第27話 灼熱の迷宮と、泥犬の残した牙
炎州最強の猛将ザバが率いる五万の砂漠掃討軍は、自らの陣地であるオアシスの水源に毒(サソリ草による猛烈な下剤)を仕掛けられるという、武人の常識を根底から覆すジンの奇策によって、剣を交えることすらなく完全に自滅した。
自らの排泄物にまみれて身動きが取れなくなった炎州軍の陣地から、ジン隊は莫大な食料、水、そして無傷の重装戦駱駝を根こそぎ接収した。極限の飢餓状態にあった黎州軍と三万の投降兵たちは、この略奪によって一気に息を吹き返したのである。
主力軍の壊滅という報せは、風よりも早く炎州の王都『迦具土』へと届いた。
天才謀略家クロウが事前に放っていた「側近たちが黎州と内通している」という偽情報の毒がここで完全に致死量に達し、極度の人間不信に陥っていた炎州覇侯エンキは、恐怖のあまり狂乱。自らの忠臣たちを次々と処刑し始めた結果、ついに耐えかねた近衛兵たちが反乱を起こした。
エンキは玉座で縛り上げられ、迦具土の巨大な城門は、ジン隊の到着を待たずして内側から開け放たれたのである。
「……あっけねえもんだ。南の大国も、頭を腐らせちまえば木っ端微塵ってわけだ」
ジンは麻の単衣姿のまま、豪奢な装飾が施された迦具土の王宮を歩き、炎州の玉座にどっかりと腰を下ろした。
玉座の階下では、肥え太った覇侯エンキが床に転がされ、不自由な足を引きずって歩み寄ってきたクロウによって、冷酷な尋問と復讐を受けている。
「これで炎州は完全に我らのものだな。王都からの補給を絶たれた時はどうなることかと思ったが、結果的に敵の心臓部を無傷で手に入れることができた」
シュウスイが大槍を床に突き立て、安堵の息を吐いた。
しかし、ジンはその言葉に頷くことはなく、傍らに立つクロウへと視線を向けた。
「……おい、クロウ。随分と楽しそうに復讐を堪能してるところ悪いが、この『炎州平定』ってのは、ずいぶんと底が浅い気がするんだがな。……本当にこれで終わりか?」
ジンの生存本能が発する鋭い指摘に、クロウはエンキの顔面を杖で小突くのをやめ、不気味な笑みを浮かべて振り返った。
「さすがだな、黎州の千人将。お前の嗅覚は、この豚よりも遥かに鋭い」
クロウは懐から巨大な羊皮紙の地図を取り出し、玉座の前の床に大きく広げた。
それは、黎州本国の三倍以上の面積を持つ、炎州の広大な全土が描かれた詳細な地形図であった。
「シュウスイ将軍、貴方は勘違いをしている。我々が手に入れたこの王都迦具土と、北の砂礫城周辺は、炎州という巨大な大陸の『ほんの中央部分』に過ぎない。……炎州は広大だ。あまりにも広大すぎるのだ」
クロウは杖の先で、王都を取り囲むように広がる東、西、南の広大な未開の領域を指差した。
「エンキは確かに炎州の覇侯であったが、それは強大な武力で全土を支配していたわけではない。炎州の過酷な自然環境に分断された各地には、エンキすらも手を出せなかった独立不羈の『三大軍閥』が存在しているのだ」
クロウの言葉に、シュウスイの顔色が変わった。
「三大軍閥だと? ザバの五万が炎州の主力ではなかったというのか!」
「ザバの軍は、あくまで王都直属の正規軍に過ぎん」
クロウは地図の東部、赤く塗りつぶされた山岳地帯を叩いた。
「東の『焦熱連峰』を支配する、狂信の闘将ギラン。奴は自らの痛覚を麻痺させる特殊な薬草を兵に与え、死を恐れぬ三万の狂戦士を率いている。
南の『毒砂の海』を縄張りとする、暗殺教団の主ボラ。彼らの領地にはまともな水源がなく、侵入した軍勢は数日のうちに井戸に仕込まれた遅効性の毒で全滅する。
そして西の『大峡谷』に立ち塞がる、鉄壁の守将ドハ。大筒の砲撃すら弾き返す古代の岩城に一万の精鋭と共に籠り、百年もの間、何者の侵入も許していない」
その絶望的な勢力図を前に、天幕の中で咳き込んでいたシオンが、毛布の中から青白い顔を出した。
「……ゲホッ、ゴホッ。なるほど。エンキという『共通の旗印』が存在していたからこそ、彼ら三大軍閥は表面上おとなしくしていた。しかし、我々が王都を落とし、エンキを玉座から引きずり下ろしたことで……彼らを縛る鎖は完全に消え去ったわけだ」
