幕間 白雪の要塞と、泥犬たちの無慈悲な遊戯
北国の最終防衛線、氷雪城が陥落してから数日後。
崩れかけた氷の城壁の内側では、十万の捕虜の管理や西国全体の戦後処理が進められ、黎州軍は多忙ながらも束の間の休息を得ていた。
「オラァッ! 食らいやがれガク! 俺の特製、脳天砕き雪玉だァッ!」
雪が深く積もった城の中庭で、分厚い毛皮を着込んだゴウが、自分の頭ほどもある巨大な雪の塊を振りかぶって投げつけた。
しかし、対峙する無表情なガクは、飛来する雪塊を竹竿の先で軽く弾き落とすと、ため息をついた。
「無駄な動きだ、ゴウ。雪玉のサイズと投擲の速度が完全に反比例している。そんな遅い球では、止まっている的にすら当たらん」
ガクは足元の雪をすくい、両手で素早く、かつ異常なまでの高密度に圧縮し始めた。
「雪玉とは、空気抵抗を極限まで減らした真球の形状と、氷に近い硬度こそが命だ」
シュガッ!
ガクの手から放たれた手のひらサイズの雪玉は、矢のような速度で空を切り裂き、ゴウの顔面にクリーンヒットした。
「いっってええええッ!? お前それ中に石入れてねえだろうな! 鼻血出たぞ!」
「入れていない。ただ圧縮率を限界まで高めただけだ。次は喉笛を狙うぞ」
そんな子供じみた、しかし殺意高めの雪合戦が繰り広げられている横で、城の中庭のど真ん中に巨大な鉄鍋が据え置かれていた。
数時間前まで殺し合いをしていた戦場の跡地である。しかし、そこからは出汁のいい匂いと、しょうもない怒号が飛び交っていた。
その巨大鍋から少し離れた丸太の上に、北国の大将軍ハクヤは呆然と座らされていた。
つい先ほど、完全に敗北し、自らの首を差し出したはずだった。捕虜として凄惨な拷問を受けるか、奴隷として引き回される覚悟を決めていたのだ。
しかし、縄で縛られることもなく、彼の手には大きめの木の椀と箸が握らされていた。
「……私は、一体何の幻術を見せられているのだ……?」
ハクヤが虚空を彷徨うような目をしていると、横からヒョイと、麻の単衣姿のジンが顔を出した。
「お、雪国の大将。いいツラになってきたじゃねえか。泥と炭を落としたら、案外男前だな」
「ジ、ジン千人将……貴様、私をどうするつもりだ。なぜ私にこのような椀を持たせている……?」
「言っただろ? 降伏するなら、温かい飯を食わせてやるって。ちょうど今、うちの特製、泥犬闇鍋ができあがるところだ」
ジンが親指で指差した巨大鍋の周囲では、さらにカオスな事態が進行していた。
「ゲホッ、ゴホッ……。ジン殿、この周辺の雪を掘り起こして見つけた特製の紫色のキノコを入れておきましたよ。疲労回復に劇的な効果がありますが、致死量ギリギリなので、一口につき寿命が三日縮みます」
「ほう。ならば私の用意した泥蛇の干物も入れよう。見た目は最悪だが、内臓が煮えくり返るほど体が温まるぞ。クックック」
シオンとクロウの双頭の悪魔が、鍋の淵でドス黒いオーラを放ちながら、明らかに劇薬と思われる謎の食材を次々と投入していた。
「おい! てめえら毒を入れるな! 出汁の色が紫と緑にマーブルしてんじゃねえか!」
ゴウが鼻血を出しながら悲鳴を上げ、ガクが「軍規違反だ。お前ら二人は明日から三日間、兵糧抜きだ」と冷たく宣告する。
「……ジン千人将。あれは、私を毒殺するための処刑の儀式か?」
ハクヤの顔が恐怖で引きつった。どんな過酷な拷問にも耐える自信はあったが、あの禍々しい色に煮え滾る液体を飲まされるのは、北国の戦士の誇りにかけても嫌だった。
「あー、待て待て。今、うちの優秀なオッサンが味を整えに来るからよ」
ジンが苦笑いしたその時、白銀の甲冑を綺麗に磨き上げたメイカクが、数人の兵士に木箱を運ばせて歩み寄ってきた。
「騒々しいぞ、貴様ら。せっかくの勝利の宴だというのに、下賎な言い争いはやめんか」
