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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第32話 真紅の野犬と、泥水に洗われる白銀

炎州から西国へと続く、長く険しい荒野の道。

ソウガから西国再討伐の大義名分と、西国に駐留するメイカク軍の指揮権を得たジンは、直属の泥犬部隊を一刻も早く西国へ到達させるべく、昼夜を問わぬ猛烈な強行軍を続けていた。

しかし、西国への境界を目前に控えた天然の要害、釜田峡谷にて、彼らの凄まじい進軍速度は突如として完全に停止させられていた。

「親父。第三陣がまた落石と泥の罠に引っかかった。死傷者は少ないが、道が完全に塞がれて前に進めない。工作部隊を出して瓦礫を撤去しているが、時間がかかりすぎる」

無表情なガクが、長柄の竹竿を杖代わりに突きながら報告に走ってくる。その端正な顔や鎧には、彼らしからぬ泥の汚れがべっとりとこびりついていた。

「チッ……! どこのどいつだ、こんな辺境の谷間で俺たちを足止めしやがるのは! 正面から出てきやがれってんだ!」

ゴウが巨大な鉄砕棒を地面に叩きつけて苛立ちを露わにする。

無理もない。釜田峡谷に入ってからこの三日間、ジン隊は姿の見えない敵から徹底的なゲリラ戦術を受け続けていた。

大軍が通れない狭い谷底に巧妙に誘い込まれ、上から丸太や岩を落とされる。足元には巧妙に偽装された底なしの泥沼が口を開け、夜になれば風向きを計算した毒煙が陣地に流れ込んでくる。

それはまさに、ジンたち自身がこれまで巨大な敵を相手に使い続けてきた、生き汚い生存戦術そのものであった。

「ゲホッ、ゴホッ……。厄介な連中ですね。規模はおそらく数千程度。ですが、彼らはこの峡谷の地形を文字通り手足のように熟知しています」

天蓋付きの馬車から、分厚い毛布に包まったシオンが咳き込みながら顔を出した。

「このまま力押しで進めば、いずれは突破できるでしょう。ですが、それにはあと十日はかかります。それでは、遅すぎるのです。ソウガ様からいただいた許可状の効力も、一夜城の民衆たちの体力も、それまでは持ちません」

シオンの指摘に、ジンは忌々しげに舌打ちをした。

相手の戦力は少ないが、地の利と嫌がらせの技術が極まっている。まともに付き合えば泥沼の消耗戦になることは明白であった。

「……相手の親玉と直接話をつける。白旗を上げろ」

ジンは腰の小刀を差し直し、単身で馬を降りた。

「親父! 危険だぞ!」ガクが鋭い声で止めるが、ジンは首を横に振った。

「あいつらは俺たちと同じ野犬の匂いがする。デカい軍隊を相手に、死に物狂いで嫌がらせをして生き残ろうとする連中だ。こういう奴には、理屈や兵法じゃなくて、腹を割って話すしかねえ」

ジンは武装を解き、両手を上げて峡谷の中央、開けた岩場へと進み出た。

「俺は黎州の千人将、ジンだ! 喧嘩は一時休戦だ! お前らの大将、ツラを貸せ!」

ジンの声が切り立った谷にこだますると、しばらくの静寂の後、崖の上の岩陰から一つの影が軽やかに飛び降りてきた。

砂埃が晴れた後に立っていたのは、目に鮮やかな真紅の甲冑を身に纏った、年の頃はジンと同じか少し若いくらいの武将であった。

手には鋭い十文字の槍を持ち、その兜には六つの銭の紋が輝いている。

「俺は沙那家の次男、レンだ。こんな辺境の谷底に、西国と南国を飲み込んだ天下の千人将殿が、一体何の用かな?」

真紅の若武者、レン。その目は涼しげでありながら、奥底には一族の存亡を背負った強烈な覚悟の炎が燃えていた。

沙那家は、大国に挟まれたこの辺境の地で、大国の顔色を窺い、時には裏切り、時には泥を啜りながら、ただひたすらに家と領民を生き残らせるためだけにあらゆる手段を使ってきた、生粋のサバイバー一族であった。

「単刀直入に言うぜ、レン。俺たちを通せ」

ジンは胡座をかき、真っ直ぐにレンを見据えた。

「俺は今、急いで西国に行かなきゃならねえ。お前らのゲリラ戦法は見事だが、俺が本気で腹を括ってこの谷ごと火薬で吹き飛ばせば、お前らもタダじゃ済まねえはずだ」

レンは十文字槍を肩に担ぎ、フッと笑った。

「やれるものならやってみろと言いたいところだが……あんたの背後にいる双頭の悪魔なら、本当にこの谷を水底に沈めかねないからな。だが、俺たちにも退けない理由がある」

レンもまた、ジンの向かいに胡座をかいた。

「俺たち沙那家は、小さい。黎州や炎州のような巨大な獣が動けば、簡単に踏み潰される。だから、こうやって強者が通る道を塞ぎ、俺たちの価値と厄介さを高く売りつけて、生存の交渉材料にするしかないんだ」

