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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第37話 白雪の死地と、這い上がる亡霊の群れ

西国の北の果て、黒鋼連峰の山中にそびえる北国軍の最前線基地。

先日、難攻不落と謳われた第一の『氷の城壁』が、炎と泥の熱量によってただの一日で陥落したという報せは、北国の本陣に激震を走らせていた。

「……南の羽虫どもめ。小賢しい火遊びで我らが氷壁を溶かしたか」

氷の玉座に深く腰掛け、報告書を握りつぶしたのは、北国が誇る大将軍ハクヤであった。

分厚い白銀の狼の毛皮を纏い、氷の結晶のように冷たく透き通った瞳を持つ男。彼は寒冷地における戦の天才であり、北国の十万の軍勢を束ねる絶対的な司令官である。

「だが、奴らの快進撃もそこまでだ。第一の要塞は平地にあったがゆえに熱を通した。しかし、これから先は黒鋼連峰の険しい山岳地帯。……そして今夜から、この地には数十年に一度の『大猛吹雪』が到来する」

ハクヤは冷酷な笑みを浮かべ、傍らに控える副将に命じた。

「黎州の軍勢は勢いに乗って、そのまま連峰の入り口である『哭白峡谷こくはくきょうこく』へと進軍してくるだろう。あの狭く険しい谷底に奴らを誘い込め。我々は谷の両側にある断崖絶壁に伏兵を配置し、猛吹雪と共に頭上の雪庇せっぴを崩すのだ」

「はっ! 人工的な大雪崩を起こし、谷底の軍勢を丸ごと雪の墓標の下に生き埋めにするのですね!」

「いかに炎の罠を張ろうとも、大自然がもたらす数万トンの雪の質量と、視界を奪う猛吹雪の前では、いかなる兵法も無に帰す。南の泥犬どもに、北国の真の恐ろしさを教えてやれ」

一方、その頃。

黒鋼連峰の麓に陣を張る黎州軍の本陣。猛烈な冷風が吹き荒れる中、ジンと最高幹部たちは天幕の中で火を囲んでいた。

「……ゲホッ、ゴホッ。敵の動きは明白です」

シオンが、咳き込みながら地図上の峡谷を指差した。

「北国の軍勢は、正面からの激突を避け、この哭白峡谷の断崖に兵を潜ませています。奴らの狙いは、我々が谷底に入り込んだタイミングでの、雪崩による生き埋めでしょう」

「クックック。雪山での戦いにおける常套手段だな。だが、わかっていてもこの谷を抜けねば北国の本陣には辿り着けん。厄介な地形だ」

クロウが杖で地面をコツコツと叩きながら不敵に笑う。

「雪崩か。炎で溶かそうにも、頭上から数万トンの雪が落ちてきたらひとたまりもねえな」

ジンは腕を組み、唸り声を上げた。

そこに、天幕の入り口から雪を払って入ってきたのは、筆頭家老メイカクであった。

彼は手にした分厚い木簡の束(兵站の帳簿)を机に置き、ジンに向かって静かに告げた。

「ジン千人将。貴公が数日前に『あるかもしれないから集めておけ』と命じていた物資……先程、全て最後尾の部隊から前線に到着した。西国中の商人からかき集めた、三万着分の『古びた防具と野良着』、そして千台の『空の荷車』だ」

「おう! さすがはオッサン、仕事が早えな!」

ジンは顔を輝かせ、メイカクの肩をバンバンと叩いた。

メイカクは眉をひそめながらも、ジンの顔を見た。

「集めろと言われたから集めはしたが……こんなガラクタの山と空の荷車を大量に持ち込んで、一体何に使うつもりだ? まさか、これを着て雪崩を防ぐなどという狂った真似は……」

