第28話 玉座の逆鱗と、白銀に滲む殺意
黎州王都、天牙城。
その一角にある筆頭家老メイカクの執務室は、常に高価な香木が焚かれ、塵一つ落ちていない神聖な空間として保たれていた。美しい白木で造られた机の上には、王都の政務を司る数々の書類が整然と積まれており、それはメイカクの頭脳と黎州の秩序そのものを象徴していた。
しかし今日、その完璧な静謐は、信じられないほどの悪臭と悲鳴によって無惨に破壊された。
「お、お助けを! メイカク様ァァッ!」
執務室の襖が乱暴に開け放たれ、転がり込んできたのは、数日前にメイカクの命を受けて西国の接収に向かったはずの文官たちであった。
彼らが身に纏っていた名門の証である高級な絹の着物は、見るも無惨に引き裂かれ、泥と汚物にまみれて異臭を放っている。顔は殴られて青腫れができ、ある者は恐怖のあまり涙と鼻水で顔をグシャグシャにしていた。
「な……なんだその薄汚い姿は! ここをどこだと思っている!」
メイカクは扇子で鼻を覆い、嫌悪に顔を歪めて立ち上がった。
「も、申し訳ございませぬ! しかし、西国が……西国が反乱を!」
文官の長であった男が、泥だらけの床に額を擦りつけて泣き喚いた。
「我々が王都の正しき法を布告した途端、獣の皮を被った巨漢や、下賎な労働者どもが暴動を起こし、一斉に襲いかかってきたのです! 護衛の兵士たちも泥沼の市街戦で散り散りになり、我々も命からがら逃げ帰るのが精一杯で……!」
「……なんだと?」
メイカクの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
「ただの難民の烏合の衆が、王都の正規軍に牙を剥いただと? まさか、一日も持たずに城を追い出されたとでも言うのか!」
「は、はい……! 奴らは恐ろしい野犬の群れです! ジンという草売りの名前を叫びながら、我々を泥の川に突き落とし……!」
「ええい、黙れ! この無能どもめ!」
メイカクは怒りに任せて扇子を投げつけ、文官の額に命中させた。
彼の完璧な計算は、完全に狂っていた。
ジンが炎州の奥深くに釘付けになっている今、主を失った西国など、王都の権威とわずかな兵力で容易く制圧できるはずだった。しかし、ジンが泥犬の街に残したものは「自立した民衆」という、最も厄介で凶暴な防衛機構であったのだ。
「……おのれ、ジン。どこまでも私の描く美しい絵図面を泥で汚す下賎な男よ。西国が反乱状態にあるという噂がソウガ様の耳に入れば、私の政治的立場が危うくなる」
メイカクは忌々しげに爪を噛み、執務室の奥に控えていた一人の武将に視線を向けた。
「ゲント。いるか」
「はっ。ここに」
影から静かに進み出たのは、ソウガ麾下の千人将軍の一人、ゲントであった。彼は質実剛健を絵に描いたような生真面目な武将であり、派手な武功こそないものの、確実な用兵で知られていた。
「ゲントよ。貴様に我が直属の兵一万を預ける。今すぐ西国へ向かい、あの汚らわしい泥犬の街を焼き払い、反乱分子の首を全て刎ねてこい。……見せしめだ。王都に逆らう者がどうなるか、その血で思い知らせてやれ」
「御意。……しかし、メイカク様ご自身は出陣なされないので?」
ゲントが真面目な顔で尋ねると、メイカクは鼻で笑った。
「私が? 馬鹿なことを言うな。あのような泥と汚物の吹き溜まりに、この黎州の筆頭家老である私が足を運ぶなど、身の丈に合わぬにも程がある。下民の暴動鎮圧など、貴様ら現場の武将がやれば済むことだ。私は王都で、より高尚な政務を……」
その時である。
ドゴォォォォォンッ!!
