第34話 白銀の経世済民と、北に蠢く黒き影
黎州千人将ジンが、南の大国である炎州から直属の精鋭を率いて西国へ帰還したという報せは、瞬く間に暴牙川流域を駆け巡った。
数万に膨れ上がっていた西国の暴動は、ジンの姿を見ただけで嘘のように鎮火した。
彼らにとってジンは、自分たちを泥水の中から救い上げ、生きるための仕事と飯を与えてくれた絶対的な恩人であり、そのジンが「矛を収めろ」と命じた以上、それに逆らう理由は一つもなかったからである。
一夜城の巨大な城門は再び大きく開かれ、ジン隊と、かつての敵であったメイカクの軍勢は、共に街の中へと迎え入れられた。
こうして西国中央部の混乱は、一滴の血も流れることなく、ジンの圧倒的なカリスマによって速やかに平定されたのである。
しかし、街に平和が戻ったとはいえ、火種が完全に消え去ったわけではなかった。
「てめえら、いい加減にしやがれ! 俺たちの蔵から、勝手に上等な塩と麦を持ち出そうってのか!」
一夜城の巨大な兵糧庫の前で、巨大な鉄砕棒を肩に担いだゴウが、鋭い牙を剥き出しにして吠えていた。彼の背後には、黒角衆のバズウをはじめとする、西国の荒くれ者たちが殺気立って並んでいる。
彼らと対峙しているのは、メイカクと共に砦から生還した王都の正規軍の将校たちであった。
「無礼な! 我々は黎州王都の正規軍であるぞ! これからこの街の防衛を担う我々が、下民と同じ粗末な稗や粟を食えるか! 正当な権利として、上質な兵糧を接収しているだけだ!」
将校が声を荒らげるが、ゴウの額には太い青筋が浮かび上がっていた。
「寝言は寝て言え! ジン親父の街じゃあな、身分がどうだろうが、汗水流して働いた奴が一番美味い飯を食うって決まってんだよ! 戦から逃げ出して砦で震えてただけの負け犬どもが、偉そうに仕切りやがって!」
「き、貴様ら……! やはり野蛮な獣どもめ、王都の剣の恐ろしさを教えてやる!」
将校が腰の剣に手をかけ、ゴウが鉄砕棒を振り上げようとした、まさに一触即発のその瞬間であった。
「そこまでだ。剣を引け、バラン」
静かだが、逆らうことの許されない絶対的な威厳を持った声が、兵糧庫の前に響いた。
群衆が道を開けた先から歩み出てきたのは、筆頭家老メイカクであった。
彼はかつてのような、装飾過多で目を刺すような白銀の甲冑は着ていなかった。無駄な装飾を削ぎ落とした実戦用の黒い胴当てに、簡素な陣羽織を羽織っただけの姿である。しかし、その背筋は刃のように伸び、以前よりも遥かに巨大で底知れない武将のオーラを纏っていた。
「メ、メイカク様……! しかし、この無作法な下民どもが我々を愚弄し……」
「黙れと言っているのだ」
メイカクは冷徹な視線で、自らの部下である将校を睨みつけた。
「我々は西国の統治に失敗し、命からがら逃げ惑った敗軍である。対して彼らは、己の力でこの街を守り抜いた。この地においては、彼らの掟こそが法であり、我々は庇護を受けた客将に過ぎない。……泥を啜る覚悟もない者が、王都の威光を傘に着て飯を強請るなど、見苦しいにも程がある」
メイカクの容赦ない叱責に、将校は顔を真っ赤にして俯き、後退った。
それを見たゴウは、鼻を鳴らして鉄砕棒を下ろした。
「……フン。大将がまともで助かったぜ。分かったら、お前らも大人しく列に並んで粥の配給を……」
「だが、ゴウ殿。一つだけ言わせていただきたい」
メイカクは歩み寄り、ゴウの背後にある巨大な兵糧庫を指差した。
「この蔵は、風通しが悪く、さらに暴牙川からの湿気が直接流れ込む構造になっている。このまま上質な塩と麦をここに放置しておけば、十日もせずに全て腐り落ちるだろう」
「なっ……」
ゴウとバズウが顔を見合わせた。確かに、最近蔵の奥から妙なカビの臭いがし始めていたところだった。
「私の部下たちは、己の特権で兵糧を奪おうとしたのではない。兵法と兵站の知識に基づき、最も湿気に弱い物資から優先して、高台にある第二の蔵へ移送しようとしていたのだ。……彼らなりに、この街の防衛と管理のために、己の職務を果たそうとしたまでのこと」
メイカクは静かに言葉を紡ぎ、そして、ゴウに向かって小さく頭を下げた。
「ゴウ殿。王都の兵の労働力を使えば、この移送作業は半日で終わる。……その労働の対価として、彼らに今日の配給分の上等な麦を、許可してはいただけないだろうか。働かざる者食うべからず、それがこの街の掟であろう」
完璧な論理、相手の掟の尊重、そして部下の名誉を守りつつ実利を取る交渉術。
ゴウは口をパクパクと開閉させ、やがて頭をガシガシと掻きむしった。
「お、おう……! そういうことなら、最初からそう言えってんだ! ……分かったよ、荷運びの仕事を引き受けるってんなら、仕事終わった後に上等な麦と塩漬け肉をたっぷり食わせてやる! いいな、バズウ!」
「応! 運び終わるまでは見張らせてもらうがな!」
先程まで殺し合い寸前だった空気が、メイカクのわずかな言葉と采配によって、あっという間に「協力して荷運びをする」という前向きな活気へと変わってしまった。
その一部始終を、少し離れた建物の二階から見下ろしていたジンは、感嘆の息を漏らした。
