩。この速度を維持すれば、夜明け前にあの伽藍を完全に包囲できる)

メイカクの心臓は、重く、確かな鼓動を刻んでいた。

主君を討つという未曾有の大罪。その恐怖や躊躇いは、すでに数日前の夜にすべて削ぎ落としたはずだった。しかし、目的地が近づくにつれ、かつてソウガと共に天下を夢見た日々が、断ち切れぬ未練のように胸の奥底から這い上がってくる。

ソウガは、身分に縛られていたメイカクを拾い上げ、その頭脳を評価し、黎州の筆頭家老という最高の地位を与えてくれた恩人である。あの御方の圧倒的なカリスマと、伝統を打ち砕く破壊の力があったからこそ、黎州はここまで大きくなれた。

だが、今のソウガは行き過ぎた。

天帝の血脈を絶ち、神仏を焼き払い、恐怖だけで世界を支配しようとするその姿は、新しき秩序の創造者ではなく、ただすべてを無に帰そうとする破壊の魔王そのものであった。

(私は、貴方様を憎んで討つのではない。貴方様が壊したこの世界の更地に、誰もが法の下に等しく生きられる、真の正道を敷くために……この白銀の鎧を修羅に染めるのだ)

メイカクは手綱を強く握りしめた。

西国でジンに託した『正道』の書物。あれは自分の遺言のつもりだった。だが、運命は巡り、今度は自分が主君を討ち、自らが覇侯となってその理想を体現する機会を得た。自分の王道が、この血塗られた乱世にどこまで通じるのか。武人として、そして一人の男として、その答えを己の手で掴み取るために、彼は前へと進む。

同じ頃、本都から東へ数里離れた山間に佇む古い寺院、新龍寺。

周囲を鬱蒼とした巨木の森に囲まれたその境内は、王都の喧騒から完全に切り離された、奇妙なほどの静寂に包まれていた。

この寺は、古くから格式高い名刹として知られていたが、ソウガによる「血の浄化」の手が届く前に、彼自身が臨時の茶会を催す場所として指定したため、奇跡的に焼き討ちを免れていた。

寺の奥深くにある格式高い茶室。

そこには、漆黒の外套を脱ぎ捨て、簡素な衣服を纏った覇侯ソウガの姿があった。

彼の傍らには、身の丈ほどもある巨大な剣が無造作に壁に立て掛けられている。

炉の中で炭がパチパチと爆ぜる音だけが、静かな室内に響いていた。

ソウガは、自らの大きな手で、繊細な茶碗に静かに湯を注ぎ、茶を点てていた。その所作は、戦場での荒々しさからは想像もつかないほどに洗練されており、一分の隙もなかった。

「……良い湯加減だ」

ソウガは点て終えた茶を口に運び、静かに目を閉じた。

彼の周囲を守るのは、ソウガ直属の近衛兵わずか数百人のみ。

王都での大虐殺を終え、すべての敵を震撼させたソウガにとって、自らの領地の内側で襲撃を受けるなどという想定は、傲慢なまでに存在していなかった。いや、仮に誰かが牙を剥こうとも、自らの武勇の前にすべては塵に還るという、絶対的な自信が彼にはあった。

ソウガは茶碗を置き、薄暗い庭園を見つめた。

天帝を殺し、貴族を滅ぼし、寺院を焼いた。世界を縛っていた二百年の呪縛は、今や彼の両手によって完全に引き千切られた。

(これで世界は無に還った。あとは、力ある者が競い合い、新たな時代を築くだけだ。……トウガ、シュウスイ、そしてジンよ。貴様たちがそれぞれの戦地から戻る頃、この国は完全に生まれ変わっているぞ)

ソウガの唇が、不気味に釣り上がる。

彼にとって、この静寂は嵐の前の休息に過ぎなかった。自らが始めた秩序の破壊が、全土にどのようなうねりをもたらすのか。それを楽しみに待つ魔王の心には、一片の孤独も、神仏への恐れも存在しなかった。

