第46話 宿命の伽藍と、白銀が刻む覇道の足跡
秋の冷たい風が、陣幕の隙間から吹き込んで灯火を揺らしていた。
東国との国境近く、静まり返った黎州軍の本陣。その中心で、メイカクは一人、机の上に置かれた白銀の兜を見つめていた。
昼間、東国の覇侯トクナガからの使者を自らの手で斬り捨て、全軍に反転の兆しを見せたものの、彼の胸中にはいまだ、言葉にできぬほどの暗い葛藤が渦巻いていた。
――主を討つ。
その言葉の持つ重みは、名門の生まれであり、幼い頃から厳格な教育を受けてきたメイカクにとって、自らの魂を両断されるに等しい大罪であった。
目を閉じれば、遥か幼き日の記憶が鮮明に蘇る。
王都の格式高い屋敷の庭で、謹厳実直な父は、まだ幼かったメイカクに一冊の古い書物を示しながら、諭すように語りかけていた。
『メイカクよ。武士が歩むべき道は、ただ一つ。天帝様が定められた秩序を尊び、主君に対して一心の忠誠を尽くすことだ。たとえ主君が理不尽な命を下そうとも、それを耐え忍び、諫言を尽くし、最後の一兵となるまでお支えする。それこそが、何百年と受け継がれてきた人間の正しき道、すなわち正道である』
父のその言葉は、メイカクの血肉となり、彼の生きる指針そのものであった。
だからこそ、黎州の覇侯ソウガがどれほど過激な実力主義を掲げ、伝統を嘲笑おうとも、メイカクは家老として彼を支え続けようとしたのだ。西国で大敗し、ジンという泥犬に救われ、己の至らなさを知って千人将に降格させられた後でさえ、ソウガへの忠誠という一本の柱だけは、彼の心の中で折れずに残っていた。
しかし、そのソウガが、世界の理そのものを破壊した。
三大寺院を焼き払い、旧貴族を皆殺しにし、ついには神聖不可侵であったはずの天帝の血脈を、赤子に至るまで根絶やしにした。
主君に背き、その首を狙うことは、父から教え込まれた正道からは完全に外れる行為である。後世の歴史家は、メイカクを「希代の逆賊」と呼び、その名を未来永劫、汚名として記録するかもしれない。
だが、その狂った主君をこのまま放置すれば、世界は血と恐怖だけの焦土と化し、人間の築き上げてきた全ての秩序と法律が灰に還る。
(主に背く大罪を犯し、正道から外れる道を選ぶか。あるいは、主への盲目的な忠誠を貫き、世界が滅びゆくのをただ見届けるか……)
メイカクは自らの掌を見つめた。トクナガの使者を斬った剣の感触が、いまだに皮膚の裏側に残っているようだった。
主君を討つことは、悪道であり、邪道である。しかし、その悪道を敢えて自らが引き受け、血に塗れることによってしか、守れない正道があるのではないか。ソウガという規格外の怪物を終わらせ、もう一度、民が安心して暮らせる法と秩序の世を取り戻すこと。それこそが、己が命を懸けて貫くべき、真の正道なのではないか。
矛盾に満ちた思考が、メイカクの頭脳を激しく責め立てる。
白銀の鎧は、月光を反射して冷ややかに輝いている。かつてはその輝きに己の血筋と誇りを見ていたが、今のそれは、まるで彼に「お前にその業を背負う覚悟があるのか」と問いかけているかのように見えた。
天帝一族の断絶。旧貴族の滅亡。既得権益にしがみついていた古い寺院たちの崩壊。
それらは確かに、ソウガの言う通り、時代遅れの遺物であったのかもしれない。彼らが安全な場所から富を貪り、乱世の苦しみから目を背けていたのは事実だ。ジンが示した、地べたから這い上がる者たちの爆発的な熱量を知った今のメイカクには、古い世界をそのまま復活させることが正しいとは到底思えなかった。
なら、どうする。
古き良きしきたりに戻すのでもなく、ソウガの創る恐怖の地獄に進むのでもないならば、一体どこへ向かえばいいのか。
メイカクの胸の奥で、今まで抑え込んできた一筋の「火種」が、急速に熱を帯び始めた。
(……私が、やるのだ)
それは、家臣としての苦悩を越えた、一人の武人としての、そして統治者としての静かなる野心であった。
ジンに託した『正道』の書物。あれは自らの死を覚悟したゆえの遺言だった。だが、もし生き残る道があるならば、他人に未来を委ねるのではなく、自らの手で、その理想の世を築き上げてみたい。
法を整備し、民に公正な税を課し、実力ある者が正当に評価されながらも、法の下に守られる調和に満ちた国。ソウガの破壊の先にあるべき、真の「王道」の世を、自分自身の力でどこまで通じるか試してみたい。
