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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第44話 神殺しの業火と、灰の中から立ち上がる野犬

黎州本都の空を焦がした三大寺院の焼き討ちは、これから始まる真の絶望の、ほんの序曲に過ぎなかった。

覇侯ソウガの狂気とも呼べる徹底した旧秩序の破壊は、貴族や僧侶といった特権階級の弾圧だけでは留まらなかった。彼の刃はついに、この世界において二百年間、何人たりとも触れることを許されなかった絶対的な聖域へと向けられたのである。

『天帝』。

それは、二百年前に悪魔から世界を救い、この地を統一したと伝わる「白き王」の血を引く、神聖不可侵の象徴であった。

かつての世界が再び群雄割拠の乱世へと突入し、血で血を洗う戦国時代となってからも、各地の覇侯たちは天帝の権威だけは決して侵そうとはしなかった。自らの支配に大義名分を持たせるため、あるいは民衆の根底にある信仰心を逆撫でしないため、天帝一族は王都の最も奥深く、不可侵の聖なる宮殿にて、形ばかりとはいえ世界の頂点として君臨し続けてきたのである。

それこそが、この狂った乱世において唯一残された、人間界の「正しき秩序」の最後のストッパーであった。

しかし、極端な実力主義を掲げ、結果のみを全てとする魔王ソウガにとって、その存在は最も目障りな無用の長物でしかなかった。

「戦場に立つこともなく、自らの手で血を流すこともなく、ただ血脈という過去の遺物に縋り付いて民の祈りを集めるだけの虚像。……そのようなものが天の頂に座している限り、この国の民はいつまで経っても自らの足で歩こうとはせん」

血塗られた覇宮の玉座で、ソウガは冷酷に言い放った。

その御前には、漆黒の装束に身を包んだ暗殺部隊「黒牙衆」の頭領が平伏している。

「全てを破壊し、一切の過去を断ち切る。私が創る新世界に、神も、天帝も不要だ。ただ力ある者だけが生き残る、純粋な地獄だけがあればよい」

その日の夜、天帝が座する聖なる宮殿は、歴史上初めて軍靴によって踏みにじられた。

黒牙衆の刃は、護衛の武官たちを音もなく惨殺し、神聖なる回廊を鮮血で染め上げていった。

ソウガの命令は絶対であり、極めて無慈悲であった。天帝本人だけでなく、その血を引く皇子、皇女、さらに遠縁の親族に至るまで、一滴の血脈すらも残さず根絶やしにせよという、文字通りの「神殺し」の断行である。

宮殿の奥深く。何百年も受け継がれてきた豪奢な御簾が引き裂かれ、燃え盛る松明の光が、怯え震える天帝一族を照らし出した。

彼らは自分たちが殺されるなどとは、微塵も思っていなかった。いかなる暴君であろうと、天の血を絶やせば神の怒りに触れる。その二百年の常識が、彼らの逃げ足を奪っていたのである。

「お、おのれソウガ……! 天の血を絶てば、貴様は永遠に呪われるぞ! この国は、必ずや悪鬼に飲み込まれ破滅する!」

老齢の天帝が、血を吐くような声で呪詛を放つ。

しかし、黒牙衆の刃に一切の躊躇いはなかった。無慈悲な白刃が一閃し、二百年続いた神聖なる血統は、冷たい石畳の上で、ただの赤い肉塊へと変わった。

天帝一族、完全断絶。

この凄惨な大逆罪の報せは、本都から放たれた早馬によって、瞬く間に全土へと知れ渡った。

民衆は空を仰いで絶望の涙を流し、各地で生き残っていた小国や旧勢力の者たちは、ソウガという男が単なる野心家ではなく、世界の理そのものを破壊する「真の魔王」であることを理解し、底知れない恐怖に震え上がった。

