第29話 白銀の遁走と、燃え落ちる妄言
黎州の西に広がる暴牙川の流域。かつて見渡す限りの泥沼であったその平野は、ジンが莫大な資金と労働力を投じて作り上げた『一夜城』を中心とする、異形の経済都市へと変貌を遂げていた。
その街の輪郭を遠巻きに囲むように、王都から出陣した筆頭家老メイカクの軍勢一万が、美しい方陣を組んで布陣していた。
白銀の甲冑を纏い、純白の毛並みを持つ駿馬に跨ったメイカクは、丘の上から自らの軍勢の威容を見下ろし、満足げに扇子を広げた。
太陽の光を反射して輝く一万の槍衾、一糸乱れぬ兵士たちの隊列、そして誇り高くはためく黎州の正規軍旗。これこそが、彼が二百年の歴史の中で絶対的な真理と信じて疑わない『正しき武の形』であった。
「見よ、あの醜い泥の塊のような城を。兵法に曰く、軍の強さは陣形の美しさに比例する。我らのこの完璧なる布陣を前にすれば、あのような烏合の衆など、戦う前に戦意を喪失して平伏するに決まっている」
メイカクは傍らに控える直属の武将たちに、余裕の笑みを向けて指示を出した。
「まずは我が軍の威光と、武将の誇りを奴らに見せつけてやれ。先陣大将ライオン、前へ出よ! 敵の門前にて堂々と名乗りを上げ、王都の正規軍の恐ろしさを骨の髄まで叩き込んでやるのだ」
「ははっ! このライオン、メイカク様のご期待に必ずや応えてみせましょう!」
名門の血を引く若き猛将ライオンが、派手な赤糸威の鎧を鳴らしながら、単騎で一夜城の泥の城壁の前へと進み出た。
彼は大きく息を吸い込み、二百年前から続く由緒正しき武人の作法に則り、腹の底から声を張り上げた。
「やあやあ我こそは! 黎州王都が誇る名門、ライ家の長男にして先陣大将、ライオンなり! 貴様ら王都に逆らう下賎な反逆者どもめ! 命が惜しくば今すぐ城門を開け、泥に額を擦りつけて……」
ライオンが誇り高き長口上を叫んでいる、まさにその最中であった。
ドゴォォォォォンッ!!
城壁の隙間から、まるで大砲から放たれたかのような凄まじい速度で飛来した『人間の頭ほどもある巨大な石の塊』が、名乗りを上げていたライオンの顔面を真正面から直撃した。
「へぶぁッ!?」
美しい兜ごと頭部を完全に粉砕されたライオンは、断末魔の悲鳴すら上げることもできず、首から上のない肉塊となって馬から泥の中へと転げ落ちた。
「……な、なにィッ!?」
後方で見ていたメイカクが、扇子を取り落として悲鳴を上げた。
王都の兵士たちも、何が起きたのか理解できずに一瞬にして静まり返る。
「ガハハハハッ! 誰かと思えば、ただのデカい案山子じゃねえか! 戦場で突っ立ってベラベラと喋る馬鹿がいるかよ!」
城壁の上から、身の丈ほどもある巨体を揺らして笑い声を上げたのは、黒角衆の長バズウであった。彼の手には、投石用の巨大な革の帯が握られている。名将の長口上を、ただの「隙だらけの的」としか認識しない、山岳民族の容赦のない一撃であった。
「おのれ……! おのれェッ! 神聖なる名乗りの最中に奇襲をかけるなど、武人の風上にも置けぬ卑怯者どもめ! 全軍、直ちに前進せよ! 防御の鶴翼の陣を展開し、盾を構えてじわじわと城壁に迫るのだ!」
メイカクが怒りに顔を真っ赤にして采配を振るう。
王都の兵士たちが慌てて命令に従い、巨大な盾を前面に押し立てて、横に広がる陣形を組もうと動き始めた。
しかし、ジンが作り上げ、ガクが整備し、シオンが防衛計画を残したこの西国の土地は、王都の軍勢がのんびりと陣形を整える時間を許すほど甘くはなかった。
「陣形を組ませるな! 足元を狙えェッ!」
城門が突如として開かれ、中から飛び出してきたのは、正規の鎧など着ていない、野良着や獣の皮を羽織った西国の民兵たちであった。彼らの手には、槍ではなく、鍬、ツルハシ、そして漁に使う巨大な網が握られている。
「なんだこいつら! 陣形も組まずにバラバラと……うわぁぁっ!?」
王都の兵士たちが盾を構えようとした瞬間、民兵たちが投げつけた無数の『投網』が前列の兵士たちに絡みついた。さらに、足元の泥濘みに隠されていた無数の落とし穴が次々と崩落し、陣形を整えるどころか、王都軍の隊列は一瞬にしてズタズタに引き裂かれた。