しかし、その魔王の居城たる新龍寺の周囲で、静かに、しかし確実に、死の包囲網が完成しつつあった。

夜が更け、草木も眠る丑三つ時。

新龍寺を取り囲む広大な森の中から、無数の影が音もなく這い出てきた。

月明かりの下で鈍い光を放つのは、美しく磨き上げられた白銀の甲冑。メイカク率いる反乱軍の先鋒部隊であった。

メイカクは、新龍寺を見下ろす小さな丘の上から、静まり返る境内を凝視していた。

彼の周囲には、信頼を寄せる幕僚たちが息を潜めて控えている。

「報告いたします。新龍寺の全周、十重二十重に包囲完了いたしました。裏手の山道、および川沿いの退路も、すべて我が兵が封鎖しております。ネズミ一匹たりとも逃す隙はございません」

副官が低い声で耳打ちした。

「近衛兵たちの配置は」

「表門と本堂の周辺に数十人ずつ。いずれも油断しており、我らの接近には一切気づいておりませぬ」

「……よし」

メイカクはゆっくりと長剣を引き抜いた。その刃に、冷たい月光が走る。

すべては計画通り。兵站の計算、行軍の速度、包囲の陣形。彼の頭脳が導き出した数式は、完璧にソウガの退路を断ち切っていた。

しかし、メイカクの胸の奥で、最後の迷いが一瞬だけ首をもたげた。

この一歩を踏み出せば、もう二度と黎州の臣下としては戻れない。自分は主君を殺した大逆人として、生涯にわたり血の呪いを背負うことになる。

かつて王都でソウガと出会い、その圧倒的な覇道に未来を賭けようと誓ったあの日。あの時のソウガの目は、確かに世界を救う王のそれであったはずだ。

(……ソウガ様。なぜ、すべてを焼き尽くす魔王となってしまわれたのですか。貴方様が始めた破壊を、私が正しき秩序で上書きすること、お許しいただきたい)

メイカクは深く息を吸い込み、その迷いを完全に胸の奥へと閉じ込めた。

彼の瞳が、冷徹な統治者の光を取り戻す。

「……火を放て」

メイカクの短い、しかし静かな命令が下された。

その瞬間、新龍寺の周囲を取り囲んでいた兵士たちが、一斉に火のついた松明を火矢に変え、夜空に向けて放った。

シュシュシュシュッ!!

闇夜を切り裂く無数の光の尾が、新龍寺の古い茅葺き屋根や、乾燥した本堂の木造建築へと次々と吸い込まれていく。

ポツポツと小さな赤だった火は、秋の乾燥した風に煽られ、瞬く間に爆発的な勢いで燃え広がっていった。

バリバリ、ボキボキと、古い木材が超高温で爆ぜる音が、山間の静寂を容赦なく叩き壊す。

「な、なんだ!? 火事だぞ!!」

「敵襲だ! どこからだ! 門を守れ!!」

新龍寺の境内に、近衛兵たちの狂乱した悲鳴が響き渡った。彼らは慌てて武器を取り、燃え盛る本堂の周囲へと集まろうとする。

しかし、その彼らの前に立ち塞がったのは、闇夜に不気味に輝く、圧倒的な数の白銀の軍勢であった。

「黎州千人将、メイカクである!!」

地鳴りのような号令と共に、反乱軍の兵士たちが一斉に境内の門を押し破り、怒濤の勢いで突入を開始した。

「おのれ、メイカク! 謀反かッ! 御館様を裏切るというのか!!」

激昂した近衛兵の隊長が槍を突き出してくる。

しかし、今のメイカクの軍勢は、規律と兵法を極限まで叩き込まれた精鋭である。個人の武勇に頼る近衛兵たちを、完璧に連携した盾と槍の陣形によって、瞬く間に蹂躙し、血の海へと沈めていった。

