第30話 玉座の狂乱と、焼き討ちの狼煙
西国での無惨な大敗北から数日。
筆頭家老メイカクは、一夜城から遠く離れた、黎州と西国の境界にある強固な砦へと逃げ込み、そこに陣を張っていた。
分厚い石壁に囲まれた安全な城将の部屋に引きこもり、彼は泥と汚物にまみれた白銀の甲冑を脱ぐことすら忘れ、部屋の隅で膝を抱えて震えていた。
「……援軍は、まだか。王都からのゲントの軍勢は、まだ到着しないのか……」
虚ろな目で呟くメイカクの前に、砦の伝令が重い足取りで膝をついた。
「申し上げます。……王都よりの返答、たった今到着いたしました」
「おお! そうか、ついにソウガ様が私の窮地をご理解くださり、ゲントの一万を……!」
すがりつくように身を乗り出したメイカクに対し、伝令は顔を伏せ、無情な事実を告げた。
「ソウガ様は、メイカク様からの書状を読まれるや否や、火鉢に投げ捨てて焼き払われたとのこと。……援軍は、一兵たりとも出さぬとの厳命にございます」
その言葉を聞いた瞬間、メイカクの心臓が早鐘のように狂った音を立てて鳴り始めた。
「なっ……見捨てるというのか。この黎州の筆頭家老である私を、あのような野蛮な西国の泥の中に……!」
メイカクは立ち上がろうとして、足がもつれて床に転がった。
彼の脳裏に、王都の執務室で顔面を蹴り飛ばされた時の、ソウガの血走った眼と凄まじい殺気が鮮明に蘇る。
(二週間だ。二週間で西国を平定できねば、貴様の首が飛ぶと思え)
ソウガの言葉は、ただの脅しではない。あの男は、結果を出せなかった者を身分に関わらず容赦なく斬り捨てる、生粋の暴力と実力主義の化け物である。
そして今のメイカクは、西国の平定に失敗したばかりか、一万の正規軍を烏合の衆相手に半壊させ、自らは戦場から逃げ出すという、武人として最も恥ずべき大失態を犯してしまったのだ。
「……殺される。このままでは、私はソウガ様に殺される……!」
メイカクは恐怖のあまり歯の根を合わさず、自らの美しい髪を両手で掻き毟った。
私が悪いのではない。野蛮な西国の連中が悪いのだ。兵法通りに動かない敵が悪いのだ。そう何度も自分に言い聞かせても、ソウガの絶対的な暴力の恐怖は消えることはなかった。
誇り高き白銀の武将は、今やただの死に怯える哀れな老人へと成り下がっていた。
一方、その頃。
黎州王都、天牙城の広大な大広間は、血と死の匂いに完全に支配されていた。
「ひぃぃッ! お、お助けを! ソウガ様ァッ!!」
大広間の床には、西国から命からがら逃げ帰ってきた、メイカクの息のかかった数十人の文官たちが、縄で縛られて無様に転がされていた。
彼らを見下ろす玉座には、大剣を傍らに立てかけた覇侯ソウガが、地獄の閻魔すらもたじろぐほどの凄まじい怒気を発して座っている。
ソウガの足元には、すでに首と胴体が泣き別れになった文官の死体が三つ、血の海の中に沈んでいた。
「……次だ。貴様、答えろ」
ソウガが、震える文官の一人を大剣の切先で指し示した。
「メイカクの禿ネズミは、南の炎州で戦うジンとシュウスイに対して、今まで裏で何を仕掛けていた。知っていることを全て吐け。嘘をつけば、そこで転がっている豚と同じように、その首を叩き落としてやる」
絶対的な恐怖の尋問。
文官は失禁しながら、狂ったように全てを自白し始めた。
「ひぃぃっ! も、申し上げます! メイカク様は、ジン千人将が南の海狗衆から武器と食料を仕入れていることを逆手に取り、王都の正規水軍を動かしてその補給線を完全に切断いたしました!」
「ほう」
