第31話 魔王の誕生と、泥に沈む白銀の虚栄
黎州王都の北東に位置する、かつて不可侵の聖域と謳われた二百年の歴史を持つ大寺院『尽領寺』。
その神聖なる境内は今、この世の地獄すらも生ぬるいほどの凄惨な血と炎の海に沈んでいた。
「あ、悪魔……! 貴様ら、神仏の罰が恐ろしくないのかァァッ!」
炎上する本堂の前で、数珠を握りしめた高僧が血を吐きながら絶叫した。彼の周囲には、王都軍の刃によって無惨に斬り捨てられた僧兵たちの死体が山のようになり、赤い血が石畳の隙間を川のように流れている。
その地獄絵図の中心に、覇侯ソウガは身の丈ほどもある大剣を杖のように突き立て、無表情に立ち尽くしていた。
「神仏の罰だと? 笑わせるな」
ソウガは、足元で命乞いをする高僧の顔面を、分厚い軍靴で容赦なく踏み砕いた。
「二百年もの間、貴様らのような生臭坊主が神の名を騙り、民から富を搾取し、メイカクのような腐った権力者と癒着してこの国を歪めてきたのだ。貴様らの存在そのものが、この乱世における最大の罪だ」
そこに、一人の伝令が馬を駆けさせて飛び込んできた。
「申し上げます、ソウガ様! 遥か南の炎州にて転戦中のジン千人将より、急ぎの書状が届きましてございます!」
ソウガは軍靴についた血を払い、その書状を受け取った。
燃え盛る炎の明かりに照らされながら、ジンからの手紙を一読したソウガの喉の奥から、低く、地鳴りのような笑い声が漏れ出した。
「……フッ、ハハハハハハッ! この泥まみれの野犬めが、どこまでも小賢しい真似を!」
ソウガの背後に控えていた千人将軍ゲントが、怪訝な顔で首を傾げる。
「ソウガ様。ジン千人将は、何と?」
「聞け、ゲント。あの草売りはこう書いてきおった。我ら南の地で苦戦を強いられておりますが、西国が反乱の危機にあると聞き、心が痛んでなりませぬ。主君の御為、兵を割いて西国再平定の支援を行いたく存じます……とな」
ソウガは手紙を握りつぶし、さらに大きな声で笑った。
「西国を混乱させた張本人であるメイカクを、あえて支援したいだと? 虫唾が走るほどの見え透いた嘘だ。あの知恵の回る亡霊軍師の入れ知恵であろうが、ジンの本当の狙いはそこではない。
奴は、自分の手で作った西国を堂々と我が物顔で奪い返すための大義名分と俺の公式な許可を欲しているのだ。あまつさえ、この俺に、メイカクという無能の尻拭いをさせてくださいと恩まで売ってきおった」
ソウガは、ジンの底意地の悪さと、自らの権力を利用して邪魔者を合法的にすり潰そうとするその野心を、完全に理解していた。
しかし、結果を出し続ける者にのみ価値を認めるソウガにとって、そのジンの野心はむしろ痛快ですらあった。
「いいだろう。奴がそこまで言うのなら、その願い、叶えてやろうではないか」
ソウガはゲントを振り返り、絶対の命令を下した。
「直ちにジンへ返書を出せ。西国の再討伐を命じる。メイカクの軍勢は貴様の指揮下に入れ、好きに扱えと。……それから、こうも書き加えろ」
ソウガの言葉に、ゲントは耳を疑った。
「此度の海狗衆討伐による補給の断絶は、我が陣営の内の鼠が起こした失態であった。前線で命を張る貴様とシュウスイには、主として詫びを入れておく。……存分に、踏み潰してこいとな」
それは、絶対的な権力者であるソウガが、一介の千人将とその部下に対して、己の非を認め、明確に謝罪の言葉を述べるという、前代未聞の事態であった。
古い権威や面子にこだわるメイカクであれば絶対に口が裂けても言わないであろうその言葉を、ソウガは平然と言い放ったのだ。それこそが、彼が乱世を覇する器の大きさであり、実力主義の極致であった。
「ははっ……! 直ちに手配いたします!」
ゲントが畏まって下がると、ソウガは再び、燃え盛る尽領寺の本堂へと視線を戻した。
彼の目には、もはや一欠片の慈悲も存在しない。
「さて、手紙の返事も済んだ。……総仕上げといくか」
ソウガが右手を高く挙げると、王都の精鋭部隊が、境内の奥に隠れていた何百人もの僧兵、そして彼らに匿われていた女や子供たちを、広場へと引きずり出してきた。
「お助けを! 仏の怒りに触れますぞォォッ!」
泣き叫ぶ人々の声が、夜空に響き渡る。
「仏が救ってくれるなら、祈ってみるがいい」
ソウガは冷酷に言い放ち、大剣を振り下ろした。
