表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/111

第36話 凍てつく黒鋼と、完璧なる熱源

西国の中央部から北へ向かうにつれ、風景は劇的な変化を遂げていった。

見渡す限りの荒野と泥沼は次第に姿を消し、代わりに大地を覆い始めたのは、どこまでも白く冷たい雪と氷であった。

黎州と北国を隔てる巨大な壁、黒鋼連峰。

その山麓に広がる針葉樹の森と雪原は、温暖な気候に慣れた黎州の兵士たちにとって、立っているだけで体温と体力を奪っていく文字通りの「死地」である。

しかし、西国の北部奪還に向けて進軍する五万の黎州軍の行軍速度は、雪に足を取られるどころか、驚異的な速さを保ち続けていた。

「おいおい、嘘だろ……。雪中行軍ってのはもっと地獄みたいに苦しいもんじゃなかったのか?」

分厚い熊の毛皮を着込んだゴウが、雪を踏み締めながら拍子抜けしたような声を上げた。

「親父から配給されたこの毛皮の外套と、長靴の裏に取り付けられた雪を掴む鉄の爪……。これのおかげで、泥濘みを歩くよりも遥かに足場が安定している。それに」

ガクが、自らの腰に下げられた小さな金属製の筒を叩いた。

「この携帯用の小さな火鉢と、定期的に配られる干し肉と木の実の練り物。これを腹に入れるだけで、体の内側から驚くほど熱が湧いてくる」

彼らの装備は、かつての黎州軍には存在しなかった、完全なる「寒冷地特化」の代物であった。

「ヘッ、感心してる場合かよ。全部メイカクのオッサンの差し金だぜ」

ジンは雪の上を軽快に歩きながら、後方に続く果てしない長さの輜重しちょう部隊の列を親指で指し示した。

「オッサンは、この数日で西国の商人たちを総動員して、ありったけの獣の皮と防寒具を買い占めやがった。さらに、兵士一人が雪山で一日動くのに必要な飯の量を計算し尽くして、一番効率よく熱に変わる特製の携行食を作り上げたんだ。……おまけに、雪道で馬車が立ち往生しねえように、荷車の車輪の幅まで全部統一してやがる」

ジンの言葉に、ガクもゴウも言葉を失った。

戦場において、最大の敵は敵兵ではない。「飢え」と「寒さ」である。特に雪中行軍においては、寒さによる凍傷や士気の低下が軍を崩壊させる最大の要因となる。

しかしメイカクは、持ち前の恐るべき内政力と計算能力をフル稼働させ、五万という大軍の兵站を「完璧」に組み上げてしまったのだ。

「……すげえ。俺たち泥犬が、一切の寒さもひもじさも感じずに、ただ喧嘩のことだけを考えて前線に進めるなんてな」

ゴウが感嘆の息を白く吐き出す。

ジンはニヤリと笑った。

「ああ。オッサンが後ろで『完璧な熱源』を作ってくれてるおかげで、俺たちは万全の状態で氷のバケモノどもに噛みつける。……さあて、そろそろお出ましだぜ」

ジンの視線の先、雪原を抜けた小高い丘の上に、異様な建造物が姿を現した。

それは、石や木で造られた砦ではない。

極寒の気候を利用し、水をかけて凍らせた雪と氷のブロックを積み上げて造られた、巨大な「氷の要塞」であった。太陽の光を反射して青白く輝くその城壁は、弓矢を弾き、火矢程度では決して溶けることのない、北国特有の絶対防壁である。