執務室の分厚い木製の扉が、蝶番ごと凄まじい衝撃で蹴り破られ、部屋の中に吹き飛んできた。
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
舞い上がる木屑の向こうから、巨大な影がゆっくりと足を踏み入れた。
身の丈ほどの大剣を無造作に肩に担ぎ、燃え盛るような怒りのオーラを全身から立ち昇らせている男。
黎州覇侯、ソウガその人であった。
「ソ、ソウガ様……!? なぜ、こちらに……」
メイカクが驚愕して言葉を失う。ソウガは明鏡寺での茶会から明日戻る予定のはずであった。
ソウガの目は、血走った猛禽類のようにメイカクを睨みつけていた。
彼はゆっくりと、重々しい足取りでメイカクの目の前まで歩み寄った。
「……メイカク。貴様、俺の留守中に随分と面白い真似をしてくれたそうだな」
低く、地鳴りのようなソウガの声に、メイカクの背筋に冷たい汗が流れた。
「お、お言葉の意味が……」
「とぼけるな!!」
ソウガの怒声が、部屋の空気を震わせた。
「西国から逃げ帰ってきた兵士たちの泣き言、俺の耳に届かんとでも思ったか! ジンとシュウスイが南で命懸けで戦っている背後から、味方の水軍を動かして補給線を切断し、あいつらが心血を注いで平定した西国に横槍を入れて、あまつさえ民の暴動を招いただと!?」
ソウガは、足元で震えている泥だらけの文官たちを一瞥し、忌々しげに顔を歪めた。
「貴様が派遣したという代官がこれか。こんな軟弱な豚どもに、あの西国が治められるわけがなかろうが。ジンの足元にも及ばんわ!」
「ソ、ソウガ様! それは誤解にございます! 私はただ、国法を破って密貿易を行う西国に、正しき秩序を……」
メイカクが必死に弁明しようと口を開いた、その瞬間。
「この禿ネズミがァッ!!」
ソウガの右足が、常人には見えぬほどの速度で跳ね上がった。
分厚い革の軍靴が、弁明を続けるメイカクの顔面を真正面から容赦なく捉えた。
「ぐベァッ!?」
鈍い骨の砕ける音と共に、黎州の筆頭家老は無惨に宙を舞った。
美しい白木の机を薙ぎ倒し、書簡をまき散らしながら、メイカクの体は部屋の隅の壁に激突して崩れ落ちた。
「メ、メイカク様!」
ゲントが思わず声を上げるが、ソウガの放つ殺気に気圧されて一歩も動くことができない。
「あぐっ……あぁ……」
メイカクは床を這いつくばり、顔を押さえた。端正な顔立ちは見る影もなく腫れ上がり、折れた鼻からは鮮血が止めどなく流れ落ちて、真っ白な狩衣を赤く汚していた。
「正しき秩序だと? 笑わせるな」
ソウガは倒れたメイカクを見下ろし、吐き捨てるように言った。
「俺が求めるのは、結果だ。結果を出し、領土を広げ、富をもたらす者が正義だ! ジンはそれを見事にやってのけた。お前が忌み嫌う泥と金を使ってな。
だが貴様はどうだ? 嫉妬と己のくだらん体面のために、味方の足を引っ張り、手に入れたはずの西国を自らの手で混乱に陥れた。これが貴様の言う秩序か? ただの無能の極みではないか!」
メイカクは顔の痛みに悶えながらも、屈辱で全身をワナワナと震わせた。
二百年続く名門の血を引くこの自分が、ただの薬草売り上がりの下民と比較され、あまつさえ「禿ネズミ」などという下劣な言葉で罵倒され、顔面を蹴り飛ばされるなど。
「……ソ、ソウガ様……いくらなんでも、私に対するそのご処遇は……私は黎州のために……」
「黙れ。言い訳をする口があるなら、今すぐその口で軍を動かせ」
ソウガは肩に担いでいた大剣を、ズンッ! と床に突き立てた。その衝撃で部屋全体が揺れる。