それは、二百年の歴史を学んできた名門の天才、メイカクという男が、自らの全存在を懸けて乱世に挑むための、まっとうで、そして傲慢なまでの武人の本能であった。
「ソウガ様……。貴方様が古い世界を壊した更地に、私が真の秩序を打ち立ててみせます。それが、貴方様を主と仰いだ私の、最後の義務だ」
静かに覚悟を固めつつあったその時、陣幕の外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「失礼いたします! メイカク様、本都に放っていた隠密より、緊急の知らせが届きました!」
入ってきた密偵は、息を切らしながら一枚の小さな紙片を差し出した。
メイカクはそれを受け取り、灯火に近づけて目を走らせた。その瞬間、彼の細い眉がピクリと跳ね上がった。
紙片に記されていたのは、ソウガの直近の動静であった。
『覇侯ソウガ、明後日、本国東側の国境付近にある名刹・新龍寺にて、臨時の茶会を催す予定。明晩より、少数の近衛兵のみを従えて同寺に滞在するとのこと』
「……新龍寺だと」
メイカクの口から、驚きと、震えるような歓喜の混じった声が漏れた。
新龍寺は、王都の本都から東へ数里離れた山間に位置する、古い寺院である。周囲を険しい森に囲まれており、大軍を収容するには狭すぎるが、少数の護衛で滞在するには絶好の隠れ家のような場所であった。
ソウガは、王都での「血の浄化」を終え、東国戦線の状況を直接確認しつつ、自らの趣味である茶会を愉しむために、わざわざ前線に近いその寺に赴くというのだ。
「少数の近衛のみ……。ソウガ様、やはり貴方様は、己の武勇を過信しすぎている。誰も自分に刃を向ける者などいないと、思い上がっておられるのだ」
これ以上の好機は、未来永劫、二度と訪れない。
もしソウガが覇宮の奥深くに引きこもり、数万の近衛兵に守られていたならば、いかにメイカクの軍勢が優秀であろうとも、城を落とす前に他の戦線からシュウスイやゲントの軍勢が救援に駆けつけ、謀反は失敗に終わっていただろう。
しかし、新龍寺という孤立した空間であれば、数万の軍勢で包囲し、一網打尽にすることが可能である。
好機はここしかない。
これを逃せば、ソウガの狂気は全土に広がり、自らの掲げる王道を突き進むことは二度とできなくなる。
(天が、私に魔王を討てと言っているのか……)
メイカクは紙片を灯火の炎にかざした。紙片は瞬く間に燃え上がり、黒い灰となって床に落ちていった。
「……よし」
メイカクはゆっくりと椅子から立ち上がった。その動作には、先ほどまでの迷いや躊躇いは一切消え失せていた。白銀の鎧を纏う彼の姿は、冷徹な決意に満ちた、一国の主としての威厳を放ち始めていた。
彼は幕僚たちを呼び寄せるため、陣幕の入り口に向かって歩きながら、頭の中で瞬時にこれからの戦略を組み立てていった。
現在、自分の率いる東国討伐軍は数万の大軍である。この全軍をそのまま本都へ向ければ、国境を接する東国の覇侯トクナガが、黎州の背後を突いて侵攻してくることは火を見るより明らかであった。トクナガは「狸」と呼ばれる男だ。黎州の隙を見逃すはずがない。
「東国の国境には、トクナガの軍勢を足止めし、防衛できるだけの最低限の兵力を残す」
メイカクは独りごちた。
国境の険しい要塞と地形を利用すれば、少数の軍勢であっても、トクナガの侵攻を数週間は遅らせることができる。その間に、自分は主力を率いて新龍寺へと急襲を仕掛け、ソウガを討ち取る。
ソウガさえ討てば、黎州の全権は自分が掌握し、その後に東国の軍勢を迎え撃てばよい。
すべての方針は決まった。
頭脳は完全に冴え渡り、兵站の計算、行軍のルート、人員の配置、そのすべてが彼の脳内で完璧な数式のように組み上がっていく。
メイカクは、再び白銀の兜を見つめた。
明日から、彼は歴史に名を残す大いなる叛逆の旅路へと足を踏み出す。
主君を殺し、業を背負い、自らが新しい覇侯となって、この狂った乱世に正しき道を創る礎となる。
その決意は、極寒の雪山で凍りついた氷のように、決して揺らぐことのない強固なものへと変わっていた。天幕の外で吹き荒れる冷たい風の音を聴きながら、白銀の将は、静かに、しかし燃えるような闘志をその瞳に宿して、運命の夜を明かそうとしていた。