「……すげえな。あのゴウの馬鹿を、理屈と度量で完全に丸め込みやがった」
「クックック……。恐ろしい男ですよ、あれは」
ジンの背後で、杖をついたクロウが不気味な笑い声を上げた。
彼の隣では、シオンが毛布に包まりながら、静かに咳き込んでいる。
「名門の誇りという見栄を捨て、泥にまみれる覚悟を決めた秀才が、これほどまでに厄介な化け物に化けるとは。……ゲホッ。ジン殿、我々はとんでもない猛獣を味方に引き入れてしまったかもしれませんね」
シオンとクロウの『双頭の悪魔』が戦慄するのも無理はなかった。
メイカクが真に恐ろしいのは、剣の腕でも、軍を指揮する力でもない。国家という巨大な機構を運営する、その卓越した『政治力と内政の才能』であった。
ジンがこの西国で行ってきた政策は「黄金と塩をばら撒き、労働力と忠誠を買う」という、単純だが爆発力のあるものであった。しかし、規模が数万人単位に膨れ上がった今、その粗削りなやり方では、いずれ物資の枯渇やインフレーションによる経済の破綻を招くことは明白だった。
メイカクは、ジンが作った「働けば食える」という活気ある自由経済の根幹を一切否定せず、それを尊重した上で、次々と信じられないほど精密で効果的な政策を発布し始めたのである。
一、西国全土における度量衡(長さや重さの単位)の完全統一。
二、王都正規軍の権威を利用した、暴牙川および主要街道の絶対的な安全通行保障。
三、関所での不当な通行料の撤廃と、代わりに薄く広く徴収する公平な間接税の導入。
四、難民の戸籍管理と、技術に応じた適材適所の職業斡旋。
ジンが本能で掘り当てた『経済の原石』を、メイカクが二百年の歴史を持つ王都の『洗練された行政システム』で完璧に磨き上げていく。
結果として、西国の経済は破綻するどころか、これまでの何倍もの利益を生み出し始め、王都にすら匹敵する巨大な物流の心臓部へと変貌を遂げつつあった。
「……俺は喧嘩のやり方と、金の使い方しか知らねえ。だが、あのオッサンは『国の動かし方』を知ってやがる」
ジンは、広場で的確な指示を飛ばすメイカクの姿を見つめながら、ニヤリと笑った。
「これで、内政の不安は完全に消えた。俺たちは、俺たちの得意な仕事……外の喧嘩にだけ集中できるってわけだ」
その夜。
一夜城の中枢にある巨大な作戦会議室に、ジン、メイカク、シオン、クロウ、ガク、ゴウといった、黎州の誇る最高幹部たちが一堂に会していた。
部屋の中央には、西国全土から北国へと続く広大な地形図が広げられている。
「西国中央部から暴牙川の河口にかけては、メイカクのオッサンのおかげで完璧に盤石になった。問題は、その先だ」
ジンが地図の北側、黒々と塗りつぶされた領域を小刀の先で叩いた。
「ガク、状況はどうなってる」
ジンの問いに、無表情なガクが一歩前に出て、長い竹竿で地図の一点を指し示した。
「西国の北部。巨大な山脈である『黒鋼連峰』を越えた先にある氷雪の地……。我々が内乱で足止めを食っている間に、その北部一帯は、すでに『北国』の正規軍によって完全に占拠されている」
その言葉に、会議室の空気が一段と冷え込んだ。
黎州の北に位置する強大な軍事国家、北国。
一年を通じて雪と氷に閉ざされた過酷な環境で鍛え上げられた彼らの軍勢は、分厚い毛皮と重装甲に身を包み、寒冷地での戦闘において他国の追随を許さない圧倒的な強さを誇っていた。
彼らは、黎州の西国がメイカクの失態によって内乱状態にあるという隙を突き、怒涛の勢いで国境を越え、西国の北半分を無血で切り取り、強固な要塞線を構築してしまったのだ。
「ゲホッ……火事場泥棒にしては、ずいぶんと手回しがいい。恐らく、以前から我々の領土を虎視眈々と狙っていたのでしょうね」
シオンが青白い顔で地図を見つめる。
「相手の規模は?」とジンが問う。
「第一陣として確認されているだけで、およそ三万。氷の城壁と呼ばれる重装歩兵の密集陣形と、雪原を平地のように駆け抜ける白狼騎兵の混成部隊だ。……さらにその後方、北国の本国には、十万を超える本軍が控えていると推測される」
ガクの冷静な報告に、ゴウが「チッ、面倒くせえ連中が出てきやがったな」と舌打ちをした。
「……ジン千人将」
腕を組んで黙っていたメイカクが、静かに口を開いた。
「西国を『再平定した』とソウガ様に報告するには、中央部を抑えただけでは不十分だ。我々の領土を不当に占拠しているあの北国の軍勢を、黒鋼連峰の向こう側まで完全に叩き出さねば、真の平定とは言えん」
「ああ、分かってる」
ジンは地図から顔を上げ、歴戦の猛者たちを見渡した。
「ここから先は、内輪揉めじゃねえ。国と国との、文字通りの生存競争だ。……相手は雪と氷のバケモノだが、こっちには双頭の悪魔と、白銀の頭脳が揃ってる」
ジンは自らの小刀を、地図上の北国の軍勢が布陣する要塞のど真ん中に、力強く突き立てた。
「これより、西国北部討伐の軍議を始める。……あのふざけた氷の城を、俺たち泥犬のやり方でドロドロに溶かしてやるぜ」
南の炎州で過酷な戦いを生き抜き、かつての宿敵を最高の内政官として迎え入れたジンの軍勢は、次なる巨大な壁である『北国』との凄惨な戦いへ向けて、ついにその重い腰を上げたのである。