一方、その絶望の嵐から遠く離れた南国・炎州の荒野。

容赦なく照りつける灼熱の太陽の下、ジン率いる黎州の南国討伐軍は、重く沈痛な静寂に包まれていた。

乾いた風が吹き抜ける小高い丘の上。

そこに組まれた巨大な薪の山の上で、天才軍師シオンは、静かに目を閉じて横たわっていた。

彼の体はすでに冷たく、あの常に皮肉げな笑みを浮かべていた口元も、もう二度と開くことはない。

ジンは、薪の山の前に立ち、ただ無言でその光景を見つめていた。

「……ウッ……ウワァァァァァァッ!! シオン!! てめえ、ふざけんな!! ズルいぞ! 俺たちを置いて、一人だけ先に逝きやがってェェッ!!」

ゴウが、巨大な体を丸め、子供のように顔をくしゃくしゃにして号泣していた。彼の手から滑り落ちた鉄砕棒が、乾いた大地に鈍い音を立てて転がっている。

その隣で、ガクは竹竿を強く握りしめ、表情を崩さぬよう必死に耐えていたが、その瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れ落ち、南国の熱い砂に吸い込まれていた。

沙那家の若武者レンも、兜を脱ぎ、深々と頭を下げてその死を悼んでいる。

ジンは、動けなかった。

最下層の薬草売りから始まり、泥水を啜ってここまで這い上がってきた。その隣には、いつもこの青白い顔をした悪魔のような軍師がいた。

ジンの野犬のような直感と無謀な突撃を、シオンの冷徹な計算と非情な罠が完璧に補い、数々の死線を越えてきたのだ。

(……なんでだ。なんで、俺の大事なモンばっかり、俺の先を歩いていっちまうんだ……)

シオンの存在は、ジンにとって単なる部下ではなく、自らの脳の一部をもぎ取られたに等しい喪失であった。

彼が死んだという現実が、まだジンの心の中で消化しきれていなかった。

「……ジン殿。火を」

背後から、足を引きずるような足音と共に、杖をついたクロウが歩み寄ってきた。

彼の手には、赤々と燃える松明が握られている。

クロウの顔は、いつものような猟奇的な笑みで歪んではいたが、その目の奥には、シオンと同じ「双頭の悪魔」として知略を競い合った半身を失った、深い深い悲哀が隠されていた。

ジンは無言で松明を受け取ると、ゆっくりと薪の山に近づき、その火を放った。

乾燥した薪は瞬く間に炎を上げ、シオンの亡骸を紅蓮の炎で包み込んでいく。南国の空に向かって、一筋の黒い煙が立ち上っていった。

ジンは、燃え盛る炎を見つめながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。

炎の熱が、彼の顔を容赦なく焼き焦がすが、ジンの目からは一滴の涙も流れなかった。いや、流すことを自分自身に禁じていた。

軍の葬儀が終わり、ゴウやガクたちがそれぞれの持ち場へと戻っていった後も、ジンは一人、燻る灰の前から立ち去ろうとはしなかった。

「……クロウ。シオンの奴、最後にアンタに何か言ってたな」

沈黙を破ったのは、ジンの方であった。

背後に控えていたクロウは、杖を両手で握りしめ、静かに頷いた。

「ええ。あの男は、自らの死期を完全に計算し尽くしていました。そして、己が消えた後の黎州の行く末と、ジン殿の歩むべき道筋までも、その頭脳で完璧に描き出していたのです」

クロウは懐から、シオンが愛用していた白紙の扇子を取り出し、ジンの前に差し出した。

ジンはそれを受け取ると、扇子を開いた。そこには、シオンの震える筆跡で、血を吐きながら書き記したであろう、たった一言の言葉が書かれていた。

『覇王たれ』

「……どういう意味だ」

「シオン殿は、すでにソウガ様の狂気が行き着く先を見抜いておられました」

クロウの低い声が、南国の風に混ざる。

「旧秩序の破壊。寺院の焼き討ち。そしておそらくは、天帝の断絶までも。……ソウガ様のやり方は、破壊の極致。古い世界を終わらせるためには必要な力であったかもしれない。しかし、その破壊の炎は、いずれ国そのものを焼き尽くし、自らをも滅ぼすことになります」

クロウの言葉は、ジンが本能で感じ取っていた不吉な予感を、冷酷な論理で裏付けるものであった。

「ジン殿。貴公はこれまで、奇抜な発想と泥臭い生存本能で、兵法における『邪道』を極めてきました。シオン殿は、その貴公の邪道こそが、ソウガ様の狂気を止める唯一の刃になると信じていたのです」