「ハハハ! 防ぐわけねえだろ。俺たちは、その雪崩を『丸ごとプレゼントしてやる』んだよ」

ジンはニヤリと悪魔のような笑みを浮かべ、シオンとクロウも同時に薄気味悪い笑い声を上げた。

「……メイカクのオッサン。アンタの完璧な兵站のおかげで、俺たちは腹の底から温かい。だからこそ、ちょっとばかり『泥犬らしい狂った喧嘩』を仕掛ける余裕ができた」

ジンは小刀を抜き、地図の哭白峡谷の『断崖絶壁の上』に突き立てた。

「いいか、野郎ども。今夜の猛吹雪に乗じて、北国のお坊ちゃんたちに、極上の悪夢を見せてやるぜ」

その夜。

黒鋼連峰の哭白峡谷は、立っていることすら困難なほどのすさまじい猛吹雪に見舞われていた。

視界は真っ白に染まり、風の咆哮が全ての音を掻き消している。

峡谷の断崖絶壁の頂上付近。分厚い毛皮に身を包み、雪の中に同化するように潜んでいたハクヤ率いる北国の伏兵部隊は、眼下の谷底を凝視していた。

「……将軍! 来ました! 谷底の入り口から、黎州の軍勢が!」

吹雪の向こう側、かすかに見える松明の光。そして、重い荷車を引きながら、身を寄せ合うようにして谷底をノロノロと進む数万の軍勢の黒い影が確認できた。

「フン。吹雪の中で歩みも鈍っているようだな。愚か者どもめ、ここが貴様らの死に場所だ」

ハクヤは冷酷に手を挙げた。

黎州の軍勢が、峡谷の最も深い部分、完全に逃げ場のないすり鉢状の底へと入り込んだその瞬間。

「今だ!! 頭上の雪庇を爆破せよ! 全てを白に沈めろォォッ!!」

ハクヤの号令と共に、北国の工兵たちが断崖の岩肌に仕掛けていた発破に火を放った。

ドゴォォォォォォッ!!

腹の底に響くような爆音と共に、断崖の上に何百年も降り積もっていた途方もない質量の雪と氷の塊が、一斉に崩落を始めた。

ゴゴゴゴゴゴッ……!!

それは、まさに白い津波であった。

数万トンの雪が、巨大な岩石や樹木を巻き込みながら、圧倒的な破壊力で谷底へと雪崩れ落ちていく。逃げ惑う暇など一秒たりとも存在しない。

大雪崩は、谷底を行軍していた黎州の数万の軍勢を、荷車もろとも一瞬にして完全に飲み込み、峡谷を真っ白な雪の平野へと変えてしまった。

「勝った……!」

北国の兵士たちが、断崖の上で歓喜の雄叫びを上げた。

どれほど知略に長けた将であろうと、この大自然の暴力の前ではチリ芥も同然。彼らはそう確信していた。

「よし。念のため、谷底に斥候を下ろし、生き残りがいないか確認しろ。首級を上げるのだ」

ハクヤの命により、数名の北国兵がロープを使って雪に埋もれた谷底へと降りていった。

しばらくして、谷底の雪を掘り返していた斥候から、信じられないような声が上がった。

「しょ、将軍……! これを……これを見てください!」

「なんだ、生存者か?」

ハクヤが断崖の上から身を乗り出して見下ろすと、斥候が雪の中から掘り出したものを高く掲げていた。

それは、人間の死体ではない。

木と藁で作られた粗末な人形に、古びた鎧と野良着を着せ、兜を被せただけの『案山子かかし』であった。

「なんだ、それは……。他の雪だまりはどうなっている! 荷車の中身は!」

「空っぽです! 荷車の中には丸太が積んであるだけで、食料も武器もありません! 掘り返しても掘り返しても、出てくるのは木の人形とボロボロの鎧だけです!」

斥候の震える声が、吹雪の中に響き渡った。

ハクヤの背筋に、極寒の雪山よりも冷たい悪寒が走った。

谷底を行軍していた数万の軍勢。その正体は、メイカクが西国中からかき集めた古着と空の荷車で作られた、ただの巨大な『亡霊の群れ(デコイ)』だったのである。

吹雪で視界が奪われること、そして北国軍が雪崩に絶対の自信を持っていることを逆手に取った、シオンとクロウによる完全なる死角からの騙し討ち。

「馬鹿な……! では、本物の黎州軍数万は、どこに消えたというのだ!?」

ハクヤが驚愕の声を上げた、まさにその瞬間。

彼らが潜んでいた断崖絶壁の、さらに上の『絶対によじ登ることなど不可能とされた氷の絶壁』から、凄まじい雄叫びが降ってきた。

「オラァァァッ!! 下は冷えるだろ! 一緒に遊んでやるぜェッ!!」

吹雪を突き破り、氷の絶壁の上から飛び降りてきたのは、巨大な鉄砕棒を振りかぶったゴウであった。

「なっ……上からだと!?」

ゴウの鉄砕棒が、ハクヤの傍らにいた北国の副将を頭から雪の中に粉砕した。

続いて、ガク率いる黎州の精鋭部隊が、氷の絶壁を滑り降りるようにして次々と姿を現し、背後から完全に無防備な北国軍の伏兵部隊へと襲いかかったのである。

「ば、馬鹿な! この氷の壁は、特殊な訓練を受けた我が国の登攀兵でも登るのに半日はかかるのだぞ! 奴らはいったいどうやって……!」

パニックに陥るハクヤの視界の先、雪の中からゆっくりと立ち上がったジンが、ニヤリと笑いながら足元を指差した。

ジンの足には、厚手の長靴に頑丈な皮紐で固定された、鋭い『鉄のアイゼン』が装着されていた。さらに彼らの手には、氷の壁に深く突き刺さる特殊な形状の『氷槌ピッケル』が握られている。