レンの言葉は、かつてジンが泥犬の街を守るために必死に策を弄していた頃の姿と、完全に重なっていた。

「金か? それとも領地の保証か?」ジンが問う。

「どっちもだ。だが、それ以上に信用が欲しい。ジン、あんたはソウガっていう狂った魔王の配下だ。俺たちを通して、その後にあんたが西国を平定して巨大な軍閥になった時、真っ先に俺たちのような小国をすり潰しに来ないという保証がどこにある?」

レンの目は、ジンの奥底にある野心を正確に見抜いていた。

ジンは少しの間沈黙し、やがて腰の革袋から、水筒と二つの粗末な木の杯を取り出した。

水筒には、南国で手に入れた安酒が入っている。ジンは杯に酒を注ぎ、片方をレンへと差し出した。

「保証なんて、乱世にあるわけがねえ。俺だって、明日は魔王に首を刎ねられてるかもしれない」

ジンは杯を掲げた。

「だがな、レン。俺は、這いつくばってでも生き残ろうとする野犬の意地ってやつを知ってる。綺麗な鎧を着て踏ん反り返ってる奴らより、泥にまみれても家族を守ろうとする奴らの方が、よっぽど信用できる」

ジンはニヤリと笑った。

「俺が一番デカい獣になった時、俺の背中を守るのは、俺と同じ匂いがする野犬の群れだ。お前らの戦いぶり、最高に面倒くさくて気に入った。俺に雇われろとは言わねえ。だが、俺が西国で火を吹く時、お前ら沙那家とは背中合わせのダチでいたい。どうだ?」

それは、大国の将の交渉ではなく、路地裏で生きる不良同士の、損得を超えた血の通った交渉であった。

レンは差し出された安酒の杯を見つめ、やがて、真紅の兜の下で愉快そうに吹き出した。

「ハハハッ! 噂には聞いていたが、とんでもない男だな。天下の千人将が、こんな安酒で一国の運命を買おうっていうのか」

レンは杯を受け取り、一気に呷った。

「悪くない酒だ。分かったよ、ジン。俺たち沙那家は、あんたのその泥臭い野心に賭けてみる。この谷の道は開けよう。その代わり、あんたが天下を取った時、俺たちの六つの銭の旗は、あんたの隣で一番高く掲げさせてもらうぜ」

「ああ、約束する」

ジンとレンは、泥だらけの手を力強く握り合った。

巨大な力と力がぶつかり合う乱世において、手段を選ばぬ似た者同士が、奇妙で強固な友情を結んだ瞬間であった。

最大の難所であった釜田峡谷の道が開き、ジン隊はついに、因縁の西国へと続く最後の一本道へと躍り出たのである。

一方その頃。

西国の一夜城から遠く離れた、国境付近の古い石砦。

筆頭家老メイカクは、完全に絶望と飢餓の淵を彷徨っていた。

「遅い! まだか! まだ王都からの援軍は到着しないのか!」

窓から西国の荒野を見つめるメイカクの顔は、極度の飢餓と疲労により骸骨のように削げ落ちていた。

ソウガの部下からの援軍が来るという希望の知らせから、すでに数日が経過している。しかし、一向に王都の旗印は見えず、砦内の食料はついに底をついていた。

そこに、さらなる絶望をもたらす伝令が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。

「申し上げます! 王都からの援軍、いまだ影も形も見えませぬ! それどころか、砦を囲む西国の反乱軍が、ついに丸太を引き出し、城門への総攻撃の構えを見せております! もはや、半日と持ちませぬ!」

「あ……あぁ……」

メイカクの口から、声にならない乾いた音が漏れた。

ソウガが突きつけた二週間で西国を平定できねば首を刎ねるという死の宣告。

その期日が完全に過ぎ去ってもなお、援軍が来ないという絶対的な現実。それは、ソウガが自分を完全に見捨てたか、あるいは間もなくやって来るであろう援軍の正体が自分を処刑するための死神の部隊であるという、最悪の想像をメイカクの脳裏に植え付けた。

