第35話 裸の野犬と、白銀に昇る新たな湯煙
西国北部討伐の軍議が解散した後、深夜の一夜城。
街の外れにジンが特別に造らせた、豊富な地下水を暴牙川の動力で汲み上げて沸かした巨大な大浴場。そこには、もうもうと立ち込める白い湯煙の中で、ただ二人きりで湯船に浸かるジンとメイカクの姿があった。
「ふあぁぁ……生き返るぜ。炎州の砂漠じゃ、まともに水浴びすらできなかったからな。やっぱり自分の縄張りの風呂が一番だ」
ジンは湯船の縁に頭を乗せ、手ぬぐいを顔にかけて深く息を吐き出した。
その隣で、メイカクもまた、かつての厳格な白銀の鎧を脱ぎ捨て、一人の裸の男として肩まで湯に浸かっていた。彼の引き締まった体には、先日の砦での死闘の末に刻まれた、無数の槍傷や打撲の痕が生々しく残っていた。
「……ジン千人将」
静かな湯の音だけが響く中、メイカクがぽつりと口を開いた。
「どうした、オッサン。湯が熱いか?」
「いや……。北国討伐の件だ。私は今、ひどく恐怖しているのだ」
その言葉に、ジンは顔にかけていた手ぬぐいを少しだけずらし、メイカクの横顔を見た。
彼の顔には、砦で見せたような狂気的な決死の覚悟とは違う、一人の将としての静かで深い苦悩が滲んでいた。
「恐怖、ねえ。あんな泥沼の絶望の中で、たった一人で俺たちの大軍に突っ込んできたアンタが、今さら北国の連中にビビってるってのか?」
「北国の氷雪の軍勢そのものが恐ろしいのではない。恐ろしいのは、私自身の無力さだ」
メイカクは、湯の中に沈んだ自分の掌を見つめた。
「私はこの西国で、己の兵法と采配を過信し、結果として一万の兵を死地に追いやり、この地を無用の混乱に陥れた。私は、戦場において全くの無能であったのだ。……今度の北国討伐という国家の存亡を懸けた戦いにおいて、また私が致命的な采配の誤りを犯し、貴公らの足を引っ張り、無用な血を流させるのではないかと……そう思うと、震えが止まらんのだ」
かつては決して己の非を認めず、全ての失敗を他人のせいにして生きてきた男が、今、赤裸々に自らの弱さを吐露している。それは彼が真の武人として、他者の命を預かる責任の重さを誰よりも深く理解した証拠であった。
ジンはゆっくりと身を起こし、湯をざばりと掻き分けてメイカクの正面に向き直った。
「オッサン。アンタ、戦ってのは一人で全てを完璧にこなさなきゃならねえもんって、まだ勘違いしてんじゃねえのか」
「勘違い……だと?」
「俺はな、剣の腕じゃそんじょそこらの正規兵にも負けるし、兵法なんて難しい本は一冊も読んだことがねえ。俺ができるのは、泥水を啜ってでも生き残るためのあくどい生存本能と、金の計算だけだ」
ジンは自らの濡れた胸を親指で指差した。
「だからこそ、俺にはシオンやクロウの頭脳が必要だし、ガクとゴウの武力が必要なんだ。足りねえものは、持ってる奴に任せればいい。一人で完璧な戦をしようとするから、足元を掬われるんだよ」
ジンはニヤリと笑い、湯船の縁を軽く叩いた。
「アンタは、戦場での泥臭い殺し合いや、野犬みたいなゲリラ戦には向いてねえ。それは俺たちがやる。だが、アンタには、俺たちには絶対に真似できねえバケモノじみた才能があるじゃねえか」
「私の……才能?」
「この数日で、アンタがこの西国に敷いた政策を見りゃあ一目瞭然だ。俺がその日暮らしでばら撒いた金を、アンタは数十年先まで街が豊かになるような立派な国の仕組みに変えちまった。……俺は、金で人の心は買えるが、それを何十年も続けさせるには、アンタみたいな秩序を創る力が必要なんだよ」