「この寺の僧侶は一匹残らず皮を剥ぎ、焼け残った山門に磔にせよ。女子供も例外ではない。古い秩序の種を、この世から完全に根絶やしにするのだ」
「なっ……! ソ、ソウガ様、女子供まで皮を剥ぐなど、いくらなんでも……!」
王都の兵士たちですら、そのあまりにも残虐な命令に躊躇いを見せた。
「俺の命令が聞こえなかったのか?」
ソウガがギロリと睨みつけると、その場にいた数千の兵士たちの背筋が完全に凍りついた。彼らは恐怖に駆られ、狂ったように刃を振るい始めた。
生きたまま皮を剥がれる僧侶たちの絶叫。逃げ惑う女子供を背後から串刺しにする槍。
焼け落ちる寺の炎を背に、血の海の中に立つ巨大なソウガの姿は、もはや人間のそれではなく、地獄から這い出た絶対的な恐怖の象徴であった。
この凄惨極まりない尽領寺の皆殺しの所業により、ソウガは後に、天下の全てから畏怖と絶望を込めて魔王と呼ばれることとなるのである。
その頃。
西国の一夜城から逃げ出し、国境付近の古びた石砦に陣を張っていた筆頭家老メイカクは、完全に発狂の淵に立たされていた。
「……遅い! ソウガ様が約束された二週間の期日が、すでに過ぎているではないか!」
窓のない薄暗い部屋の中で、メイカクは爪を噛み、ガタガタと全身を震わせていた。
泥にまみれた白銀の甲冑は部屋の隅に放り投げられ、彼の美しい髪は脂で汚れ、目は窪み、かつての黎州の秩序を司っていた名門の面影は完全に消え失せていた。
ソウガが突きつけた二週間で西国を平定できねば首を刎ねるという死の宣告。
その期日が過ぎてもなお、王都からの援軍は一向に到着する気配すらなく、西国の反乱分子たちは砦の周囲を野犬のようにうろついている。
その時、部屋の扉が開き、一人の部下の武将が木でできた粗末な椀を盆に乗せて入ってきた。
「メイカク様。お食事をお持ちしました。……本日は、粟と野草を煮込んだ粥にございます」
その椀をひと目見た瞬間、メイカクは金切り声を上げて盆を跳ね除けた。
「ふざけるなァッ!! なんだこの豚の餌のような泥水は! 私は黎州の筆頭家老ぞ! 王都から取り寄せた白米と、新鮮な魚を出せと言っているだろうが!!」
床にぶちまけられた惨めな粥を見下ろし、部下の武将は深い溜息をつき、そして、氷のように冷たい目でメイカクを見下ろした。
「……いい加減になさってください、メイカク様」
「な、なんだと! 貴様、主に向かってその口の利き方は……!」
「我々は西国の難民どもに敗れ、この砦で完全に兵糧攻めに遭っているのです! 王都からの補給線も絶たれ、外の兵士たちは木の根を齧って飢えを凌いでいる。それを、白米だの魚だのと……ご自分の招いた失態を、まだ理解しておられないのですか!」
部下の容赦ない叱責に、メイカクは言葉を失い、後ずさった。
かつては彼の一言で数万の兵がひれ伏したというのに、今や名もなき部下の一人にすら、見下され、呆れられているのだ。
そこに、さらなる絶望をもたらす伝令が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「も、申し上げます! 王都より潜ませていた間者が戻りました! 王都にて、ソウガ様がメイカク様配下の文官たちをことごとく処刑されたとのこと!」
「なっ……!」
メイカクの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「さらに……ソウガ様は軍を率い、メイカク様の最大の後ろ盾であった尽領寺を完全に焼き討ちにいたしました! 僧侶は全員皮を剥がれて磔にされ、女子供に至るまで、一人の生存者もいないとのことです!!」
「あ……あぁ……」
メイカクの口から、声にならない乾いた音が漏れた。
自らの政治的資金源であり、正当性の象徴であった二百年の歴史を持つ大寺院が、灰になった。それも、ただ焼かれただけでなく、皮を剥がれるという究極の残虐な手段で。
それは、ソウガがメイカクの存在そのものを、この世から完全に否定し、肉片すら残さずにすり潰すという明確な意志表示であった。
「……殺される。ソウガ様に、皮を剥がれて……殺される……ッ!!」
メイカクの膝から力が抜け、床の冷たい石の上に崩れ落ちた。
彼の脳裏を占めていたソウガへの復讐や自らが覇権を握るといった野心は、魔王ソウガの絶対的な暴力の恐怖の前に、一瞬にして蒸発して消え去った。
残ったのは、ただひたすらに命を乞い、死の恐怖に怯えるだけの、哀れな一匹の禿ネズミの姿であった。