要塞の城壁の上には、分厚い白熊の毛皮を被り、巨大な戦斧を持った北国の兵士たちがズラリと並び、眼下に迫る黎州軍を見下ろしていた。

「南の弱虫どもが、わざわざ雪に埋もれにやって来たか!」

要塞の指揮官らしき巨漢の男が、城壁の上から嘲笑うように叫んだ。

「貴様らの細い剣や槍など、我が北国の誇る『氷の城壁』の前には小枝も同然! この氷点下の地獄で、指先から順に凍りつきながら無様に死んでいくがいい!」

その挑発を聞きながら、陣幕の中でシオンが分厚い毛布に包まりながらゲホゲホと咳き込んだ。

「……氷の城壁、ですか。確かに、まともに攻城兵器を使おうにも、この雪と凍土では重い破城槌はじょうついを前線まで運ぶのは不可能です。彼らは地形と気候を自らの鎧としていますね」

「それに、あれを見ろ」

杖をついたクロウが、要塞の開かれた巨大な氷の門を指し示した。

門の奥から、低く唸るような地鳴りが響いてくる。

姿を現したのは、馬ではない。身の丈ほどもある巨大な「白い狼」に跨った、北国最強の機動力と突破力を誇る『白狼騎兵はくろうきへい』の部隊、およそ三千であった。

「雪に足を取られる馬とは違い、あの巨大な狼は雪原を平地以上の速度で駆け回る。氷の城壁に気を取られて歩兵を前進させれば、側面に回り込まれて一瞬で陣形を食い破られるだろうな。……実に理にかなった、美しい布陣だ」

クロウは猟奇的な笑みを浮かべながら、敵の陣容を分析した。

「ジン千人将。まともにぶつかれば、被害は甚大です。後退して雪解けを待つか、あるいは……」

シオンが冷酷な策を提案しようとした瞬間、ジンは雪の上に胡座をかき、楽しそうに笑い声を上げた。

「ハハハッ! シオン、クロウ。俺たち泥犬が、綺麗なお城を正面からドンドン叩くようなお上品な喧嘩をすると思うか?」

ジンは小刀を抜き、足元の雪に大まかな地形の図を描き始めた。

「相手は雪と氷の専門家だ。だったら、俺たちは俺たちの専門分野で戦えばいい。……アイツらは、雪の上を滑るように走るのが得意らしいが、足元が『ただの泥沼』だったらどうなると思う?」

