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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第38話 黒き雪の融解と、西国平定の凱歌

黒鋼連峰の最深部、視界を遮る吹雪の向こう側に、その巨大な絶望はそびえ立っていた。

北国最終防衛線にして最大の拠点、氷雪城。

天然の巨大な氷河を切り出して築かれたその城壁は、高さ数十メートルにも及び、青白く透き通るような美しい輝きを放っている。城内には北国本国から集結した十万の精鋭がひしめき、無数の剛弓と投石機が城壁の上にびっしりと並べられていた。

「これぞ、我が北国の誇る絶対不抜の氷城。いかに炎を操ろうと、この途方もない氷の質量を前にしては、すべてが凍りつくのみ」

大将軍ハクヤは、城壁の最上部から眼下に広がる純白の雪原を見下ろしていた。

哭白峡谷での大敗は確かに痛手であった。しかし、この氷雪城に籠城する限り、北国軍は絶対に負けないという確信が彼にはあった。黎州軍が誇る炎の罠も、この城の周囲に広がる広大な平原では仕掛ける隙がなく、城壁に取り付く前に十万の矢の雨によってハリネズミにされることは明白だったからだ。

「南の泥犬どもよ。貴様らの浅知恵が通用するのは小手先の戦術だけだ。この氷の要塞を前にして、己の無力さを噛み締めながら凍死するがいい」

ハクヤの呟きが冷たい風に消えていく中、城壁から数キロ離れた雪原に、五万の黎州軍が静かに陣を構えていた。

天幕の中では、ジンを囲むようにして最高幹部たちが集まり、氷雪城の巨大な見取り図を睨みつけていた。

「……ゲホッ、ゴホッ。厄介極まりない要塞ですね」

シオンが青白い顔で地図を指差した。

「あれだけの質量の氷壁となると、先日使った油と薪の炎程度では、表面をわずかに溶かすだけで構造を破壊するには至りません。そして何より、敵は十万。城に近づくことすら困難です」

「だが、あの城を落とさねえ限り、西国の完全平定は成り立たねえ」

ジンは胡座をかき、顎をさすりながら呟いた。

「兵站の状況はどうなっている、メイカク殿」

クロウが杖をつきながら尋ねると、メイカクは手元の木簡に目を通し、冷静に答えた。

「我々が持ち込んだ防寒具と、特別に調合した熱量の高い携行食のおかげで、兵士たちの士気と体力は完全に保たれている。しかし、この極寒の地での長期の包囲戦は不可能だ。物資が尽きる前に、十日以内にあの城を落とすか、さもなくば撤退の二択しかない」

武人としての誇りを取り戻したメイカクの報告は、悲観でも楽観でもなく、冷徹な事実だけを完璧に数字で提示していた。

「十日か。十分だぜ」

ジンはニヤリと笑い、小刀の柄で床の雪をコツコツと叩いた。

「炎が駄目なら、別のやり方で溶かせばいい。……なあ、シオン、クロウ。氷ってのはなんであんなに溶けねえんだ?」

「ゲホッ……それは、氷が純白で光を反射し、熱を吸収しないからです。そして、溶けた水もこの極寒の気温によってすぐに再凍結してしまうからですね」

「だろうな。だったら話は簡単だ」

ジンの生存本能に裏打ちされた悪魔的な発想が、閃きを帯びて牙を剥いた。

「あの綺麗な氷のお城を、真っ黒に汚してやればいい。光をガンガン吸収するようにな。……おまけに、溶けた水が二度と凍らなくなるような『魔法の粉』をたっぷり混ぜてな」

その言葉を聞いた瞬間、双頭の悪魔たちの目が同時に妖しく光った。

「……なるほど。そういうことですか。ゲホッ」

「クックック。相変わらず、貴様の発想は泥臭く、そして極めて理にかなっている」

ジンはメイカクの方を振り返った。

「オッサン。西国中の商人から、ありったけの『木炭の粉』と『岩塩』をかき集められるか? 量は多ければ多いほどいい」

木炭の粉は、黒く太陽の熱を強烈に吸収する。そして塩は、氷の融点を劇的に下げ、一度溶けた水を二度と凍らせなくする性質を持っている。

それは、雪国に住む者であれば日常的に知っている知識であったが、それを「十万の兵が籠る巨大な要塞を破壊するための兵器」として軍事転用するなどという発想は、常人の頭からは絶対に生まれない狂気の戦術であった。

メイカクはわずかに目を見開き、そして深く頷いた。

「……理解した。この三日の間に、後方の輸送部隊を不眠不休で動かし、西国中の炭と塩を貴公の足元に積み上げてみせよう。私の兵站網を侮るな」

「頼むぜ。ガク、お前はゴウと一緒に、敵の矢が届かねえギリギリの距離に、特大の投石機を百台並べろ。投げるのは岩じゃねえぞ」

「承知した。寸分の狂いもなく陣形を組む」

「オラァッ! 雪国のお坊ちゃんたちに、真っ黒な泥の味を教えてやるぜ!」

三日後の早朝。

氷雪城の城壁で警戒にあたっていた北国の兵士たちは、黎州軍の陣地から、奇妙なものが次々と放たれるのを目撃した。

「なんだ、あれは? 岩ではない……巨大な布の袋?」

ドスッ! ボスッ!