ジンは、手の中にある白紙の扇子を強く握りしめた。

「だが、邪道だけでは国は治まらない。……シオン殿の最後の言葉です。『邪道と正道。その両輪が完全に噛み合ってこそ、世界を治める真の力となる』と。……ジン殿、貴公にはすでに、メイカク殿から託された『正道』の知識があるはずだ」

西国で、自らの死を覚悟したメイカクから託された、分厚い内政と法に関する書物の束。

ジンはそれを、夜な夜な泥にまみれた手でめくり、必死に頭に叩き込んできた。

「俺に……親分を止めて、天下を取れって言うのか」

ジンは、シオンの灰が風に舞う空を見上げた。

これまでは、ただ生き残るため、ただ仲間を食わせるためだけに戦ってきた。ソウガという巨大な傘の下で、一番強い野犬として暴れ回るだけで満足していた。

しかし、もうそれは許されない。

シオンは命を懸けて、ジンに「王」となるための呪いをかけたのだ。

「……上等だ」

ジンは、シオンの扇子を懐にしまい込み、ゆっくりと振り返った。

その瞳には、もはや身分の低い薬草売りの卑屈さも、単なる野犬の荒々しさもなかった。全てを飲み込み、破壊と創造の二つの輪を回す、天下を統べる器としての静かで凄まじい覇気が宿っていた。

「クロウ。南国の大将の首、三日でもぎ取るぞ。……急がねえと、この国が親分の炎で完全に灰になっちまうからな」

「クックック……御意のままに。私の残りの命、全て貴公の覇道のために使い潰していただきましょう」

こうして、南国討伐戦の最終局面において、ジンは初めて自らの意志で「天下」をその視座に捉えたのである。

一方、その頃。

東国へと侵攻を進めていたメイカクの陣営にも、本都からの「天帝一族の根絶やし」という絶望的な凶報がもたらされていた。

「……なん、だと……? 天帝様を……全て、皆殺しにしたというのか……?」

陣幕の中で報告を受けたメイカクは、手にした木簡を力なく床に落とした。

彼の顔は紙のように青ざめ、全身が小刻みに震えていた。

寺院の焼き討ちや旧貴族の弾圧までは、百歩譲って「実力主義への急進的な移行」として、無理やりにでも己の理屈で正当化することができた。しかし、二百年の歴史を持つ、この世界の神聖なる秩序の象徴である天帝の血統を絶つということは、もはや政治や戦の範疇を超えた、世界そのものに対する反逆であった。

「ソウガ様……貴方様は、この国を一体どこへ導こうとされているのだ……。これでは、単なる殺戮の魔王ではないか……!」

メイカクは両手で顔を覆い、深い絶望の淵に沈み込んだ。

彼にとって、武人としての存在意義は「国の秩序を守り、民を正しく導くこと」であった。ジンとの出会いを経て、彼はその理想を現実のものとするため、虚栄心を捨てて泥にまみれる覚悟を決めたのだ。

しかし、その絶対の忠誠を誓うべき主君が、誰よりも無慈悲にその秩序を根底から破壊し尽くしている。

「私は……何のために戦っているのだ。この手で東国を平定したとして、その先に待っているのは、ソウガ様が作り出す血と恐怖だけの地獄ではないのか……?」

メイカクの心の中で、これまで辛うじて保たれていた「忠誠」と「正義」の天秤が、激しい音を立てて軋み始めていた。

彼には、ジンに託した『正道』の理想がある。

だが、その正道を歩むためには、目の前の絶対的な主君であるソウガの狂気を、見過ごすわけにはいかない。

(……いや、駄目だ。主君に刃を向けるなど、それこそ武人の風上にも置けぬ外道の所業。私は、黎州の将として、ソウガ様の命を完遂せねばならないのだ……)

メイカクは必死に自らの心に沸き起こる「反逆」の炎を押し殺そうとした。

しかし、その苦悩の夜は、東国の闇の中で彼をどこまでも追い詰めていく。

東国の覇侯・トクナガからの使者が接触してくるのは、この翌日のことであったが、今のメイカクはまだ、自らの内なる正義の所在すら見失い、ただ一人でその重圧に耐えることしかできなかった。

世界の秩序が完全に崩壊しようとする中、それぞれの戦線で、男たちの運命は大きくその歯車を狂わせ始めていたのである。

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