その言葉に、シオンとクロウの双頭の悪魔の目が、同時に妖しく光った。

「……なるほど。そういうことですか。ゲホッ」

「クックック。相変わらず、貴様の発想は悪魔よりもタチが悪い」

ジンはガクとゴウを呼び寄せた。

「ゴウ、お前は特攻隊を率いて、あの白狼騎兵の正面に立て。ただし、絶対に深追いはするな。適当に暴れたら、陣形を崩したフリをして谷底の方へ逃げろ」

「オラァッ! 逃げるのは気に食わねえが、大暴れするのは任せとけ!」

「ガク。お前は俺たちの大事な『おもちゃ』を、敵に見えねえように谷の両側の崖上に配置しろ。シオンの指示通りに動かすんだ」

「了解した。寸分の狂いもなく配置する」

ジンの野犬の如き嗅覚と、双頭の悪魔の緻密な計算が噛み合い、北国の氷の要塞を突き崩すための、極めて悪辣な罠が構築されていく。

「さあて、雪国育ちのお坊ちゃんたちに、南国の泥の味を教えてやろうぜ!」

「突撃ィィィッ!! 南の弱虫どもを食い殺せェッ!!」

北国の指揮官の号令と共に、要塞の門から三千の白狼騎兵が一斉に雪原へと解き放たれた。

真っ白な雪を蹴り立て、風のような速度で迫り来る白き狼の群れ。彼らは黎州軍の先陣に向かって、鋭い牙と戦斧を振りかざして殺到した。

「来やがったなワンコロども! オラァッ!!」

最前線に立っていたゴウが、巨大な鉄砕棒をフルスイングし、先頭の白狼ごと騎兵を頭から粉砕した。

凄まじい血しぶきが真っ白な雪原を赤く染める。

「ひるむな! 相手は足場の悪い雪の中だ! 動きの鈍い歩兵など、我らの狼の機動力で包囲して切り刻め!」

白狼騎兵たちはゴウの武力に驚愕しつつも、雪原を滑るような機動力で左右に散開し、黎州軍の陣形を包み込もうと動いた。

「チッ、すばしっこい連中だ! 野郎ども、親父の命令通りだ! 退けェッ!!」

ゴウはわざと慌てた様子で叫び、配下の部隊を率いて、要塞から少し離れたなだらかな谷底の地形へと後退を始めた。

「見ろ! 敵の前衛が崩れたぞ! 逃がすな、追えェッ!」

完全に勢いに乗った北国の白狼騎兵たちは、勝利を確信して谷底へと深追いしていく。

彼らが谷の底に完全に誘い込まれた、まさにその時。

崖の上から、シオンの病的ながらも冷酷な声が響き渡った。

「……そこです。放ちなさい」

その合図と共に、谷の両側の崖上に潜んでいたガクの部隊が、一斉に「それ」の覆いを取り払った。

それは、ジンたちが炎州の南国で接収し、大量に持ち帰っていた巨大な『投石機』であった。

だが、その投石機に装填されていたのは、岩ではない。

「撃てェッ!!」

ガクの号令で、無数の巨大な陶器の壺が空高く放物線を描き、谷底を走る白狼騎兵たちの頭上へと降り注いだ。

パリンッ! ガシャンッ! と音を立てて壺が砕け散り、中から粘り気のある黒い液体が周囲の雪原に撒き散らされる。

「な、なんだこれは!? 油か!?」

騎兵たちが動揺した瞬間、崖の上から火矢が一斉に放たれた。

ボワァァァァァッ!!

撒き散らされた油に火が点き、雪原の中央に巨大な炎の壁が立ち上がった。

しかし、シオンたちの狙いは、騎兵を直接焼き殺すことではなかった。

「ゲホッ……さあ、ここからが泥犬の戦術です。クロウ殿、仕上げを」

「ええ。地形が変わるぞ」

炎の熱と、油の燃焼。

谷底を覆っていた分厚い雪と氷が、急激な温度変化によって一気に溶け始めたのである。

「なっ……足元が!?」

白狼騎兵たちが気づいた時には、すでに遅かった。

真っ白で硬かった雪原は、炎の熱と溶けた大量の雪水によって、瞬く間に「底なしの巨大な泥沼」へと変貌していた。

「キャウンッ!?」

機動力が武器であった白狼たちの足が、ズブズブと重い泥の中に沈み込んでいく。雪を掴むことはできても、粘り気のある泥沼の中では、狼の脚力は完全に無力化されてしまう。

「馬鹿な……雪原が、ただの泥の海に……!」

身動きが取れず、パニックに陥る北国の騎兵たち。

「クックック……。雪国の戦士よ、貴様らは氷の上での戦い方は知っていても、足元が泥に沈んだ時の絶望は知るまい」

崖の上から、クロウが杖をつきながら悪魔のように嗤う。

そして、その泥沼の向こう側から、ドス黒い殺気を放つ黎州の兵士たちが、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「ハハハッ! お帰りの時間はとっくに過ぎてるぜ!」