ジンの言葉は、メイカクの心の最も深い部分、彼が幼い頃から学び、誇りとしてきた『経世済民(世を治め、民を救うこと)』の精神を真っ直ぐに肯定するものであった。
「教えてくれよ、オッサン。アンタはどうやって、あんな複雑な税の仕組みや、数万人をまとめる戸籍の管理を頭の中で組み立ててるんだ?」
ジンが身を乗り出して尋ねると、メイカクは少し驚いたように瞬きをし、やがて静かに微笑んだ。
「……特別な魔法を使っているわけではない。二百年続く王都の歴史の中で、数多の賢人たちが血の滲むような思いで築き上げてきた失敗と成功の記録。私はただ、それを頭に叩き込み、この西国の現状に合わせて組み直しているだけだ。
ジン、貴公のやり方は確かに爆発的な力を持つが、それは個人のカリスマに依存しすぎている。貴公が倒れれば、明日にもこの街は崩壊するだろう。私は、それを『誰が治めても回る仕組み』に変えているのだ」
「なるほどな。個人の力じゃなくて、仕組みの力か。……すげえな、やっぱりアンタの頭ん中は、本物の宝の山だ」
ジンは心底感心したように頷いた。
「俺たちが前線で戦って、アンタがその後ろで街を豊かにし、兵站を盤石にする。俺たちが泥を被り、アンタがその泥から黄金の稲を育てる。……お互いの背中を任せ合えば、北国の氷のバケモノだろうが、ソウガの親分だろうが、絶対に負けねえ。そうじゃねえか?」
ジンの屈託のない、それでいて絶対的な確信に満ちた瞳を見つめ返し、メイカクの胸の内にあった暗い重圧が、湯煙と共にふっと溶けて消えていった。
「……フッ。下賎な草売りから、国の在り方と将の器を教えられる日が来ようとはな」
メイカクは静かに笑い、そして、自らの掌でお湯を掬い上げ、顔を洗った。
「ジン千人将。貴公のその泥臭い生存本能……いや、全てを飲み込む覇道の力。間近で存分に見せてもらおう。私はその後ろで、貴公らがどれほど暴れようとも決して揺るがぬ、絶対的な兵站と内政の壁を築き上げてみせる。……この命と、武人の誇りに懸けて」
「ああ、頼りにしてるぜ、筆頭家老殿」
二人の裸の男たちは、互いの欠点を補い、互いの長所を認め合うことで、かつての陰湿な敵対関係から、黎州という国を根底から支える最強の両輪へと完全に進化を遂げたのである。
そして、翌朝。
朝霧が立ち込める西国の荒野に、五万を超える巨大な軍勢が整然と並んでいた。
その先頭には、見事な馬に跨った二人の男の姿があった。
一人は、麻の単衣に粗末な胴当てを纏い、腰に小刀を差した千人将ジン。
もう一人は、泥汚れを落とし、無駄を削ぎ落とした実戦用の白銀の甲冑を纏う筆頭家老メイカク。
「皆の者! よく聞け!」
ジンの腹の底から湧き上がるような大音声が、荒野の冷たい空気を震わせた。
「北国の氷のバケモノどもが、俺たちの庭で勝手に雪遊びをしてやがる! 俺たちの稼いだ飯と、俺たちの作った街を守るため、あの冷たい連中を黒鋼連峰の向こう側まで蹴り飛ばしてやるぞ!!」
「応ォォォォッ!!」
数万の兵士と民兵たちの怒号が、大地を大きく揺るがした。
メイカクは自らの白馬をジンの隣に並べ、長剣を抜き放って天高く掲げた。
「我が黎州の誇り、そしてこの西国の熱き血潮、北の雪原に深々と刻み込んでみせよ! 全軍、前進せよ!!」
白銀の名将と、泥にまみれた野犬。
二つの旗印が同時に振られ、巨大な軍勢が地鳴りを上げて北へと進軍を開始した。
黎州の未来を決定づける西国北部討伐の過酷な戦いが、今、ここに幕を開けたのである。




