第33話 泥中の白銀と、交差する野犬の誓い
黎州西国の国境に建つ古びた石砦。その窓のない薄暗い広間に、重く、そしてどこまでも静かな声が響き渡った。
「皆の者。よくぞ、最後まで私という愚かな将を見捨てず、従ってくれた」
砦に残された数百の王都兵、そして数名の武将たちは、広間の中央に立つ男の姿を見て、信じられないというように息を呑んだ。
つい数時間前まで、援軍の遅れに絶望し、死の恐怖に狂って泣き叫んでいた筆頭家老メイカク。
しかし今、彼らの目の前に立つその男の顔からは、一切の恐怖も、焦りも、名門の鼻持ちならない傲慢さも、完全に消え失せていた。
汚れを拭い去り、泥にまみれた白銀の甲冑を正しく身に纏ったメイカクは、かつて王都で大軍の指揮を執っていた頃よりも遥かに巨大で、そして恐ろしいほどの武人の威厳を放っていたのだ。
「私は今まで、兵法という卓上の空論を知ってはいたが、本当の戦というものを知らなかった。己の手を汚さず、安全な王都から現場の泥を嘲笑い、下民と見下した相手に足元を掬われ、そして無様に逃げ出した」
メイカクは、静かに己の腰にある佩刀の柄を撫でた。
「あのまま援軍を待ち、怯えながら餓死するか、あるいはソウガ様の放った死神に首を刎ねられるか……それが、臆病者であった私に相応しい末路であったのだろう。だが、私は黎州の筆頭家老。二百年の歴史を持つ武門の長である。この血に刻まれた誇りだけは、泥の中に捨てるわけにはいかん」
メイカクは、居並ぶ部下たちを真っ直ぐに見据えた。
「三日後。我々はこの砦の城門を開き、外を囲む西国の軍勢に打って出る」
その言葉に、広間は水を打ったように静まり返った。
外を包囲しているのは、ジンが育て上げた数万の西国の民兵や、異民族である黒角衆の戦士たちである。対して砦に残っているのは、飢餓でまともに剣を振るう力も残っていない数百の兵のみ。
打って出るということは、死中に活を見出す戦術ですらなく、ただの完全なる玉砕を意味していた。
しかし、メイカクの澄み切った決意の眼差しを前にして、反対の声を上げる者は一人もいなかった。
「勝つための戦ではない。ましてや、ソウガ様への言い訳を作るための戦でもない」
メイカクはゆっくりと刀を抜き、その冷たい刃を自らの目の高さに掲げた。
「黎州の武人が、いかにして死地に立ち、いかにして己の意地を貫き通したか。その生き様を歴史の片隅に刻み込むための、最後の行軍である。……すまぬが皆の命、私の意地のために置いていってくれ」
メイカクが深く頭を下げると、部下の武将の一人が、ボロボロと涙を流しながら床に額を擦りつけた。
「メイカク様……。そのお言葉が聞けただけで、我ら王都の武将、本望でございます。我々の命、喜んでメイカク様の誇りのための盾といたしましょう」
「応! 白銀の鎧の輝き、下民どもに骨の髄まで思い知らせてやりましょうぞ!」
残された兵士たちも次々と立ち上がり、乾いた喉から枯れた雄叫びを上げた。
死への恐怖に支配されていた砦の空気は、一つの純粋な武人の覚悟によって、研ぎ澄まされた刃のような決死の闘志へと完全に塗り替えられたのである。
そこからの三日間、砦の兵士たちは誰一人として絶望の言葉を口にしなかった。
残されたわずかな水で互いの顔を洗い、折れた槍の先を研ぎ直し、ボロボロになった鎧の紐を固く結び直した。腹にはもはや何も入れるものはなかったが、彼らの眼光は鋭く、その背中には死を受け入れた者だけが持つ異様な静けさが漂っていた。