「……オッサンが徹夜で作らせた、特製の氷登りセットだ」

ジンは、肩で息をしながらも凶悪な笑みを浮かべた。

「雪崩が起きるのを待ってる間、俺たちは猛吹雪の死角を使って、お前らの真裏にある絶壁をチマチマと登らせてもらってたのさ。……温かい飯と、完璧な防寒具、そして登るための道具。それさえあれば、俺たち泥犬はどこまででも這い上がれるんだよ」

メイカクという完璧な兵站を司る内政官の力がなければ、五万の軍勢を秘密裏に分断し、一晩で絶壁を登らせるほどの体力と装備を維持することなど絶対に不可能であった。

ジンの狂気的な発想を、シオンとクロウが盤面に落とし込み、メイカクが物理的に可能にする。この四つの才能が完全に噛み合った黎州軍は、もはや大自然の壁すらも乗り越える無敵の怪物であった。

「殺せェッ!! 伏兵気取りの雪ダルマどもを、雪山の肥やしにしてやれェッ!!」

ジンの号令と共に、完全に背後を取られた北国軍への凄惨な蹂躙が始まった。

雪崩を起こして油断しきっていた北国の兵士たちは、武器を構える暇もなく、黎州軍の刃によって次々と雪を赤く染めて倒れていく。

「おのれ……! おのれぇぇッ! 泥を這う下賎な獣どもがァッ!」

ハクヤが怒りに顔を歪め、巨大な戦斧を振り回して応戦するが、もはや陣形は完全に崩壊し、伏兵部隊は壊滅状態であった。

「将軍! ここは退路を開きます! 本陣までお退きください!」

血まみれになった近衛兵たちがハクヤを庇い、決死の突撃で後方への道を切り開く。

「……退け! この場は放棄する! 最終防衛線である『氷雪城』まで後退し、本軍と合流するのだ!」

ハクヤは屈辱に唇を噛み切りながら、残存するわずかな手勢と共に、吹雪の奥へと命からがら逃走していった。

雪崩によって埋め尽くされた谷底と、血に染まった断崖絶壁。

北国軍が仕掛けた絶対の罠は、黎州軍の常軌を逸した機転と兵站力によって完全に粉砕されたのである。

吹雪が少しずつ弱まり、雲の隙間から冷たい陽の光が差し込み始めた。

「ハァ……ハァ……。ざまあみろ、雪国のバケモノめ。俺たちの方が一枚上手だったな」

ジンは雪の上にどっかりと座り込み、手についた敵の血を雪で拭い取った。

「見事な采配でした、ジン千人将」

後方から、王都兵に守られながら安全なルートで登ってきたメイカクが、静かに歩み寄ってきた。彼の手には、まだ新しい兵站の指示書が握られている。

「オッサンの防寒具と荷車のオモチャがなけりゃ、俺たちも今頃、谷底で雪だるまになってたぜ。助かった」

「フッ……。前線がこれほど鮮やかに機能するならば、後方の兵站を束ねる者として、これほどやりがいのある軍勢はない。……私の『完璧な準備』を、貴公らは『完璧な勝利』で応えてくれた」

メイカクの言葉に、ジンは笑って頷き、そして立ち上がった。

彼の視線の先、黒鋼連峰の最も奥深く、白銀の世界の果てにそびえ立つ、北国の巨大な本拠地『氷雪城』の威容がかすかに見えていた。

「さあて、準備運動はここまでだ。次はいよいよ、あのデカい城に引きこもってる十万の本隊との正面衝突だぜ」

ジンは小刀を抜き、遥か彼方の氷雪城に向けて真っ直ぐに突きつけた。

「行こうぜ、オッサン。俺たちの覇道で、あの雪山をドロドロに溶かし尽くしてやる」

最強の頭脳と泥臭い生存本能を結集した黎州軍の軍靴が、北国の絶対防衛圏を越え、最終決戦の地へ向けてさらに重い足音を響かせ始めた。

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