「お前が撒いた種だ。お前のケツは、お前自身で拭け。ゲントなどの代役は許さん。貴様自身が、今すぐ自らの手勢を率いて西国へ出陣し、あの暴動を鎮圧してこい。……できなければ、そのまま西国の泥の中で死んでこい」
メイカクは血まみれの顔を上げ、絶望と恐怖の目でソウガを見た。
「わ、私が……直々に、西国の現場へ……?」
「そうだ。それとも、まだ言い訳をするか?」
チャキッ。
ソウガが床に突き立てた大剣の柄に手をかけ、ゆっくりと刃を抜き放った。
冷たい鋼の輝きが、メイカクの首筋に向けられる。
「行かねば、今この場で貴様を反逆者として両断する。……選べ、メイカク」
絶対的な君主の暴力と殺気。
もはやそこに、理屈や法が入り込む余地は一ミリも存在しなかった。ソウガという男の根本にあるのは、圧倒的な力による支配のみである。
メイカクは、首筋に当てられた冷たい刃の感触に恐怖し、床に額を擦りつけて震え声を絞り出した。
「……ははっ。み、御心のままに……。直ちに、出陣の支度を……」
「フン。初めからそう言えばいいのだ。二週間だ。二週間で西国を平定できねば、貴様の首が飛ぶと思え」
ソウガは大剣を鞘に収めると、血まみれのメイカクを一瞥もせずに、乱暴な足取りで執務室を後にした。
破壊された部屋の中、重苦しい静寂が降りた。
ゲントが静かに歩み寄り、メイカクに肩を貸して立ち上がらせた。
「……メイカク様。お労しや。すぐにお傷の手当てを」
「触るな……ッ!!」
メイカクはゲントの手を激しく振り払い、血走った目でソウガが消えた扉を睨みつけた。
(ソウガ……。ソウガァァァッ!!)
彼の心の中で、今まで必死に抑え込んできた理性のタガが、完全に音を立てて弾け飛んだ。
(このメイカクの顔を泥で汚し、あまつさえあの下賎な草売り以下だと罵ったな。……許さん。絶対に許さん! 貴様はもう、黎州の君主ではない。ただの力に狂った暴力の化け物だ!)
メイカクは、袖で顔の血を乱暴に拭い取った。
その顔には、先ほどの恐怖に怯える家臣の姿は微塵もない。あるのは、極限まで圧縮され、研ぎ澄まされた純粋な「殺意」の塊であった。
「……ゲント。私の白銀の鎧を持て。すぐに出陣する」
「はっ。直ちに一万の精鋭に出陣の号令を」
メイカクは、破壊された自らの執務室を見回し、冷たく、不気味な笑みさえ浮かべて呟いた。
「そうだ、出陣だ。私は西国へ向かう。……あの烏合の衆が占拠する一夜城など、私の軍略をもってすれば数日で陥落させてみせよう。だが、それだけでは終わらん」
メイカクは自らの佩刀を握り締め、その刃に己の血まみれの顔を映した。
「西国を制圧し、その街の黄金と物資を全て接収した後……我が軍勢は反転し、この王都へ引き返す。ソウガ、お前が私に背を向けたその油断の隙を突き、お前の喉笛を私が直々に喰いちぎってやる」
出陣の空は、重く黒い雨雲に覆われていた。
侍女たちに怯えられながら、白銀の鎧を着込んだメイカクは、馬上に跨り、王都の城門を抜けた。
彼の背中には、黎州を統治する筆頭家老としての誇りはない。あるのは、主君を討ち、自らの手で国を奪い取るという、修羅の道に堕ちた逆臣の怨念だけであった。
一方、その頃。
遥か南方の炎州で三大軍閥との絶望的な死闘を繰り広げることとなるジンたちは、王都でこのような決定的な亀裂が生まれ、メイカクが自ら自軍を率いて西国へと向かってくることなど、知る由もなかった。
黎州の運命を決定づける巨大な歯車が、狂った音を立てて早鐘を打ち始めていた。