そして、運命の三日目の早朝。
西国の荒野を冷たい風が吹き抜ける中、砦の巨大な木門が、重々しい音を立てて開け放たれた。
「……出陣である」
白馬に跨ったメイカクを先頭に、数百の決死隊が砦の外へと歩を進めた。
彼らを待ち受けていたのは、地平線を埋め尽くさんばかりの、西国の民兵たちの巨大な包囲網であった。
「オイオイ、とうとう腹を空かせて出てきやがったぜ!」
「王都のヒョロガリどもめ! ジン親父の街を荒らした落とし前、きっちり命で払ってもらうぞ!」
鍬やツルハシ、あるいは奪い取った槍を構えた西国の暴徒たちが、怒号を上げながら一斉に砦へと殺到してくる。
それは、陣形も兵法も存在しない、圧倒的な数の暴力の津波であった。以前のメイカクであれば、この秩序のない下民の突撃を見ただけでパニックに陥り、逃げ出していただろう。
だが、今の彼は違った。
「黎州筆頭家老、メイカク! 尋常に勝負せよ!」
メイカクは自ら白馬の腹を蹴り、敵の大群のど真ん中へと単騎で突撃した。
「なっ、大将がいきなり突っ込んできたぞ! 殺せェッ!」
群がってくる民兵たちの槍を、メイカクは紙一重で躱し、手にした長剣で次々と敵の喉元を切り裂いていく。
「我に続けェッ!!」
メイカクの獅子奮迅の戦いぶりに鼓舞され、残された王都の兵士たちも狂気のような雄叫びを上げて敵陣に突入した。
凄惨な死闘が始まった。
腹を空かせた数百の正規軍が、数万の民兵に包囲されながらも、一歩も引かずに剣を振るう。
メイカクの白銀の甲冑には、次々と敵の返り血が降りかかり、美しい装飾は泥と血で汚れていく。白馬は敵の槍を腹に受けて倒れ、メイカクは泥の地面に投げ出された。
それでも彼は立ち上がり、兜を脱ぎ捨てて、自らの足で泥を踏み締めながら剣を振るい続けた。
「死ねェッ! 白銀の野郎ォッ!」
巨漢の黒角衆が振り下ろした巨大な棍棒を、メイカクは折れかけた剣で受け止める。凄まじい衝撃に腕の骨が軋み、口から鮮血が飛び散った。
「……フッ、ハハハハハッ!」
圧倒的な絶望の戦況、全身を襲う激痛と疲労。なぶり殺しにされるのは火を見るよりも明らかであった。
しかし、血まみれになって泥の中で戦うメイカクの表情は、どこまでも晴れやかであった。
策を弄し、他者を蹴落とし、保身に走っていた頃の暗い執着はそこにはない。ただ己の命を燃やし尽くし、目の前の敵と真っ向から殺し合う、武人としての原初の喜びが彼の魂を満たしていたのだ。
「私は……私は生きて戦っている! 泥にまみれ、血を流し、今この瞬間、私はまごうことなき黎州の武将である!!」
狂ったように笑いながら敵を斬り伏せるメイカク。
だが、どれほど個人の意地を貫こうとも、圧倒的な数の暴力の前に戦局が覆ることはない。
彼の背中を守っていた部下たちは、西国の民兵たちの容赦ない投石と槍の嵐の前に、一人、また一人と泥の中に沈んでいく。
ついにはメイカク自身も太ももに槍を受け、片膝を泥に突いた。
「ここまでか……」
四方八方を無数の敵に囲まれ、彼らに殺意の籠もった刃を向けられながら、メイカクは静かに目を閉じた。
名門の長としての虚栄を捨て、一人の武人として死ねる。それに一片の悔いもなかった。
(さらばだ、黎州よ。ソウガ様、そしてジンよ……我が意地、少しでも貴様らの覇道に届くなら……)
西国の民兵たちが、メイカクの首を狙って一斉に飛びかかろうとした、まさにその時である。
ドゴォォォォォンッ!!