ソウガの目が、スッと細められた。
「さらに、炎州の過酷な環境でジン隊が消耗し、餓死するのを待つ計画にございました! シュウスイ将軍からの度重なる援軍要請の書状も、全てメイカク様が握り潰し、ソウガ様には『西国も南国も順調に進軍中』と偽りの報告を……! わ、私はただ、命令に従っただけで……!」
「……なるほどな」
ソウガはゆっくりと立ち上がり、玉座の階段を下りた。
彼の巨大な体が動くたびに、空間そのものが軋むような威圧感が広間に満ちる。
「ジンという男は、己の知恵と泥にまみれた手で、この黎州に莫大な富と領土をもたらした。シュウスイは、古き誇りを捨ててでも、国のために新たな戦の形を受け入れた。……あいつらは、結果を出した。俺の求める覇道を、命懸けで切り拓いたのだ」
ソウガは、縛られた文官たちの間をゆっくりと歩き回りながら、低く、腹の底から湧き上がるような声で言った。
「だが、メイカクと貴様らときたらどうだ? 安全な王都に引きこもり、血の一滴も流さず、ただ古い血脈と身分を笠に着て、結果を出した者の足を引っ張ることしか能がない。
あまつさえ、主君であるこの俺の目を盗み、国の戦力を私物化して前線の味方を殺そうとした。……これが、貴様らの守りたかった『美しい秩序』か?」
「そ、ソウガ様! お慈悲を……!」
「お前らのような蛆虫が、俺の覇道を腐らせるのだ」
ソウガが手にした巨大な大剣が、風を切る音すら置き去りにして閃いた。
一閃。
たった一振りの剣閃で、横一列に縛られていた五人の文官の首が、同時に宙を舞った。
鮮血が噴き出し、大広間の天井を赤く染め上げる。
「残りも全て斬れ。この城にいるメイカク派の文官、武将、それに連なる一族郎党、一匹残らず探し出して首を刎ねよ」
ソウガは血塗られた大剣を肩に担ぎ、控えの武将たちに冷酷な殲滅命令を下した。
王都の中枢に深く根を張っていたメイカクの派閥は、この日、ソウガの圧倒的な暴力と粛清によって、ただの血の海へと変わったのである。
しかし、ソウガの怒りはこれだけでは到底収まらなかった。
「ゲント!」
ソウガが呼ぶと、広間の隅に控えていた実直な千人将軍ゲントが進み出た。
「はっ。御前に」
「直属の精鋭五千に出陣の支度をさせろ。これより俺自ら軍を率いて、王都の北東にある『尽領寺』へと向かう」
尽領寺。
それは、かつて世界を救った白き王の伝承を祀り、二百年の歴史を持つ強大な寺院組織である。莫大な荘園を持ち、僧兵と呼ばれる強力な私兵を抱え、王都の政治にも口出しをしてくる既存権威の象徴であった。
そして何より、この尽領寺こそが、古い秩序を重んじるメイカクの最大の政治的資金源であり、彼が強気に出られる最大の後ろ盾であったのだ。
「尽領寺へ、でございますか? あそこは不可侵の聖域。もし兵を向ければ、天下の全てを敵に回すことになりかねませぬが……」
ゲントが真面目な顔で直言する。
「聖域だと? 笑わせるな」
ソウガは返り血を浴びた顔で、凶悪な笑みを浮かべた。
「あの生臭坊主どもは、神仏の名を借りて民から富を搾取し、メイカクのような腐った貴族に金を貸し付けて私腹を肥やしているだけだ。あんなものが神聖であるものか。
俺は、あの禿ネズミの根っこを全て焼き払う。黎州の古い秩序、身分、伝統……俺の覇道の邪魔になる全てのゴミを、あの寺ごと灰燼に帰してやる」
ソウガの目に宿る、既存の歴史と価値観を全て破壊し尽くすという狂気の炎。
それは、力のみを絶対とする彼が、ついにこの世界そのものに対して明確な殺意を向けた瞬間であった。