「隙だらけだぜ、お坊ちゃんどもォッ!」
網に絡まって身動きが取れない王都兵の鎧の隙間を、民兵たちのツルハシが容赦なく穿っていく。
「ば、馬鹿な! 陣形を立て直せ! 盾兵は前へ……ヒィッ!?」
メイカクが丘の上から叫ぶが、その声は戦場の喧騒にかき消される。
さらに最悪なことに、暴牙川の岸辺に潜んでいたリョウガ率いる海狗衆の部隊が、王都軍の背後から回り込み、強烈な臭いを放つ『火をつけた油壺』を次々と陣の中央に投げ込み始めた。
「火だ! 陣が燃えるぞ! 退け、退けェッ!」
「前は落とし穴だ! 後ろから海賊が来ている!」
一万の精鋭と呼ばれた王都の軍勢は、開けた平野での正面衝突しか想定しておらず、上下左右から襲い来るゲリラ戦法と罠の連続の前に、完全にパニックに陥った。統制は失われ、兵士たちは互いにぶつかり合いながら逃げ惑う。
「メ、メイカク様! 駄目です、前線が完全に崩壊しました! 敵の別働隊が、この本陣のすぐそこまで迫っております!」
血まみれになった副将が、メイカクの馬の前に転がり込んできた。
「あり得ん……! 私の、私の兵法が、あのような下民どもの泥遊びに負けるなど、絶対にあり得んのだ!」
メイカクが現実を直視できずに叫んでいると、すぐ数十歩先の土煙の中から、巨大な石鎚を持ったバズウら黒角衆の戦士たちが、王都兵の死体を蹴り飛ばしながら突進してくるのが見えた。
「オラァッ! あの白銀の鎧を着たのが大将だな! 首を叩き潰せェッ!」
獣のような咆哮と共に迫る巨漢たち。
その圧倒的な暴力と殺意の塊を真っ正面から浴びた瞬間、メイカクの頭の中から、高尚な理念や誇りといったものが完全に真っ白に吹き飛んだ。
「ひ、ひぃぃぃッ!! 来るな! 私に近づくなど汚らわしいッ!!」
黎州の筆頭家老であるメイカクは、腰の剣を抜くことすら忘れ、自らが乗っていた白馬の腹を狂ったように蹴り上げた。
「退け! 全軍退却だ! 私の道を開けろォォッ!!」
彼は味方の兵士を馬で跳ね飛ばしながら、ただひたすらに自分の命惜しさに、戦場に背を向けて逃げ出した。
白銀の美しい甲冑には泥と返り血が降りかかり、兜は歪み、その姿は名門の武将とは到底思えぬほど、無様で哀れな遁走であった。
大将が逃げ出した王都軍は完全に崩壊し、西国の民兵たちに背中を狩られながら、命からがら敗走していくこととなったのである。
数日後。
どうにか王都に近い安全な砦まで逃げ延びたメイカクは、薄暗い部屋の中で、泥にまみれた自らの甲冑を見つめながら、ギリギリと歯を食いしばり、震える手で筆を走らせていた。
「……私のせいではない。私の軍略は完璧だったのだ。悪いのは、陣形も組まず、兵法の常識すら理解できないあの西国の野蛮人どもだ。あのような狂犬の群れを相手にするなど、まともな武将のやることではない……ッ!」
彼は自らの致命的な無能さを絶対に認めようとしなかった。
現場の泥臭い現実を理解できないがゆえに、全てを「ルールを守らない相手がおかしい」という責任転嫁の言い訳で塗り固めたのだ。
メイカクは、王都にいるソウガへ向けた長文の書状を書き上げた。
『西国の反乱分子は、すでに人間の心を失った狂気の獣と化しております。私の高尚な兵法では、あのような野蛮な連中とは対話すら成り立ちませぬ。至急、王都の正規軍をさらに増派し、あのゲント将軍を私の副官として派遣していただきたい。ゲントの武力をもってすれば、必ずや西国を焼き尽くし……』
そして、その書状が黎州王都、天牙城の玉座の間に届けられた時のことである。
「……」
玉座にどっかりと腰を下ろした覇侯ソウガは、届けられたメイカクの書状を読み進めるにつれ、その額に太い青筋を幾重にも浮かび上がらせていた。
玉座の階下には、名指しで増援に指名された千人将軍ゲントが、微動だにせず片膝をついて控えている。
