幕間 泥犬印の特製強壮剤と、白銀の受難
西国北部を完全に平定し、十万の北国兵を軍門に下らせた黎州軍が、本都へと向かって凱旋行軍を続けていたある日の夕暮れ。
街道沿いの広大な野営地では、兵士たちが火を囲んで暖を取っていた。その中心にある大天幕の前に、ジンは巨大な土鍋を据え置き、怪しげな笑みを浮かべていた。
「へへへ、できたぜ。西国の山奥で見つけた『千年生きた冬虫夏草の出来損ない』と、炎州の『干しサソリの尻尾』を秘伝の比率で調合した、泥犬特製・超健康強壮茶だ!」
土鍋の蓋を開けると、中からおどろおどろしい紫色の湯気と共に、およそ食べ物とは思えない「雑巾をドブ川で三日三晩煮込んだような異臭」が周囲に立ち込めた。
「うおっ!? 属性:毒! 完全に毒だこれ! 親父、いくら出陣続きでみんなが疲れてるからって、これは暗殺の領域だろ!」
ゴウが鼻を塞ぎながら三歩下がった。
「失礼なことを言うな。俺は元薬草売りだぞ? 見た目と匂いは最悪だが、これを一杯飲めば、どんなに疲れた体も一発でシャキッとして、三日三晩寝ずに戦えるようになる優れものだ。さあ、誰から飲む?」
ジンがお玉を構えて周囲を見回すが、誰も目を合わせようとしない。
「ゲホッ、ゴホッ……。ジン殿、私は生まれつき体が弱く、そのような劇薬を摂取すれば、一発で天に召されてしまいます。ここは健康そのものであるガク殿に譲るべきかと」
毛布にくるまったシオンが、顔色をさらに青くしながら、隣にいる無表情な少年を指差した。
「拒否する。私は軍の規律を遵守する立場だ。出所の不確かな、かつ兵站の管理下にない液体を体内に注入することは、自己管理義務を怠る行為にあたる。……ここは、我が軍の知恵袋であり、どんな毒にも耐性のありそうなクロウ殿が相応しい」
ガクが淡々と責任を転嫁する。
「クックック……。私のような足の不自由な年寄りに、そんな刺激物を飲ませてどうするのだ。もし私が倒れれば、今後の行軍計画がすべて狂うぞ? ……そうだな、我が軍には新しく加わった、屈強極まりない『北国の壁』がいるではないか」
クロウが妖しく微笑み、杖の先でハクヤを指した。
ハクヤは、巨大な体を縮こまらせ、おにぎりを食べようとしていた手を止めた。
「な、何だと……? 私は北国の誇り高き大将軍。いかなる敵の刃にも怯まぬが……その、異界の魔術のような液体を飲む義務は……」
「おいおい、みんなして逃げるんじゃねえよ! 体にいいって言ってるだろ!」
ジンが不満げに頬を膨らませた、その時である。
白銀の甲冑をきれいに磨き上げたメイカクが、優雅な足取りで天幕から歩み出てきた。
「騒々しいぞ、貴様ら。凱旋の途上とはいえ、全軍の模範たる将たちが、そのような見苦しい押し付け合いを……むっ!?」
言葉の途中で、メイカクの鼻腔をドブ川の異臭が直撃した。彼の美しい顔が一瞬で引きつる。
「おお、最高のタイミングでオッサンが登場したじゃねえか!」
ジンが嬉々としてメイカクに歩み寄る。
「ほら、オッサンも西国の戦後処理で徹夜続きだろ? これを飲んで元気出してくれよ!」
メイカクは必死に理性を保ち、冷徹な表情を取り繕った。
「断る。私は王都の洗練された宮廷料理で育った身だ。そのような下賎な、見るからに倫理に反した泥水を口にするわけにはいかん」
「なんだよ、せっかくオッサンのために作ったのにさ。もしかして、王都の筆頭家老様は、見た目がちょっと怖いだけでビビっちゃうような意気地なしなのか?」
ジンがニヤニヤしながら挑発する。
「な、何だと……!?」
メイカクの額に青筋が浮かんだ。彼はプライドの塊である。特に、元草売りのジンに「意気地なし」と侮辱されることだけは、彼の武人の誇りが絶対に許さなかった。
「ふ、ふん。この私を誰だと思っている。王都のあらゆる試練を乗り越えてきた男だ。貴様の手慰みで作った茶など、一息に飲み干して見せるわ!」
見栄を張ってしまったメイカクは、奪い取るようにお玉から器へと液体を注がせ、一歩も引かぬ姿勢でそれを口に運んだ。
周囲の全員が息を呑んで見守る。
ゴクリ。
メイカクの喉が鳴った。
一秒。二秒。三秒。
メイカクは無表情のまま、器を静かに置いた。
「……フッ、大したことはないな。ただの苦い汁だ。やはり私の高貴な精神の前には、このような――」
そこまで言った瞬間、メイカクの全細胞が静止した。
彼の白い肌が、一瞬で「どす黒い紫色」に変色し、両目が限界まで見開かれる。
「あ、ア、アガ……ガガガガッ!?」
白銀の名将の口から、およそ人間とは思えない絶叫が漏れた。
彼の頭髪が逆立ち、全身が壊れたからくり人形のように激しくガタガタと震え出す。
「おい! オッサンが痙攣してるぞ! 泡吹いてる、泡!」
ゴウが叫んだ。
「心拍数の急激な上昇を確認。瞳孔が開いている。ジン殿、これは強壮剤ではなく、ただの即死性の劇薬です」
ガクが冷静に観察する。
「ひ、ひぃぃぃっ! やはり南国の呪いだ! 北国に帰る、私は北国に帰らせてもらうぞ!」
ハクヤが恐怖で巨躯を震わせ、おにぎりを落とした。
「ゲホッ、ゴホッ……。素晴らしい効果ですね。メイカク殿の体から、目に見えて『生命の危機によるアドレナリン』が噴き出しています」
シオンが感心したように木簡に記録をつけ、クロウは「クックック、実に愉快な実験だった」と声をあげて笑っている。
「いや、だから体にいいんだって! ほら見ろ、オッサンが立ち上がったぞ!」
ジンの言う通り、泡を吹きながら白目を剥いていたメイカクが、突然、ものすごい勢いでバッと直立不動の姿勢をとった。
「……私はッ! 負けんッ!」
メイカクは、顔を紫色に染めたまま、凄まじい大音声で叫んだ。
「黎州のッ! 秩序はッ! 私が守るッ! 東国もッ! 西国もッ! すべて私のッ! 計算の、内だぁぁぁぁっ!!」
ドスゥゥゥン!!
叫びきったメイカクは、そのまま地面に向かって垂直に倒れ込み、白銀の甲冑を激しく鳴らして気絶した。しかし、その顔はなぜか、限界を超えた熱気で赤々と上気しており、呼吸だけは普段の三倍近い力強さで繰り返されていた。
「……ほらな? 元気になったろ?」
ジンが満足げに腕を組んだ。
「いや、どう見ても気絶してんだろうが!」
ゴウのツッコミが夜の野営地に響き渡る中、黎州軍の夜は、相変わらずの騒がしさで更けていくのだった。