「……御意。直ちに出陣の支度を整えます」
ゲントは深く一礼し、広間を後にした。
その日、王都の空は異様な黒雲に覆われた。
覇侯ソウガ率いる黎州正規軍が、不可侵の聖域である尽領寺を完全に包囲したのである。
「火を放て! 一人も逃すな、全て焼き尽くせェッ!」
ソウガの号令と共に、二百年の歴史を誇る巨大な寺院群は、凄惨な悲鳴と共に、天を焦がす紅蓮の炎へと包まれていった。
それは、ソウガの抱える圧倒的な人間性と凶暴性が、完全に牙を剥いた恐るべき焼き討ちの狼煙であった。
その頃、遥か南の炎州。
西にある大峡谷の岩城に引きこもる軍閥を攻めあぐねていたジン隊の本陣に、一つの急報がもたらされていた。
「……ゲホッ、ゴホッ。王都に潜ませていた間者からの報告です。ソウガ様がメイカク派の文官を皆殺しにし、さらにはメイカクの最大の後ろ盾である尽領寺を焼き討ちにしました」
寝台に横たわるシオンが、届けられた密書を読み上げると、天幕の中の空気は一瞬にして張り詰めた。
「なんだと!? あの尽領寺を焼いただと……! ソウガ様はついに、天下の全てを敵に回す狂行に出られたか!」
シュウスイが大槍を取り落とさんばかりに驚愕する。
「狂行どころか、最高のタイミングだぜ」
ジンは地図から顔を上げ、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「これで、メイカクのオッサンは完全に後ろ盾を失った。王都にも帰れず、西国の砦でブルブル震えてる哀れな迷子だ。……そして、ソウガ様は俺たちが今までメイカクにどんな嫌がらせをされてきたか、全て知ったってことだ」
杖をついたクロウが、ジンの横に歩み寄り、冷たい声で進言した。
「ジン千人将。ここは一つ、ソウガ様に『手紙』を送りましょう」
「手紙だと? こんな時にか?」
シュウスイが眉をひそめる。
「ええ」
クロウは猟奇的な笑みを深くした。
「我々は南の炎州で苦戦を強いられているが、西国が反乱で危機に陥っていると聞き、心が痛んでならない。ついては、主君であるソウガ様の御為、我々が炎州から兵を割いて『西国再平定の支援を行いたい』と。……そう書き送るのです」
その言葉の意図を察し、ジンはたまらず吹き出した。
「ククッ……ハハハハハ! えげつねえな、クロウ! お前、本当に性格がひん曲がってるぜ!」
西国を混乱に陥れたのはメイカクである。
そして、その西国を作ったジンが、あえてメイカクを助けるかのように「支援したい」とソウガに申し出る。
それは、怒り狂うソウガに対して、ジン自身の果てしない忠誠心と器の大きさを示すと同時に、自分たちを陥れたメイカクの無能さと惨めさを、これ以上ないほど強烈に際立たせるための、完璧な『点数稼ぎの毒の手紙』であった。
「……恐ろしい男だ。貴様らは、人の心というものを盤面で転がすことしか考えておらんのか」
シュウスイが戦慄の籠もった声で呟くが、ジンはすでに筆を手に取り、楽しそうに書状を書き始めていた。
「大将、これも生存戦略の立派な武器ですよ。……この手紙が届けば、ソウガ様のメイカクに対する怒りは頂点に達し、逆に俺たちへの評価は天まで届く。そして、西国を堂々と俺たちの手で取り戻す大義名分が手に入るんだ」
南の灼熱の砂漠から、王都の玉座へ向けて放たれる、クロウの知略とジンの野心が詰まった一通の手紙。
それは、白銀の逆臣メイカクの運命を完全に地獄の底へと叩き落とす、最後にして最悪の引導となるはずであった。




