第40話 覇王の裁きと、新しき秩序の胎動
黎州本都、覇宮。
かつて白き王が座したと伝わる古き城跡を土台とし、数多の敗者の血と骨の上に築き上げられたその巨大な城郭は、見る者を圧倒する暴力的なまでの威容を誇っていた。天を衝く黒塗りの天守、幾重にも張り巡らされた堀、そして風にはためく黎州の軍旗。それはまさに、天下を飲み込まんとする魔王の住処に相応しい威圧感を放っていた。
西国と北国での死闘を終え、本都へと凱旋したジンとメイカクは、武装を解き、静寂に包まれた覇宮の長い廊下を歩んでいた。
ジンの足取りは力強いが、その背中にはかつてないほどの緊張感が張り詰めている。
彼の隣を歩くメイカクの顔には、もはや一切の迷いはなかった。装飾を削ぎ落とした実戦用の簡素な胴当てのみを身につけ、自らの死地へと向かうその足取りは、静かな水面のように澄み切っていた。
重厚な黒鉄の扉が開かれ、二人は覇宮の最奥、広大な謁見の間へと足を踏み入れた。
薄暗い室内を照らすのは、等間隔に置かれた篝火の炎のみ。
その炎に照らされるようにして、玉座へ続く緋色の絨毯の両脇には、すでに二つの巨大な影が控えていた。
一人は、炎州での死闘をジンと共に生き抜いた猛将、シュウスイ。
大槍を傍らに置き、仁王立ちで待ち構えるその姿は、まさに黎州が誇る「鬼」そのものであった。
そしてもう一人は、王都の守りを固める千人将、ゲント。
一切の隙を見せない質実剛健な佇まいと、鋼鉄のように冷たい眼光。主君に対する絶対的な忠誠心のみで構成されたような、生真面目な武人である。
ジンとメイカクが部屋の中央まで進み出ると、シュウスイの鋭い視線が二人を射抜いた。
シュウスイはまずジンと目を合わせ、短く一度だけ瞬きをした。それは、数々の死線を潜り抜けてきた戦友に対する、無言の称賛と労いのアイスブレイクであった。
しかし次の瞬間、シュウスイの視線はジンの隣に立つメイカクへと移り、その瞳に燃え盛るような怒りと侮蔑の色を浮かべた。
シュウスイにとって、メイカクは軽蔑すべき対象でしかなかった。戦場から逃げ出し、兵を見捨て、安全な場所から偉そうに御託を並べるだけの卑怯な貴族。そんな男が西国を失陥させ、黎州に泥を塗ったのだ。シュウスイの握りしめた拳からは、今にもメイカクを殴り殺さんばかりの殺気が漏れ出していた。
それに気がついたメイカクは、立ち止まった。
彼はかつてのように、シュウスイの殺気を鼻で笑うことも、家老という身分を盾に威圧し返すこともなかった。
メイカクは静かにシュウスイの方へと体の向きを変えると、両手を膝に添え、腰を九十度に折って、深く、深々と頭を下げたのである。
「……ッ!?」
シュウスイは、思わず目を見開いた。
隣に立つゲントでさえ、その生真面目な顔に微かな驚きを浮かべている。
それは、自らの無能と過ちを完全に認め、相手の武人としての格に最大の敬意を払う、純粋な謝罪と服従の礼であった。かつての傲慢な筆頭家老であれば、天地がひっくり返っても絶対にしないであろう行為。
シュウスイの放っていた殺気が、戸惑いと共に霧散していく。
(……この男、一体西国で何があったというのだ。まるで、憑き物が落ちたどころか、別の生き物に生まれ変わったかのようではないか……)
シュウスイが心中で戦慄を覚えた、その時である。
ギィィィィン……。
玉座の奥にある重厚な扉が、重々しい音を立てて開かれた。
謁見の間の空気が、一瞬にして凍りついた。
篝火の炎が怯えたように揺らぎ、部屋の温度が数度は下がったかのように錯覚する。
足音の主は、黎州を統べる覇侯、ソウガ。
身の丈ほどもある巨大な剣を腰に下げ、漆黒の外套を翻して歩み出てきた魔王の眼光は、部屋にいる全ての者の魂を射すくめるほどの絶対的な圧力を放っていた。
そして、そのソウガの背後には、もう一人の若い武将が付き従っていた。
ソウガの面影を色濃く残す精悍な顔つきに、最高級の黒曜石で設えられた甲冑を纏う青年。ソウガの嫡男、トウガであった。
まだ若いながらも、その身から発せられる覇気は、すでに一軍の将として申し分のない鋭さを持っている。
ソウガが玉座に腰を下ろし、トウガがその傍らに控えると、ジン、メイカク、シュウスイ、ゲントの四人は、一斉に絨毯の上に膝をつき、深く頭を垂れた。
「……面を上げよ」
ソウガの低く、地を這うような声が響いた。
四人が一斉に顔を上げると、ソウガは玉座から彼らを見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。
「シュウスイ。南の国境の防衛、そして炎州での立ち回り、見事であった。貴様の槍がある限り、南の憂いは不要だ」
「はっ! 勿体無きお言葉!」
シュウスイが深く頭を下げる。
「ジン。西国の中央部を瞬く間に鎮圧し、さらに北国の氷の要塞を崩したと聞いた。見事な戦果だ。最下層の泥水から這い上がった貴様が、今や我が黎州の最も鋭い牙となったこと、褒めて遣わす」
「ありがたき幸せに存じます、親分」
ジンは不敵な笑みを隠し、恭しく首を垂れた。
ソウガは立ち上がり、玉座の階段をゆっくりと降りながら、広間全体に響き渡る声で宣言した。
「貴様らも知っての通り、我が求める『覇道』とは、結果が全てである。血筋、伝統、過去の栄光。そのような腐りきった幻想は、尽領寺の坊主どもと共にすでに灰に変えた」
ソウガの言葉には、一片の迷いもない冷酷な真理が宿っていた。
「私の覇道は、あと少しで全て完成する。古い世界を完全に叩き壊し、このソウガが、実力と結果のみが支配する新たなる秩序を創り出す。……貴様らは、その新世界の礎となる刃だ」
その言葉の重みに、ジンたちは息を呑んだ。魔王の視線はすでに、この乱世の終わり、その先の景色を見据えているのだ。
そして。
階段を下りきったソウガの足取りが、ピタリと止まった。
彼が立ち止まったのは、微動だにせず平伏している、メイカクの目の前であった。
広間の空気が、限界まで張り詰める。
メイカクは西国を失陥させた大罪人。ソウガの「結果が全て」という掟に照らし合わせれば、いかにその後に功績を上げようとも、万死に値する。
チャキッ……。
ソウガの手が、腰の巨大な剣の柄にかけられた。
金属が擦れる冷たい音が、静寂の広間に響き渡る。
(殺される……!)