悲鳴、怒号、そして肉が断たれる鈍い音が、燃え盛る新龍寺の境内に満ちていく。

炎はさらに勢いを増し、伽藍全体を真っ赤な地獄の業火へと変えていった。

茶室の中で、静かに目を閉じていたソウガは、外の騒がしさと、鼻を突く煙の臭いに、ゆっくりと目を開けた。

パチパチと天井の木材が燃える音が聞こえる。

ソウガは、慌てることなく、手元に残っていた茶を一息に飲み干すと、茶碗を静かに床に置いた。

彼の顔には、驚きも、恐怖も、一切浮かんでいなかった。ただ、自らの領域を侵されたことに対する、底知れない不快感と、微かな興奮が入り混じった瞳をしていた。

「……騒々しいな」

ソウガは立ち上がり、壁に立て掛けられていた身の丈ほどもある巨大な剣を、右手一本で軽々と引き抜いた。

彼が茶室の障子を開け、外の回廊へと一歩踏み出した瞬間、押し寄せてきた熱風と黒煙が彼の顔を包み込んだ。

前方から、数人の近衛兵が血塗れになりながら走ってくる。

「お、御館様! メイカクが……メイカクが軍を反転させ、この寺を完全に包囲しております! すでに本堂は炎に包まれ、退路はございません!」

「メイカク、だと?」

ソウガはその名前を耳にし、一瞬だけ意外そうに眉を動かした。

あの、西国で泥にまみれて命を乞い、自らの前で涙を流して服従を誓ったはずの、体面ばかりを気にする臆病な貴族。あの禿ネズミが、あろうことか自分に対して牙を剥き、これほど完璧な奇襲を仕掛けてきたというのか。

「ハッ……ハハハハハッ!!」

ソウガの口から、低く、しかし腹の底から湧き上がるような笑い声が漏れた。

「面白い。あのネズミめ、泥水を啜って少しはマシな牙を生やしたようだな。私の創り出した新しい実力の世界で、最初に私を殺しに来たのが、あの古臭い貴族の生き残りだとは……皮肉なものだ」

ソウガの目に、狂気的なまでの戦意が灯る。

彼にとって、裏切りなど乱世の常識に過ぎない。むしろ、自分を殺しに来るほどの強い意志と知略をメイカクが見せたことに、奇妙な愉悦すら感じていた。

「来るがいい、メイカク。貴様のその白銀の鎧が、私の剣の前でどこまで耐えられるか、試してやろう」

ソウガは巨大な剣を肩に担ぎ、燃え盛る炎の中を、悠然たる足取りで正面の境内へと向かって歩き出した。

新龍寺の中庭。

周囲の建物はすべて激しい炎に包まれ、火の粉が雪のように夜空へと舞い上がっていた。

地獄のような紅蓮の光に照らされる中、数百人の近衛兵の死体を踏み越え、数万の反乱軍の中心に立つメイカクの前に、その男は姿を現した。

炎の幕を割り、煙を翻して歩み出てくる、巨大な影。

覇侯ソウガである。

彼の持つ巨大な剣の刃が、周囲の炎を反射して血のような赤に染まっている。ソウガの身からは、圧倒的なまでの死の圧力が放たれており、包囲していた数万の兵士たちが、その存在感だけで思わず一歩、後ろへと身を引いた。

メイカクは、馬から降り、自らの足で地面を踏み締めてソウガの正面に立った。

白銀の甲冑を纏った彼の姿は、燃え盛る炎の中で奇妙なほどに冷たく、そして美しく輝いていた。

二人の距離は、わずか数十歩。

かつて黎州の頂点で共に天下を語り合った主君と家臣が、今、燃え落ちる伽藍の真ん中で、互いの命を奪い合う敵として対峙した。

「ソウガ様。……お迎えに参りました」

メイカクの静かで、決意に満ちた声が、炎の爆ぜる音の中に響き渡る。

その瞳には、かつての迷いは一切なかった。真の正道を創るため、魔王に引導を渡すという絶対の意志が、白銀の兜の奥で鋭く光っていた。

ソウガは巨大な剣を構え、その狂気的な笑みをさらに深くした。

「禿ネズミ。見事な謀略だ。……だがな、その白銀の器で、この私の覇道を飲み干せると思うなよ」

一触即発の緊迫感が、新龍寺の空間を極限まで引き裂く。

魔王ソウガと、反逆の将メイカク。

黎州の、そしてこの世界の運命を決定づける、宿命の死闘が、今まさに始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