第42話 紅蓮の狂気と、引き裂かれる白銀の秩序
黎州本都は、文字通り紅蓮の地獄と化していた。
夜空を焦がした劫火は、黎明が訪れてもなお勢いを衰えさせることなく、太陽の光すらもどす黒い煙の膜で遮り隠していた。
王都の最も一等地にそびえ立っていた、二百年の歴史を誇る壮麗な三大寺院。そして、その周囲に広大な敷地を構えていた旧貴族たちの豪奢な屋敷群。それらは全て、黎州を統べる覇侯ソウガの命によって、一切の慈悲もなく焼き払われていた。
「ぎゃあああああっ!! 助けてくれ! 仏様、お助けをォォッ!」
燃え盛る本堂から転がり出てきたのは、金糸の刺繍が施された豪華な袈裟を纏った高僧であった。しかし、その袈裟はすでに火が燃え移り、彼の顔は恐怖と苦痛で醜く歪んでいた。
彼は煙に咽びながら泥の地面を這いずり、門の前に立ち塞がる漆黒の外套を纏った男――ソウガの足元へと縋り付いた。
「ソ、ソウガ様……! 我らが何をしたというのです! 我々は二百年間、この国の安寧を祈り続けてきた由緒正しき……ッ!」
「祈り、だと?」
ソウガの低く、地獄の底から響くような声が、炎の爆ぜる音を切り裂いた。
「安全な高台から下界の泥を眺め、己の手を一切汚さず、ただ呪文を唱えるだけで民から莫大な富を搾取し続ける寄生虫ども。貴様らのその腐りきった特権こそが、この国を蝕む最大の病巣なのだ」
ソウガは、身の丈ほどもある巨大な剣を無造作に振り上げた。
「待っ……! お慈悲を! 我らには、神聖なる血脈と伝統が……!」
「私が信じるのは、目の前にある力と、結果のみだ。貴様らの血脈など、この剣の前では豚の血となんら変わりはない」
無慈悲な一閃。
高僧の首が、祈りの言葉を紡ぐ暇もなく宙を舞い、燃え盛る炎の中へと吸い込まれていった。
首を失った胴体から噴き出した鮮血が、ソウガの漆黒の外套をさらにどす黒く染め上げる。しかし、魔王の表情には一片の感情も浮かんでいなかった。
周囲では、ソウガ直属の暗殺部隊である黒牙衆が、逃げ惑う僧侶や貴族たちを次々と惨殺していた。
そこには一切の例外も、情けも存在しなかった。
経典を抱きしめて泣き叫ぶ小坊主も、豪華な着物を振り乱して命乞いをする貴族の妻も、あるいはまだ何も理解していない幼い赤子でさえも。
「血脈を残せば、いずれそれは新たな特権階級を生み出す火種となる。根絶やしにせよ。一匹のネズミたりとも逃すな」
ソウガの絶対的な命令の下、黒牙衆の凶刃は容赦なく振るわれた。
悲鳴、怒号、そして肉が断たれる鈍い音が、王都の空に絶え間なく響き渡る。
何百年もの間、不可侵の聖域として崇められてきた美しい仏像は、炎の超高温によってドロドロに溶け落ち、金箔の剥がれた醜い鉄の塊となって崩れ去った。
「見よ、この無惨な光景を」
ソウガは、炎に包まれて崩壊していく巨大な仏塔を見上げ、両腕を大きく広げた。
「二百年もの間、民を思考停止に陥らせてきた偽りの権威が、今、完全に灰に還る。……破壊せねば、新しいものは生まれん。この腐った乱世を終わらせるためには、過去の遺物など全て焼き尽くしてしまえばよいのだ!!」
腹の底から湧き上がるような、ソウガの狂気に満ちた笑い声。
それは、旧秩序の完全なる破壊を宣言する、魔王の産声であった。
王都の民衆たちは、遠く離れた長屋からその紅蓮の空を見上げ、神仏すらも物理的に叩き斬るソウガの圧倒的な暴力と恐怖に、ただ平伏して震えることしかできなかった。
この王都での凄惨な大虐殺の報せは、瞬く間に、三方面へと進軍を続けていた黎州軍の各将の元へと届けられた。
南の炎州へと続く乾燥した荒野を進んでいたジンは、行軍の途中で馬を止め、クロウが放っていた密偵からの報告書を無言で読み終えた。
「……親分、ついにやりやがったか」
ジンは報告書を乱暴に丸め、傍らの焚き火へと投げ捨てた。
「親父、本都で何かあったのか?」
巨大な鉄砕棒を肩に担いだゴウが、不思議そうに首を傾げる。ジンは顔をしかめ、舌打ちをした。
「ソウガの親分が、王都の寺院と旧貴族の屋敷を全部焼き払ったそうだ。……それだけじゃねえ。坊主も貴族も、女子供関係なく、一人残らず首を刎ねたらしい」
その言葉に、周囲にいたガクやレンたちも息を呑んだ。
いくら乱世とはいえ、非戦闘員であり、ましてや神仏の加護を持つとされる寺院を根絶やしにするなど、狂気の沙汰である。
「ゲホッ、ゴホッ……。ソウガ様らしい、極端で効率的な大掃除ですね。既得権益を破壊するには、最も手っ取り早い手段です」
馬車の中から、シオンが冷淡な声で言った。
「これで王都の富は全てソウガ様の元に集まり、不要な特権階級はいなくなりました。黎州は、より純粋な軍事国家として研ぎ澄まされたと言えるでしょう」
「……違うな」
ジンは、南のギラギラと照りつける太陽を見上げながら、重い声で否定した。
「俺は、メイカクのオッサンから『国の動かし方』を学んだ。……確かに、親分の言う通り、古い家柄だけで威張ってる連中は邪魔だ。ぶっ壊さなきゃ新しい家は建たねえ。