ジンの生存本能が警鐘を鳴らした。体が勝手に動き、メイカクを庇うために立ち上がろうと筋肉が収縮する。
ガシッ!!
しかし、ジンの体が浮き上がるより早く、横にいたシュウスイの分厚い手が、ジンの腕を鋼鉄の万力のように掴み、その動きを完全に封じ込めた。
シュウスイの目は、前を見たまま動かない。だが、その強烈な握力は「動けば貴様も斬られるぞ。耐えろ」と無言の警告を発していた。
もがきかけたジンであったが、その視線がメイカクの横顔を捉えた瞬間、動きを止めた。
メイカクは、自らの頭上に死神の刃が振り下ろされようとしているこの期に及んで、わずかにジンの方へ目線を向け、口元に微かな笑みを浮かべていたのである。
『止めるな。これが私の武人としての、最後の意地だ』
その澄み切った目配せに、ジンは奥歯を噛み締め、再び深く平伏するしかなかった。
ソウガは、剣の柄を握ったまま、目の前で静かに死を待つメイカクの頭頂部を見下ろしていた。
かつては綺麗に結われていた髷も、過酷な戦場と飢餓によって抜け落ち、今では見る影もない。
「……面を上げよ、禿ネズミ」
ソウガの口から出たその言葉に、メイカクはゆっくりと顔を上げた。
ソウガの冷徹な瞳と、メイカクの全てを悟った澄み切った瞳が、至近距離で交錯する。
ソウガは、そのメイカクの目を見た瞬間、剣の柄から静かに手を離した。
(……ほう。あの体面ばかりを気にする臆病な貴族が、これほどまでに澄んだ、狂気的なまでの武人の目をするようになるとはな)
ソウガの卓越した観察眼は、メイカクの魂が、西国の泥水の中で完全に別の強靭な鋼へと打ち直されていることを見抜いていた。
結果を出せなかった者は殺す。それがソウガの掟だ。しかし、目の前にいるこの男は、すでに過去のメイカクではない。
「……禿ネズミ。お前は今日をもって、黎州筆頭家老の座を剥奪する。そして、千人将へと降格とする」
その予想外の沙汰に、広間にいた全員が息を呑んだ。
死罪の免除。ソウガが、自らの掟を曲げてまで、この男の才能を惜しんだのだ。
「メ、メイカク……謹んで、お受けいたします……!」
メイカクは、震える声を振り絞って深く頭を下げた。
ソウガは踵を返し、玉座へと戻りながら、間髪入れずに次の指示を飛ばした。
「メイカク、貴様には休む暇など与えん。ただちに軍を再編し、東国への侵攻を開始せよ。……現在、我が黎州は東国と同盟を結んでいるが、これを即刻解消する。同盟破棄の通達と同時に、国境を越えて東国を蹂躙せよ」
「ははっ!! 必ずや、ソウガ様の御期待に沿う戦果を上げてみせます!」
「そして、我が軍にとって最大の難敵である北国」
ソウガは、傍らに控える嫡男トウガを見た。
「トウガ。お前が総大将となり、シュウスイ、ゲントを両翼として北国討伐の軍を起こせ。雪と氷に引きこもる愚か者どもを、根絶やしにしてこい」
「はっ! 父上の御威光、必ずや北の果てまで知らしめてみせます!」
若きトウガが力強く答えると、シュウスイとゲントも同時に深く首を垂れた。
「最後に、ジン」
玉座に座ったソウガの眼光が、再びジンを射抜いた。
「貴様には、改めて南国討伐の命を下す。炎州の砂漠を越え、南の覇侯の首を我が足元へ持ち帰れ。……結果を出せ、泥犬」
「応! 最高の獲物、しかと引き受けましたぜ、親分!」
ジンは顔を上げ、不敵な野犬の笑みを浮かべて即答した。
謁見の間を満たす、凄まじいまでの戦意と覇気。
メイカクは床に額を擦りつけながら、その瞳から大粒の涙をこぼしていた。
それは、死を免れたことへの安堵の涙ではない。自分がまだ、この熱狂の渦の中で、一人の武人として、黎州という巨大な獣の一部として働くことができるという、魂からの歓喜の涙であった。
「……我が覇道は、止まらん。諸公、ただちに出陣の支度を整えよ。全てを飲み込み、新しき世界を創るのだ!」
ソウガの号令が、覇宮の壁を震わせた。
東、北、そして南へ。
天下を統一するための最終決戦へ向け、黎州という無敵の軍勢が、今、三つの巨大な顎を開いて進軍を開始したのである。




