幕間 出陣前夜の狂宴と、白銀の意外な弱点
黎州本都、覇宮から少し離れた武家屋敷の一角。
明日には東、南、北の三方面へ向けて大軍が進発するという出陣の前夜。ジンに与えられた広大な屋敷では、最高幹部たちによる身内だけのささやかな、しかし異常に騒がしい宴が開かれていた。
「オラァッ! 飲め飲めェッ! 明日からまた血と泥の味が続くんだ、今夜は南国の強い酒で胃袋を洗えェッ!」
宴の開始早々、上半身裸になったゴウが、巨大な酒樽を片手で軽々と持ち上げ、周囲の杯にドボドボと酒を注いで回っていた。すでに顔は真っ赤であり、手加減というものを知らない彼は、杯から溢れた酒を畳の上に撒き散らしている。
「ゴウ。貴様、酒の消費速度が想定された兵站の計算式を大幅に逸脱している。それに畳を汚すな。後片付けの労力を数値化すれば、お前は明日から三日間減給だ」
無表情なガクが、几帳面に自分の杯の酒をすり切り一杯で止めさせながら、冷たく指摘する。
「うっせえガク! 宴会に計算式持ち込むな! そんなんだからお前はいつまで経っても面白みがねえんだよ!」
「面白みと軍規は両立しない。……それより、そこの二人。何をしている」
ガクが竹竿の先で指し示した部屋の隅では、シオンとクロウの『双頭の悪魔』が、薄暗い行燈の光の下で何やら不気味な小声で囁き合っていた。
「……ゲホッ、ゴホッ。私は、ゴウ殿が完全に酔い潰れるまでに、あと七杯と予測します。賭け金は私の今月の俸禄の半分」
「クックック……甘いな、シオン殿。あの単細胞は酒には強いが、ガク殿に煽られればペースを乱す。私は五杯で吐く方に、炎州の宝飾品を賭けよう」
「悪魔どもが酒の席で賭場を開くな! しかも俺をダシにしやがって!」
ゴウが鉄砕棒を振り回して突っ込もうとするが、その後ろから「まあまあ、落ち着けって」と笑いながらジンが肩を組んできた。
「明日はそれぞれの戦場に散るんだ。今日くらい好きに飲ませてやれよ。……ほら、新入りたちも遠慮しないで飲め」
ジンが視線を向けた先には、先日西国で盟友となった沙那家の若武者レンと、北国から降伏してジンの軍門に下った大将軍ハクヤの姿があった。
レンは真紅の陣羽織を着流し、出された酒を美味そうに呷っている。
「いやあ、黎州の酒は強いな! 釜田峡谷の安酒とは大違いだ。ジン、あんたの奢りならいくらでも飲ませてもらうぜ!」
一方、ハクヤはというと、巨大な体でちんまりと正座をし、目の前に出されたおにぎりと温かい豚汁を、涙ぐみながら一心不乱に頬張っていた。
「う、美味い……! 凍った干し肉ではなく、火の通った柔らかい肉がこんなに美味いとは……! おかわりを、おかわりをいただきたい……!」
「お前、氷の城の大将軍だったくせに、すっかりただの食いしん坊になっちまったな……」
ジンが苦笑しながら、ハクヤの椀に大盛りの豚汁を注いでやる。
そんなカオスな宴席の少し離れた上座に、一人静かに正座をしている男がいた。
先日、千人将に降格となったばかりの元筆頭家老、メイカクである。
彼は簡素な着流し姿で、姿勢を正したまま、目の前に置かれた小さな杯をじっと見つめていた。
「どうした、オッサン。飲まねえのか?」
ジンが酒瓶を持ってメイカクの前に座り込む。
「……私は、元来あまり酒を嗜まんのだ。それに、明日からは東国への過酷な行軍が控えている。将たる者、前夜に泥酔するなど言語道断。私はこの一杯で十分だ」
メイカクは真面目くさった顔でそう言うと、ジンが注いだ杯を手に取り、クッと一息に飲み干した。
「ぷはっ……。ほう、南の酒か。香りは荒々しいが、悪くない」
メイカクが小さく息を吐いた、その十秒後であった。
彼の白い頬が、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていった。