メイカクは鍋の惨状を一瞥すると、深くため息をつき、自らの腰に下げていた小袋を取り出した。
「シオン殿、クロウ殿の薬膳は兵の体を温めるのには最適だが、いささか風味が強すぎる。……ここは、私が後方から特別に取り寄せた、王都秘伝の合わせ味噌と削り節で味をまとめる。ガク殿、火加減を少し落とせ」
かつては血の気の多かった武将たちを見下していた筆頭家老が、今や鍋奉行として完璧な采配を振るい始めた。
メイカクが手際よく味噌を溶き入れると、不思議なことに、紫と緑の禍々しかった液体が、食欲をそそる見事な黄金色の汁へと変化した。削り節の香ばしい匂いが、雪原の冷たい空気に乗ってフワリと漂う。
「おおお……! すげえ匂いだ! さすがメイカクのオッサン、伊達に王都で美味いもん食ってねえな!」
ゴウが涎を垂らし、ガクも「塩分濃度、栄養価、ともに完璧な調和だ。素晴らしい」と称賛した。
「フッ。戦とは兵站であり、兵站とはすなわち食である。兵の胃袋を満たすことにおいて、このメイカクに抜かりはない」
メイカクは少し誇らしげに胸を張り、最初の一杯を自ら掬い上げると、それをハクヤの元へと持ってきた。
「北国の将軍よ。毒は入っておらん。心置きなく食すがいい」
ハクヤは、かつて王都の筆頭家老として天下に名を轟かせていたメイカクから直接椀を手渡され、完全に混乱していた。
「メ、メイカク殿……貴方ほどの誇り高きお方が、なぜこのような下賎な者たちと鍋を囲み、あまつさえ敵将の私に飯を……」
「誇りだと?」
メイカクはフッと笑い、自らの椀にも鍋の汁を注いだ。
「私はこの泥犬たちと共に、古い誇りよりも大切なものを学んだのだ。それは生きることの熱さだ。冷たい雪の城で孤高を気取って凍え死ぬよりも、こうして泥にまみれても温かい飯を食う方が、よほど人間らしいと思わんか?」
「……」
ハクヤは震える手で椀を受け取った。
湯気と共に、強烈な肉の旨味と、味噌の優しい香りが鼻腔をくすぐる。
彼は意を決して、椀に口をつけた。
「…………」
「どうだ? 寿命が縮む味か?」ジンがニヤニヤしながら尋ねる。
「……美味い」
ハクヤの両目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「なんだ、これは……! 私は……私は今まで、これほどまでに温かく、そして五臓六腑に染み渡るほど美味いものを食べたことがない……!」
北国の厳しい掟の中、常に凍てつくような干し肉と氷水しか口にしてこなかった彼にとって、ジンたちが作ったこの闇鍋は、あまりにも暴力的で、あまりにも優しすぎる味だったのだ。
ハクヤは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、一心不乱に肉を噛みちぎり、汁を飲み干した。
「おかわりだ! 頼む、もう一杯……いや、鍋ごと私に食わせてくれェッ!!」
「あッ!? ふざけんな新入り! それは俺が狙ってた一番デカい肉だぞ!」
「ゴウ、貴様はすでに規定量をオーバーしている。次はハクヤ将軍の番だ」
「ゲホッ、私の仕込んだキノコを彼が食べてくれましたね。これで彼はあと三日の命です」
「やめろ馬鹿野郎! 貴重な働き手を毒殺すんな!」
真っ黒に汚れ、半分溶け落ちた氷雪城の跡地で、黎州の将たちと北国の大将軍が、一つの鍋を囲んで本気で取っ組み合いの喧嘩を始めた。
そこには、勝者も敗者も、身分の違いも存在しない。
ただ、極寒の雪山で温かい飯に群がる、一匹の親分と、愉快な野犬たちの群れがいるだけだった。
「ハハハハハッ! 食え食え! 全部平らげたら、明日から死ぬほど働いてもらうからな!」
ジンは腹を抱えて笑いながら、自らも熱い鍋の汁を飲み干した。
血と策略にまみれた過酷な戦いの合間に訪れた、最高に騒がしく、そして最高に温かい、泥犬たちの束の間の休息であった。