だがな、親分のやり方は『壊しすぎ』だ。燃やし尽くして、塩まで撒いたような焦土からは、二度と麦は育たねえんだよ。……恐怖だけで縛り付けた国は、いずれその恐怖に飲み込まれて内側から腐っていく」
ジンの異常に発達した生存本能は、ソウガの放つその狂気的な炎が、いずれ黎州という国そのものを焼き尽くす巨大な火災になることを、正確に予感していた。
邪道を極め、メイカクから正道を学んだジンだからこそ、今のソウガの行動が、完全に破滅へと向かう「暴走」にしか見えなかったのだ。
一方、北国の過酷な雪原を進むシュウスイたちの陣営にも、早馬によってその凶報はもたらされた。
「……父上が、王都の不浄を全て焼き払われたか。素晴らしい! やはり父上こそが、この乱世を切り裂く真の覇王であられる!」
初陣の若虎であるトウガは、報告を聞いて歓喜の声を上げた。彼にとって、圧倒的な力で古い権威を叩き潰すソウガの姿は、絶対的な憧れであり、目指すべき理想像であった。
しかし、その傍らに控えるシュウスイの表情は、トウガとは対照的に、極めて重く、険しいものであった。
(……ソウガ様。いくら特権階級が憎いとはいえ、丸腰の女子供まで根絶やしにするなど、武人の誉れとは到底言えませぬぞ……)
シュウスイは「鬼」と恐れられる猛将であるが、同時に古き良き武人の誇りと道徳を重んじる男でもあった。戦場において命を懸けて殺し合うことには一片の躊躇いもないが、無抵抗な者を虐殺するような行いは、彼の魂の根底にある美学に激しく反していた。
「シュウスイ殿。御館様の御決断、我ら臣下が口を挟むことではありませぬ」
隣に立つゲントが、一切の感情を排した声で釘を刺す。彼にとって、主君の命令は絶対であり、そこに善悪の判断を挟む余地はない。
「……わかっておる、ゲント。我らの役目は、この北の地で敵を殲滅することのみ。本都の血の雨は、我らの槍には関係のないことだ」
シュウスイは大槍を強く握りしめ、自らの内に渦巻く嫌悪感と疑問を、無理やり雪の奥底へと押し殺した。しかし、彼の心に落ちたソウガへの微かな不信の影は、決して消え去ることはなかった。
そして、最も深い絶望と激しい葛藤に苛まれていたのは、東国へと進軍を続けていたメイカクであった。
規則正しく進む行軍の最中、本都からの密使から詳細な報告書を受け取ったメイカクは、馬上から転げ落ちそうになるほどの衝撃を受けた。
「……なん、だと……? 三大寺院を、全て焼き討ち……? 貴族たちの一族郎党を、赤子に至るまで皆殺しにしたというのか……!?」
メイカクの手は激しく震え、握りしめた報告書がクシャクシャに潰れた。
彼の脳裏に、王都の美しい街並みと、そこで何百年と続いてきた人々の営み、そしてそれを全て理不尽な暴力で破壊し尽くすソウガの狂った笑い声が、鮮明に浮かび上がった。
「なぜだ……! なぜあのような凶行を! 我々が西国の平定において、どれほどの血と汗を流して新しい『秩序』を構築したと思っているのだ! ジン千人将が泥を啜り、私が寝食を忘れて戸籍を整え、法を敷いたのは、国を豊かにし、民を生かすためではないのか!!」
メイカクの悲痛な叫びが、東国の風に虚しく吸い込まれていく。
彼にとって、武人としての忠誠とは、ただ盲目的に主君に従うことではない。主君と共に国を正しく導き、経世済民の理想を実現することこそが、真の忠誠であった。
しかし、今のソウガが行っているのは、秩序の創造ではなく、単なる無軌道な破壊と虐殺である。それは、メイカクが命を懸けて守り、ジンに託した『正道』とは、完全に対極にある絶対悪であった。
「……ソウガ様。貴方様は、この乱世を終わらせる覇王ではなかったのか。ただ、全てを破壊し尽くすだけの、本当の魔王に成り果ててしまわれたのか……」
メイカクは馬の首に縋り付き、血の涙を流した。
自らの命を救い、千人将として再び戦う機会を与えてくれた主君への「恩義」。
そして、二百年の歴史が築き上げてきた人間の尊厳と、国を正しく導くべき武人としての「正義」。
二つの巨大な価値観が、メイカクの魂を引き裂かんばかりに激しく衝突していた。
「……私は、どうすればいい。狂った主君に従い、このまま東の地を無慈悲に蹂躙するだけの血に飢えた獣となるべきか。それとも……」
メイカクは顔を上げ、本都のある方角、赤く染まっているであろう西の空を睨みつけた。
その瞳の奥には、かつての保身に走る臆病な貴族の姿はない。
泥と血の味を知り、ジンから生きる熱量を受け継いだ、一人の強靭な武将としての静かなる決意が、極限の苦悩の果てに、ゆっくりと、しかし確実に形作られようとしていた。
「……秩序を破壊する者が魔王であるならば。その魔王を討ち果たすことこそが、真の武人が果たすべき、最後の『正道』なのかもしれん……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で紡がれたその独白は、やがて黎州という巨大な帝国を根底から崩壊させる、恐るべき反逆の炎の種であった。
東国へ向けて進み続ける白銀の軍列は、その大将の心の内で産声を上げた致命的な決断をまだ知る由もなく、ただただ沈黙を保ったまま行軍を続けていた。