ゲントは、愚直なまでに己の主君に対する絶対の忠誠を誓う男であった。彼には政治的な野心も、他者を陥れる謀略の才もない。ただ、ソウガという王に仕え、命じられた敵を倒すことのみを自らの存在意義とする、鋼のような武人である。
彼には、メイカクが抱くような「下民への嫉妬」や「古い秩序への執着」すらなく、また「主君を裏切る」という発想そのものが、彼の脳の構造に存在していなかった。
「……ゲントよ」
ソウガが、地獄の底から響くような声で呼んだ。
「はっ」
「貴様、この禿ネズミの書いた手紙をどう思う。自分の無能を棚に上げ、敵が野蛮だから負けただの、兵法通りに動かないから負けただのと……長々と女腐ったような言い訳を連ね、あまつさえ貴様を助っ人に寄越せと泣きついてきおったわ」
ソウガの怒気は、空間そのものを歪ませるほどに膨れ上がっていた。
「貴様は、この手紙を読んでどう思う。メイカクの救援に、西国へ向かいたいか」
ゲントは顔を上げず、ただ一言、短く、そして無感情に答えた。
「……それが、ソウガ様の御命令であれば」
ゲントの言葉には、メイカクへの擁護も、批判もなかった。ただ、主君の命に従うという絶対の原則があるのみ。それは裏を返せば、メイカクという男の個人的な泣き言など、彼にとって何の価値もないゴミと同義であるという意思表示でもあった。
「フン……」
ソウガは、手元の書状を両手で力任せに引き裂いた。ビリビリという音が大広間に響く。
彼は引き裂いた紙片を、傍らで燃える火鉢の中へと乱暴に投げ捨てた。
「あの白銀の能無しめが。武将の誇りすら捨てて泥を這いずり回り、逃げ帰ってきおって。……援軍など出さん。ゲント、貴様は王都の守りを固めろ。あの禿ネズミは、そのまま西国の泥の中で泣き叫んでいればいい」
炎の中でチリチリと燃え落ちていくメイカクの言い訳の手紙を見下ろしながら、ソウガの目には、かつて最も重用した筆頭家老に対する、完全なる失望と侮蔑の色が暗く沈んでいた。
一方その頃、遥か南の炎州の地。
灼熱の砂漠と岩山が連なる広大な迷宮の中で、ジン率いる泥犬の軍勢は、炎州の三大軍閥との終わりの見えない死闘を繰り広げていた。
「ゲホッ……東の焦熱連峰の狂戦士どもは、クロウ殿の放った偽情報に完全に釣られましたね。今頃、南の暗殺教団の領地へと全軍で突撃し、毒の井戸を飲んで勝手に自滅している頃でしょう」
天幕の中で、シオンが地図に新たなバツ印を書き込みながら、不気味に笑った。
彼らは炎州の王都『迦具土』を拠点とし、クロウの持つ暗部の情報を駆使して、強大な軍閥同士を互いにぶつけ合わせるという極めて悪辣な離間工作を次々と成功させていた。
「だが、まだ終わってねえぞ。西の大峡谷に引きこもってる鉄壁のドハの軍勢一万。あいつらは互いの潰し合いには参加せず、ひたすら守りを固めて、俺たちが消耗するのを待っていやがる」
ジンは、焼けつくような外の熱風を浴びながら、腕を組んで西の方角を睨みつけた。
「シュウスイの大将の正規軍を使って正面から攻め上がれば、落とせない城じゃない。だが、それじゃあこっちの被害も馬鹿にならねえ。……俺たち泥犬の流儀で、一滴の血も流さずにあの岩城をひっくり返す手札を揃えるまで、もうしばらくの辛抱だ」
「親父、焦る必要はない。兵糧と水は王都から接収した分で十分に保つ。西国の連中も、メイカク如きに遅れは取らないだろう」
ガクが竹竿を磨きながら、淡々と告げた。
「ああ、分かってるさ。俺たちはこの南のバケモノどもを全部胃袋に収めるまで、絶対にここから動かねえ」
ジンは自らの野望を研ぎ澄ますように、凶悪な笑みを浮かべた。
彼の炎州平定は、決して簡単な道のりではない。広大すぎる領土と、気候の壁、そして残存する強敵たち。それらを一つずつ、策と泥と黄金で確実に削り取っていく、凄惨な削り合いの真っ只中にあった。
王都で完全に孤立し、己の無能さに狂っていく白銀の逆臣。
南方の灼熱の地で、悪魔のような知略を用いて敵を喰らい続ける泥犬。
二つの対極の運命は、やがて黎州という国の形を根底から破壊する激突へと向けて、着実にその臨界点へと近づいていたのである。