放物線を描いて飛来した無数の袋は、氷雪城の分厚い城壁に叩きつけられると、破裂して中から大量の粉末を撒き散らした。

「ゲホッ! なんだこの黒い粉は! 炭か!?」

「それに、このしょっぱい粉は……塩だ! 奴ら、城壁に塩と炭をぶち撒けているぞ!」

ハクヤは城壁に駆け上がり、真っ黒に汚れ始めた氷の城壁を見て鼻で笑った。

「愚かな。城壁を汚したところで、この堅牢な氷壁が崩れるものか。放っておけ、奴らの物資の無駄遣いだ」

午前中の間、黎州軍からの「黒い粉と塩」の投擲は絶え間なく続いた。

氷雪城の美しかった青白い城壁は、瞬く間に無惨な漆黒へと塗りつぶされ、城内にも大量の黒い粉が降り注いだ。

そして、正午。

分厚い雪雲が切れ、高く上った太陽から、強烈な冬の陽射しが氷雪城へと降り注いだ、その時である。

「な、なんだ……!? 城壁が、熱い!?」

城壁の上にいた兵士たちが、足元の異変に気づき悲鳴を上げた。

太陽の光を全て反射していた純白の氷城は、表面を漆黒の炭で覆われたことにより、信じられない効率で太陽の熱を吸収し始めたのだ。

さらに、表面にこびりついた大量の岩塩が氷と反応し、急激な融解を引き起こす。

ピシッ……ピキキキキッ……!

「しょ、将軍! 城壁が……溶けています! しかも、溶けた水が凍りません!!」

「なんだと!?」

ハクヤが足元を見ると、分厚い氷のブロックが、まるで夏の陽射しを浴びた飴細工のようにドロドロと溶け崩れ、巨大な黒い泥水となって滝のように流れ落ちていた。塩水となったそれは、氷点下の気温の中でさえ決して再凍結することなく、城の基礎部分の凍土までをも容赦なく侵食していく。

ズズズズズッ……ドゴォォォォォンッ!!

ついに、熱吸収と塩の侵食に耐えきれなくなった氷雪城の城壁の一部が、巨大な音を立てて崩落した。

「ば、馬鹿な……我らが絶対の防壁が、あのような黒い粉と塩だけで崩されるというのか……!」

ハクヤは、黒い泥水にまみれて崩れていく自らの誇りを見つめ、絶望に顔を歪めた。

「ゲホッ。氷の城というのは、美しく純粋であるがゆえに、一度汚れを受け入れれば驚くほど脆いものですね」

遠く離れた黎州軍の本陣で、シオンが崩れゆく城壁を見ながら冷笑した。

「さて、城壁は崩れた。十万のネズミどもが、泥水の中から這い出してくるぞ」

クロウが杖を掲げた。

「オラァァァッ!! 待ってたぜェッ!!」

崩落した城壁の隙間から城内へと真っ先に突入したのは、巨大な鉄砕棒を振り回すゴウであった。

「陣形を崩すな。氷の上とは勝手が違うぞ」

ガクが冷静に部隊を指揮し、剛機弓の精密な射撃で混乱する北国軍を次々と射抜いていく。

「おのれぇぇッ! 南の泥犬どもめ、舐めるなァッ!!」

ハクヤは大剣を抜き放ち、決死の覚悟で本陣から打って出た。彼の周囲には、北国の誇る精鋭部隊が血走った目で付き従っている。

「泥まみれになろうとも、我らの武の誇りは崩れん! 突撃ィィッ!!」

城内はすでに、溶けた氷と炭が混ざり合った真っ黒な泥沼と化していた。

足場が最悪な状態の中、ハクヤは圧倒的な武威で黎州の兵士たちを次々と斬り伏せ、一直線に敵の大将であるジンの元へと迫った。

「見つけたぞ、黎州の千人将! 貴様のその卑怯な首、我が剣で叩き落としてくれる!」

ハクヤの渾身の斬撃が、ジンの頭上へと振り下ろされる。

しかし、ジンは腰の小刀を抜くことすらなく、ニヤリと笑って足元の真っ黒な泥を両手で力いっぱいすくい上げた。

「卑怯ってのは、最高の褒め言葉だぜ!」

バシャァッ!!