ジョロジョロと、不快な音が部屋に響く。
極度の恐怖と絶望により、メイカクの袴の股間から温かい液体が染み出し、床の石を黄色く濡らしていった。黎州の誇り高き筆頭家老が、部下たちの目の前で失禁したのである。
「メ、メイカク様……」
あまりの情けない姿に、叱責していた部下すらも目を背けた。
完全に心が折れ、自分の尿だまりの中でガタガタと震え続けるメイカク。
そこに、砦の入り口から別の兵士が転がり込んできた。
「ご報告! 王都に残っていた間者からの追加の知らせです! どうやらソウガ様が、我々の窮地を救うため、ソウガ様の部下の軍勢を西国の援軍として派遣される手はずを整えたとのことです!」
その言葉を聞いた瞬間、死の淵にいたメイカクの顔に、見苦しいほどの希望の光がパァッと差し込んだ。
「おお……おおぉぉッ!! 来るのか! やはりソウガ様は、私を見捨ててはおられなかったのだ! 私の才能を、この黎州の秩序には私が必要だと、ようやく理解してくださったのだ!!」
メイカクは尿に塗れた袴を引きずりながら立ち上がり、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で狂喜の笑い声を上げた。
ソウガの部下からの援軍。彼らが到着すれば、この地獄のような飢餓から救われ、西国の難民どもを皆殺しにして、再び王都の玉座の隣へ返り咲くことができる。
彼は、その援軍の正体が、自分が最も憎み、そして南の炎州の砂漠で餓死するよう仕向けた張本人……ジン率いる泥犬の軍団であることなど、夢にも思っていなかったのである。
一方、その頃。
遥か南方の炎州、王都迦具土の広場にて。
「ハハハハハ! おい大将、聞いたかよ! ソウガの親分からの返事だ!」
ジンは、王都から早馬の伝令が届けたばかりのソウガの書状を片手に、腹を抱えて大笑いしていた。
その傍らで、大槍を握っていたシュウスイが、目を丸くして書状を覗き込んでいる。
「な、なんだと!? ソウガ様が、我々に詫びの言葉を……!? あの、力こそ全てのソウガ様が、このシュウスイに謝罪をしてくださったというのか!」
シュウスイは、書状に記された前線で命を張る貴様とシュウスイには、主として詫びを入れておくという一文を見た瞬間、その厳つい顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「おおお……! ソウガ様! このシュウスイ、たとえ炎州の砂漠で骨になろうとも、一生貴方様にお仕えいたしますぞォォッ!!」
「おいおい、大将。泣くのは後にしてくれ。……お墨付きは出たんだ。これから俺たちは、西国で帰りを待ってる可愛い迷子の禿ネズミを迎えに行く準備をしねえとな」
ジンは書状を懐にしまい、広場に整列した部下たちを見渡した。
「ガク! ゴウ! シオンにクロウ! 荷物をまとめろ! これから俺の直属部隊だけで、炎州を抜け出して西国へと向かうぞ!」
「オラァッ! 待ってましたァ! 王都の白銀ヤロウの頭をカチ割ってやるぜ!」
ゴウが巨大な鉄砕棒を振り回して咆哮する。
「……炎州の残りの平定は、どうするのだ?」
涙を拭ったシュウスイが尋ねると、ジンはニヤリと笑ってシュウスイの肩を叩いた。
「炎州の三大軍閥とのにらみ合いは、大将の正規軍に任せる。大将の堅実な采配なら、俺たちが西国の掃除を終わらせて戻ってくるまで、絶対に戦線を崩さずに持ち堪えられるだろ?」
「……フッ。お安い御用だ。西国の憂いは我々が断つ。ジン、お前は存分に、自分の家を荒らしたドロボーに灸を据えてこい!」
南国の広大な領土の防衛を、最大の戦友であるシュウスイに託し、ジンは自らの手足となる泥犬部隊を率いて、西国への出立の準備を開始した。
彼らが目指すのは、自らが心血を注いで作り上げた西国一夜城であり、そしてその国境付近で援軍を待ちわびている、哀れな白銀の家老の元である。
「さあて、メイカクのオッサン。俺たちが手に入れたこの黄金と暴力の重さ、たっぷりと思い知らせてやるぜ」
ジンの軍勢は熱砂の風を受けながら、西国への果てしない行軍の第一歩を踏み出した。
彼らが西国の地に到着するまでには、まだ幾日もの時間を要する。しかし、復讐と生存本能、そして王からの許可証を手にした泥犬たちの足取りは、決して止まることはなかった。