「見捨てられた……。いや、殺される。期日を守れなかった私を、ソウガ様が……あの血も涙もない魔王が、生かしておくはずがない……ッ!!」

メイカクの膝から力が抜け、床の冷たい石の上に崩れ落ちた。

彼の脳裏を占めていた自らの矜持や野心は、迫り来る死の恐怖と、ソウガの容赦ない冷酷さへの怯えの前に、一瞬にして蒸発して消え去った。

ジョロジョロと、不快な音が部屋に響く。

極度の恐怖と絶望により、メイカクの袴の股間から温かい液体が染み出し、床の石を黄色く濡らしていった。黎州の誇り高き筆頭家老が、部下たちの目の前で失禁したのである。

「メイカク様……」

あまりの情けない姿に、報告に来た伝令すらも哀れみと呆れの目を向け、静かに部屋を退出していった。

一人残された薄暗い部屋の中。

完全に心が折れ、自分の尿だまりの中でガタガタと震え続けるメイカク。

彼は、床に這いつくばったまま、部屋の隅に放り投げられていた自らの白銀の甲冑を見つめた。

泥と汚物にまみれてはいるものの、その甲冑に刻まれた名門の紋章は、わずかに差し込む陽の光を反射し、かつての誇り高き輝きを微かに放っていた。

「……私は、一体何をしているのだ」

不意に、震える声が静かな部屋に落ちた。

メイカクは、尿で濡れた自らの手を見つめた。

幼い頃から、武門の棟梁として厳しく育てられ、剣を振り、兵法を学び、黎州の美しい秩序を守るために全てを捧げてきた己の半生。

父からこの白銀の甲冑を受け継いだ日、彼は何と誓ったのか。私欲のためではなく、ただこの国の秩序と誇りを守る武人であると誓ったはずではなかったか。

「それが、どうだ。陣形を崩されただけで戦場から逃げ出し、泥の中で己の非を他人のせいにして喚き散らし、援軍が遅いと喚き、あまつさえ死の恐怖に怯えて失禁している」

メイカクは、自らのどうしようもない惨めさと卑怯さを、ついに真正面から直視した。

他者を下賎だと見下してきた自分自身が、誰よりも下賎で、誰よりも見苦しい臆病者であったという残酷な事実。

その絶対的な自己嫌悪が底を打った瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れ去り、同時に、全く別の強靭な精神が産声を上げた。

「……もう、よい」

メイカクは、尿で濡れた床に手をつき、ゆっくりと、己の足で立ち上がった。

彼は汚れた袴を自ら引き裂いて脱ぎ捨てると、部屋に残されていた最後の一杯の飲料水を使って、自らの汚れを静かに拭い清めた。

もはや、彼の顔に死への恐怖や焦りは微塵もなかった。

あるのは、全てを失い、自らの罪と愚かさを完全に受け入れた者だけが持つ、静寂で澄み切った覚悟であった。

「ソウガ様が私を見捨て、殺しに来るというのなら、それも良かろう。私は確かに無能であり、この失態は万死に値する。……だが、殺されるにしても、二度と泥水を啜って命乞いなどせぬ」

メイカクは、隅に転がっていた白銀の甲冑に歩み寄った。

彼は泥を払い、一つ一つの部品を、かつての作法通りに丁寧に身に着けていく。

胴を締め、籠手をつけ、最後に白銀の兜を被り、その緒を固く結んだ。

「私は、黎州の筆頭家老、メイカク。二百年の歴史を背負う武門の長である」

彼が帯刀し、静かに部屋の扉を開けて外に出た時、砦の廊下で飢えに苦しんでいた部下たちは、我が目を疑った。

そこに立っていたのは、つい先程まで泣き叫んでいた哀れな老臣ではなく、かつて王都の軍勢を威風堂々と率いていた、誇り高き完璧な武将の姿そのものであった。

「皆の者、苦労をかけたな。だが、もう案ずるな」

メイカクの静かで力強い声に、部下たちは思わず背筋を伸ばした。

「間もなく、この砦は破られるか、あるいは処刑のための援軍が到着するだろう。……だが、どのような運命が待とうとも、私は二度と逃げはしない。この命尽きるまで、我が身は黎州の秩序と、武人の誇りと共にある。最期まで、私についてこい」

それは、己の弱さを完全に認め、恐怖を乗り越えた男の、武人としての真の覚悟の言葉であった。

彼の背中には、死を恐れぬ清冽なオーラが漂い、見る者の心を打つ悲壮なほどの格好良さがあった。

自分が待つ援軍の正体が、最も憎んでいたジン率いる泥犬の軍団であることなど、今の彼にはもはやどうでもいい事であった。

誰が来ようとも、ただ己の武人としての誇りを貫き通す。

真紅の野犬との友情を結び、圧倒的な勢いで西国へと迫るジンの軍勢。

死の恐怖を乗り越え、武人としての魂を覚醒させた白銀の家老。

全ての因縁が交差する西国の地へ向け、運命の歯車はついに、後戻りできない速度で回転を始めていた。

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