「……ん? オッサン、大丈夫か?」
ジンが首を傾げた瞬間、メイカクの目がトロンと半開きになり、姿勢を正していたはずの背筋が、スライムのようにぐにゃりと崩れた。
「……おい、ゴウ」
突然、メイカクが呂律の回らない声で、騒いでいたゴウを指差した。
「おま、お前なぁ……さっきから鉄砕棒を振り回してるが、あれは効率が悪い! わかるか!?」
「あぁん? なんだオッサン、急に絡んできやがって」
メイカクは立ち上がろうとして足がもつれ、ジンの肩にドサリと寄りかかった。
「いいか、鉄砕棒の重量が三十貫だと仮定する! それを円運動で振り回した場合の遠心力と、筋肉への負荷を計算してみろ! 途中で手首の角度を十五度内側に曲げれば、破壊力はそのままに疲労を二割軽減できるんだ! なぜそれがわからん、この筋肉ダルマがぁっ!」
「なっ……!?」
ゴウは目を丸くし、ジンは吹き出しかけた。
あの常に冷静沈着で、体面を何よりも気にするメイカクが、たった一杯の酒で完全に酔っ払い、あろうことか「物理と数学の説教」を始めたのである。
「ゲホッ……これは驚きました。あのメイカク殿が、いわゆる『絡み酒』だったとは」
「クックック。人間の裏の顔というのは、恐ろしいものだな」
シオンとクロウが、賭けの対象をゴウからメイカクへと即座に変更し始めた。
「ジン! お前もだ!」
今度はメイカクがジンの胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「お前はいつもいつも、思いつきで無茶苦茶な命令を出しおって! 雪山に空の荷車千台だぁ!? それを集める私の身にもなってみろ! 帳簿の数字が合わなくて、三日三晩、夢の中にまで荷車が出てきたんだぞ! ええい、この泥犬め、私の苦労を少しは労え!」
「わ、わかった! 悪かったって、オッサン! 酒臭い、顔が近い!」
「ガク! お前も塩分を気にして汁物を残すな! 兵站とはな、出されたものを残さず食うところから始まるんだ! ハクヤを見ろ! あの男は今夜だけで豚汁を八杯も平らげているぞ! 素晴らしい燃費だ!」
「……褒められているのか、私は?」とハクヤが豚汁をすすりながら首を傾げる。
完全に箍が外れ、普段の鬱憤を大声でぶちまけながら説教して回るメイカク。
そのあまりのギャップに、最初は戸惑っていたゴウやガクも、やがて腹を抱えて大笑いし始めた。
「ハハハハハッ! オッサン、あんた最高に面倒くせえ酔っ払いだな!」
「しかし、十五度の角度調整の理論は一理ある。明日試してみよう」
「うるさーい! 私はまだ言い足りん! 次は東国の地形でいかに効率よく陣を張るかの講義を……むにゃ」
言いかけたメイカクは、突然糸が切れたようにジンの膝の上に倒れ込み、そのまま高いイビキをかいて眠りに落ちてしまった。
「……寝やがった。本当にお猪口一杯で限界だったんだな」
ジンは苦笑しながら、自分の羽織を脱いでメイカクの肩に掛けてやった。
「親父。このオッサン、明日起きれるのか?」
ゴウが心配そうに覗き込む。
「さあな。だが、これだけ言いたいこと言って寝たんだ。明日はきっと、今までで一番いいツラして出陣できるだろ」
ジンは自らの杯に酒を注ぎ、眠るメイカクの頭越しに、集まった野犬たちに向かって高く掲げた。
「明日から、俺たちは東、北、南に分かれて、今までで一番デカい喧嘩に行く。……誰一人欠けるんじゃねえぞ。全員、笑ってまたこの泥犬の宴に戻ってこい!」
「「「応ォォォォッ!!」」」
猛将たちの大歓声が、夜の空へと響き渡る。
それぞれが過酷な運命と、巨大な覇道に向かって進み出す前夜。それは、身分も過去の遺恨も全てを忘れ、ただ一人の人間として笑い合った、彼らにとって最後になるかもしれない、暖かくも騒がしい狂宴の夜であった。