大地を揺るがす凄まじい爆発音が、西国の荒野に轟き渡った。
「な、なんだァ!?」
メイカクに群がっていた民兵たちが、悲鳴を上げて一斉に後退する。
メイカクが目を見開くと、砦から少し離れた西の丘陵地帯から、天を焦がすような巨大な土煙が巻き上がっていた。
そして、その土煙を突き破り、地鳴りのような足音と共に、一つの巨大な軍勢が戦場へと雪崩れ込んできたのである。
「どけェッ! そこは俺の獲物だァァッ!」
先陣を切って突入してきたのは、巨大な鉄砕棒を風車のように振り回す、上半身裸の荒くれ者、ゴウであった。
彼の後方からは、規則正しい陣形を組んだ歩兵部隊が、冷たい鋼の輝きを放つ機械弓『剛機弓』を一斉に構え、空を覆い尽くすほどの矢の雨を放っている。
さらにその後ろからは、砂漠の戦いで接収した重装戦駱駝に乗った異形の騎兵部隊が、圧倒的な質量で西国の民兵たちの包囲網を蹴散らしていった。
掲げられている旗印は、ソウガの黎州正規軍の旗ではない。
泥と血にまみれた、一匹の牙を剥く『野犬』の紋章。
「……あの旗は……」
片膝をついたメイカクの目が、信じられないものを見たように見開かれた。
軍勢の中央、最も巨大な駱駝の背に跨り、麻の単衣姿で悠然と戦場を見下ろしている男。
彼が右手を高く挙げると、荒れ狂っていた剛機弓の掃射がピタリと止まり、戦場に異様な静寂が訪れた。
「そこまでだ!! 喧嘩はお終いにして、武器を引けェッ!!」
腹の底に響くような、ジンの大音声が戦場に轟いた。
その声を聞いた瞬間、メイカクを殺そうとしていた西国の民兵たちや黒角衆の戦士たちの顔が、怒りから驚き、そして爆発的な歓喜へと変わった。
「ジ、ジン親父だ! ジン親父が南から帰ってきたぞォォッ!!」
「親父ィィッ! 王都の奴らが俺たちの街を奪おうとしたんだ!!」
口々に叫びながら、数万の民兵たちは自ら武器を下ろし、ジンに向かって跪き始めた。ジンは暴動を武力で鎮圧したのではない。彼が姿を現しただけで、西国の民衆たちは自らの意思で矛を収めたのだ。彼にとって、この西国の荒くれ者たちは、敵ではなく自らが育て上げた『家族』であった。
「分かってる。お前ら、俺の留守中によくぞ家を守り抜いてくれた。だが、そこまでだ。……あとは、大将である俺が引き継ぐ」
ジンは駱駝から飛び降りると、数万の民衆がひれ伏す中を、ゆっくりと歩き出した。
その視線の先にあるのは、泥と血にまみれ、満身創痍で片膝をついている筆頭家老メイカクの姿であった。
「……ジン、千人将……」
メイカクは、迫り来るジンの顔を呆然と見上げた。
王都からの援軍の正体。自らが最も憎み、南の炎州で餓死するよう陥れた張本人。その男が、今、絶望の淵にあった自分を救い出し、圧倒的な力で戦場を支配して目の前に立っている。
ジンの背後には、無表情なガク、鉄砕棒を肩に担ぐゴウ、そして馬車から顔を出すシオンやクロウたちが控えていた。
彼らは、泥にまみれたメイカクの姿を見て、かつての傲慢な筆頭家老からのあまりの変貌ぶりに息を呑んだ。
(……あの誇り高く、傲慢であったメイカクが、下民と見下していたジンの助けを受けるなど。過去の彼であれば、屈辱のあまりその場で腹を切るか、ジンを罵倒して斬りかかっていただろう……)
馬車の中からその様子を窺っていたシオンは、静かに目を細めた。
誰もが、メイカクがジンに向かって「貴様になど助けられてたまるか」と毒づき、最後の虚勢を張るものと思っていた。
しかし。
ジンが数歩の距離まで近づいた時、メイカクの取った行動は、その場にいた全員の想像を完全に裏切るものであった。
チャキッ。
メイカクは、握りしめていた血塗られた長剣を、自らの手で鞘に収めた。
そして、傷ついた足を引きずりながらゆっくりと立ち上がると、自らの白銀の兜を脱ぎ、泥だらけの地面に無造作に放り投げたのである。
「……」
ジンは足を止め、無言でメイカクを見つめた。
メイカクは、己のプライドの象徴であった白銀の鎧を血と泥で重く沈ませたまま、ジンの前へ進み出た。
そして、ゆっくりと右の膝を地面に突き、深く、どこまでも深く、自らの頭を垂れたのである。
それは、黎州の筆頭家老という身分を完全に捨て去った、一人の武人から大将に対する、最上級にして絶対的な『敬意と感謝』の礼であった。