ジンは、メイカクが用意した寒冷地仕様の長靴……泥水すらも防ぐ完璧な防水と防寒を備えた装備で、泥沼をものともせずに歩を進めていく。

「雪が溶けりゃ、ただの泥だ。俺たちはな、泥の中を這いつくばって殺し合うことに関しては、天下無双の専門家なんだよ」

「撃てェッ!!」

完全に機動力を奪われ、泥沼でもがく標的となった白狼騎兵たちに向け、黎州軍の無慈悲な矢の雨が降り注ぐ。

北国が誇る最強の機動部隊は、一度もその真価を発揮することなく、ジンの作り出した人工の泥沼の中で完全にすり潰されていった。

「……ば、馬鹿な……我らが白狼騎兵が、あのような下劣な罠で全滅だと……!?」

氷の要塞の城壁の上で、北国の指揮官は戦慄に顔を引きつらせた。

「ええい、構わん! 城門を固く閉ざせ! 騎兵が破れようとも、この絶対防壁である氷の城壁がある限り、奴らは一歩も中に入れん!」

指揮官が虚勢を張って叫ぶが、その耳に、不気味な地響きが届いた。

「おい、雪国の親玉。喧嘩の途中で引きこもってんじゃねえぞ」

要塞の正面、弓矢の届かないギリギリの距離。

そこに、ジンが数十台の巨大な荷車を横一列に並べて立っていた。

「……なんだ、あの荷車は。攻城兵器か? だが、あんな木組みの兵器でこの氷の壁が壊せるものか!」

指揮官が嘲笑う中、ジンはニヤリと笑い、自らの手で荷車にかけられていた巨大な幌を乱暴に引き剥がした。

そこに積まれていたのは、兵器ではない。

メイカクが兵站網を駆使して西国中から集め、一箇所に集積させていた『数万日分の薪と、大量の硫黄、そして燃焼用の油』であった。

「オッサンが用意してくれた、とびきり上等な熱源だ。……北国は寒いんだろ? 俺たちが、お前らのお城を芯からポカポカに暖めてやるよ」

ジンが右手を振り下ろすと同時に、後方から放たれた無数の火矢が、荷車の山に突き刺さった。

ドゴォォォォォォッ!!

硫黄と油を含んだ薪の山が、爆発的な勢いで引火し、要塞の目の前に「太陽が落ちてきたかのような」超高温の巨大な炎の竜巻を発生させた。

「ひ、ひぃぃぃッ! 熱い! なんだこの常軌を逸した炎は!?」

城壁の上にいた北国の兵士たちが、凄まじい熱波に耐えきれずに悲鳴を上げて後退する。

「お、恐れるな! 炎の熱など、分厚い氷の壁がすぐに遮断してくれる! 城壁は絶対に溶けはしない!」

指揮官が叫ぶが、彼の足元で、ピキッ……という不気味な音が響いた。

「……ゲホッ。物理的な破壊は不可能でも、熱による『融解と急激な温度変化による熱膨張』を利用すれば、氷の塊など脆いガラスと同じです」

遠くから、シオンが冷酷に呟く。

超高温の炎に炙られた氷の城壁は、表面から急激に溶け出し、さらにその内部の温度差による亀裂が、蜘蛛の巣のように城壁全体に走っていく。

メキメキメキッ……ドシャァァァァァァッ!!

北国が絶対の自信を持っていた『氷の城壁』は、ジンたちの放った圧倒的な熱量によって構造を破壊され、巨大な音を立てて無惨に崩れ落ちた。

城壁の崩落に巻き込まれ、北国の兵士たちが次々と雪の中に投げ出されていく。

「城壁が……崩れた……? あ、悪魔だ……あいつら、人間の戦い方じゃない……!」

指揮官が瓦礫の中で絶望の声を上げた時、もうもうと立ち込める水蒸気と煙の中から、巨大な鉄砕棒を持ったゴウや、竹竿を構えたガクを先頭とする、黎州の泥犬たちが雪崩れ込んできた。

「オラァァッ!! 氷が割れたぜ! 中の奴らを一匹残らず叩き出せェッ!!」

絶対防壁を失った要塞の内部は、もはや一方的な蹂躙劇であった。

ジンと双頭の悪魔が編み出した、環境そのものを破壊する異常な戦術。そしてそれを可能にした、メイカクの完璧な物資調達能力。

前線の狂気と、後方の完全な理性が噛み合った時、黎州軍は文字通り「止めることのできない怪物」と化していた。

西国北部の第一の要塞は、こうしてただの一日のうちに、完全に炎と泥の中に沈んだのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