ジンが投げつけた真っ黒な泥水と塩の塊が、ハクヤの顔面を真正面から直撃した。

「ぐあっ!? 目が……塩が目に……ッ!」

視界を奪われ、強烈な痛みにハクヤの動きが完全に止まる。雪国で正々堂々とした剣の立ち合いしか経験してこなかった彼にとって、泥と塩を顔面に投げつけるというストリートファイトの戦術は、完全に想定外であった。

「隙だらけだぜ、雪国の大将!」

視界を奪われたハクヤの足元を、ジンは容赦なく思い切り蹴り払った。

「ガハッ……!」

ハクヤはバランスを崩し、真っ黒な泥沼の中へと無様に転げ落ちた。

彼が立ち上がろうとした瞬間、ジンの冷たい小刀の刃が、ハクヤの喉元にピタリと突きつけられていた。

「勝負ありだ。……動けば、喉笛を切り裂くぜ」

ジンの低く冷酷な声に、ハクヤは全身の力を抜き、大剣から手を離した。

「……殺せ」

ハクヤは泥にまみれた顔を上げ、憎悪と屈辱に満ちた目でジンを睨みつけた。

「誇り高き北国の将として、貴様のような泥犬に情けをかけられる謂れはない。潔く首を刎ねよ」

しかし、ジンは小刀を収め、泥だらけの手で自らの頭をガシガシと掻いた。

「俺は、無駄な殺し合いは好きじゃねえんだよ。お前らがこれ以上抵抗しねえってんなら、命までは取らねえ」

「なっ……私を、生かすというのか?」

「お前ら北国の連中は、寒さに強くて我慢強い。そんな上等な働き手たちを、むざむざ雪の肥やしにするのは勿体ねえからな。俺たちの軍門に下れ。そうすりゃ、お前らにも腹一杯の温かい飯と、凍えることのねえ毛皮を用意してやる」

ジンの言葉に、ハクヤは呆然とした。

戦に負ければ全てを奪われ、凌辱され、殺されるのがこの乱世の常識である。しかし目の前の男は、十万の敵軍を丸ごと「働き手」として生かし、飯を食わせると言っているのだ。

「……貴様は、一体何者なのだ。その果てしない強欲さは、ただの武将のそれでは……」

「ただの薬草売り上がりの、泥犬さ」

ジンが背を向けて歩き出したその時、後方から一陣の部隊を率いてメイカクが静かに歩み寄ってきた。

彼の白銀の甲冑は、戦場の泥と炭で黒く汚れていたが、その威厳は城を落とした勝者そのものであった。

「ジン千人将。残存する北国軍十万の武装解除、および降伏の儀、全て手配が完了した。怪我人の治療と、彼らに支給する兵糧の手配もすでに済ませてある」

「ありがとよ、オッサン。相変わらず完璧な仕事ぶりだ」

ハクヤは、かつて王都で高貴な筆頭家老として名を馳せていたメイカクが、下賎な出のジンの下で完璧に立ち回り、そして泥にまみれることを厭わぬ顔つきになっていることに、底知れない恐怖と畏敬の念を抱いた。

(……この男たちには、勝てない。武力や兵法ではない、人間の根源的な生存の熱量が違うのだ……)

ハクヤは泥の中に深く平伏し、北国軍の完全なる降伏を宣言した。

その瞬間、西国北部を覆っていた分厚い雪雲が完全に晴れ渡り、崩れ落ちた氷雪城の跡地に、眩いばかりの陽光が差し込んだ。

「オラァァァッ!! 俺たちの勝ちだァァッ!!」

ゴウが鉄砕棒を天に突き上げて咆哮し、数万の黎州軍が地鳴りのような勝鬨を上げた。

メイカクは、歓喜に沸く兵士たちの中心に立つジンの背中を見つめ、静かに目を閉じた。

(……ソウガ様。貴方様の目は正しかった。この男は、単なる猛将でも策士でもない。泥にまみれながら、人々の腹を満たし、全てを飲み込み、そして新たな秩序を創り出す……真の『王の器』だ)

メイカクの中で、かつてソウガに対して抱いていた盲目的な忠誠とは違う、ジンという男の覇道に対する強烈な希望が芽生え始めていた。

彼がのちに、古い黎州の秩序を破壊する最大の叛逆者となるための、最初の火種であった。

西国北部、氷雪城陥落。

これにより、かつて黎州を苦しめた広大な西国は、ジンの圧倒的なカリスマと生存本能、そしてメイカクの完璧な内政力によって、完全に平定されたのである。

泥と雪にまみれた千人将の覇道は、ここからさらなる激動のうねりとなって、天下の勢力図を根底から塗り替えていくことになる。

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