「……黎州筆頭家老メイカク。此度の援軍、心より感謝いたす。貴公らの到着がなければ、我が軍は今頃、この泥の中で全滅していた」
静かに、だがはっきりとしたメイカクの声が、風の吹き抜ける戦場に響いた。
「なっ……あの白銀のオッサンが、親父に頭を下げただと!?」
ゴウが驚愕の声を上げ、ガクも信じられないというように目を見開いた。あの異常なまでに身分と体面に固執していた男が、全ての人間の前で、下民出身の千人将に対して自らの命の恩義を認め、礼を尽くしたのだ。
頭を下げるメイカクを、ジンは見下ろしていた。
嫌味な笑みも、見下すような優越感も、そこにはない。ジンはただ、薄く目を細め、メイカクから発せられる異様なほどの『重さ』を静かに感じ取っていた。
(……驚いたな。あの体面しか頭になかった禿ネズミのオッサンが、こんな匂いを発するようになるとは)
ジンの生存本能が、目の前の男がすでに過去のメイカクとは全く別の生き物へと変貌していることを正確に察知していた。
「……面を上げなよ、メイカクのオッサン」
ジンは自らの腰にある小刀をベルトに差し直すと、片膝をつくメイカクの前に歩み寄り、その泥と血にまみれた右手を、無造作に差し出した。
メイカクが顔を上げると、そこには、かつて自分が嘲笑っていた下賎な男の顔ではなく、圧倒的な器の大きさと、果てしない野望を秘めた一人の『王の器』の顔があった。
「ずいぶんと、いい顔になったじゃねえか」
ジンは、ニヤリと悪ぶった笑みを浮かべた。
「昔のアンタは、自分の手を汚さねえで、安全な場所から俺たちを下っ端だと見下すだけの薄っぺらいお上品な貴族だった。南の砂漠で俺たちを殺そうとした時も、反吐が出るくらい腹が立ったぜ」
ジンは差し出した手を、さらにメイカクへと近づけた。
「だが、今のアンタのその面からは、泥を啜ってでも、無様に這いつくばってでも己の意地を貫こうとする、本物の『野犬』の匂いがするぜ。……死に物狂いで泥の味を知ったアンタとなら、少しは話が合いそうだ」
ジンのその言葉は、メイカクの過去の罪を全て水に流すという赦しであり、同時に、彼を自らと同じ『泥を這う者』として認めるという、最大級の賛辞であった。
メイカクは、差し出されたジンの大きな手を見つめた。
その手には、剣のタコだけでなく、薬草売りとして土を掘り返していた頃の無数の傷と泥が染み付いている。かつての自分であれば、汚らわしいと振り払っていたであろうその手が、今はとてつもなく頼もしく、そして温かく見えた。
「……泥水を啜るのも、悪くはないと知った。己の血と汗が、これほど熱く、重いものだとはな」
メイカクは自らの泥にまみれた右手を伸ばし、ジンの手を力強く握り返した。
「ジン千人将。貴公に命を救われたこの恩、必ずや報いてみせよう。……私はかつての私ではない。黎州の、いや、この乱世を終わらせるための真の武人として、これよりは貴公と共に歩ませていただきたい」
二人の手が、泥だらけの戦場の中央で固く結び合った。
階級も、これまでの陰湿な政治的遺恨も、全ての過去のしがらみを超えた、戦場における純粋な武人同士の魂の交錯であった。
ジンはメイカクの手を引いて立ち上がらせると、彼と肩を並べて、周囲を取り囲む広大な西国の荒野を見渡した。
「王都のソウガの親分は、俺たちに西国の再平定を命じてきた。親分はアンタを処刑するつもりだっただろうが、俺はアンタを殺さねえ。その代わり、この泥沼の尻拭いは、アンタ自身の足で俺と一緒に歩いてやってもらうぜ」
「フッ……望むところだ。私の犯した失態は、私の手でこの西国に正しき秩序を築くことで償おう」
「一緒に、この西国をもう一度平らげようぜ。ソウガの親分に、俺たちの意地を見せつけてやるためにな」
かつて黎州を二分して互いの首を絞め合っていた、天才的な成り上がりの泥犬と、名門の誇りを背負う白銀の家老。
決して交わることのないはずだった二匹の獣が、泥と血の中で互いの魂を認め合い、真の盟友としてその手を取った瞬間であった。
戦場を覆っていた殺気は消え失せ、風が静かに彼らの間を吹き抜けていく。
後に西国完全平定の原動力となる、強固で重厚な二人の『誓い』が、ここに産声を上げたのである。