「その通りだ、シオン殿」
クロウが冷酷に頷く。
「現在、三大軍閥は『王都を奪還し、炎州の新たな覇侯となる』という大義名分のもと、それぞれ数万の軍勢を動かし、この王都迦具土に向けて一斉に進軍を開始している。……我々は炎州を平定したのではない。炎州という巨大な迷宮の、最も厄介な底なし沼に自ら足を踏み入れたのだ」
広大な領土、過酷な気象条件、そしてそれぞれが全く異なる厄介な戦法を持つ、十万を超える三つの軍勢。
王都を手に入れた歓喜は一瞬にして吹き飛び、ジンたちは文字通り「四面楚歌」の状況に陥っていることを悟らされた。
「……冗談ではないぞ! 後方からはメイカクに補給を絶たれ、前方にはまだそれほどの化け物どもが潜んでいるというのか!」
シュウスイがギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「ジン! このまま王都に留まれば、三方向からの同時攻撃を受けて確実にすり潰される! 今すぐ全軍を反転させ、紅蓮関を抜けて黎州の西国へ撤退するべきだ! メイカクの陰謀など後回しだ、まずは兵の命を……」
「退けねえよ、大将」
ジンは玉座に深く背中を預け、冷たい声でシュウスイの言葉を遮った。
「退く? どうやってだ。俺たちが抱えてる兵力は、投降兵も合わせて四万五千だぞ。これだけの胃袋を抱えて、水も飯もねえ灼熱の砂漠を北へ何日も行軍してみろ。途中で背後から三大軍閥の騎馬隊に追いつかれ、尻から順番に食い殺されて終わりだ」
ジンの見立ては、残酷なまでに正確であった。
敵地深くに入り込みすぎた巨大な軍勢にとって、無防備な撤退は全滅と同義である。彼らはすでに、この炎州の奥深くで「前に進んで敵の食料を奪い続ける」ことでしか、自らの命を繋ぐことができない呪われた状態にあった。
「……親父。それに、もう一つ厄介な知らせがある」
王都の入り口から、無表情なガクが歩み寄ってきた。彼の手には、南の海狗衆からリレー方式で届けられた、一枚の密書が握られている。
「西国からの急使だ。王都のメイカクが、我々が留守にしている一夜城と泥犬の街を接収すべく、自らの息のかかった文官たちを大量に派遣してきたとのことだ」
「なんだと!?」
シュウスイが激昂した。
「メイカクの奴、我々を南の死地に追いやっただけでなく、我々が心血を注いで復興させた西国を、合法的に乗っ取るつもりか! ジン、今すぐ西国へ戻らねば、お前の築き上げた街が王都の腐った貴族どもに荒らされてしまうぞ!」
西国の奪取。
それはジンにとって、自らの力の源泉である経済基盤を失うことを意味する。普通であれば、いかなる犠牲を払ってでも軍を返し、自らの領地を守りに行かなければならない絶対的な危機であった。
しかし。
ジンはガクから受け取った密書を読み終えると、フッと鼻を鳴らし、そのまま密書をビリビリと破り捨ててしまった。
「ジン! 何をしている! 西国が危ないのだぞ!」
「落ち着けよ、大将。……戻らねえ。いや、戻る必要がねえんだよ」
ジンは立ち上がり、玉座の階段を下りてシュウスイの肩を叩いた。
「大将は、俺が西国に作ったあの泥犬の街を、ただの木と泥の集まりだと思ってるのか? ……あそこにいるのはな、俺が黄金と塩で買い取って、腹一杯飯を食わせてやった連中だ。昨日まで泥水を啜ってた難民たちが、自分の力で稼いで、自分の家を持ち、家族を養う『生きる喜び』を知っちまったんだよ」
ジンの目には、自らが育て上げた民衆に対する、絶対的な信頼と、底知れない狂気が宿っていた。
「そんな連中の前に、お上品な服を着た王都の文官が現れて『明日から無給で奴隷になれ』って言ったところで、ハイそうですかって従うと思うか? ……ふざけんな。あいつらは、自分の飯と生活を守るためなら、王都の正規軍が相手だろうが平気で喉笛に噛みつく、凶暴な野犬の群れだ」
「……しかし、相手は王都の権力を背負っているのだぞ。指揮官不在の民衆だけで、どうにかなる相手ではない!」
「だからこそ、面白いんじゃねえか」
ジンは振り返り、炎州の広大な地図を再び見下ろした。
「ガクが仕掛けた無数の罠がある。ゴウが鍛え上げた黒角衆の特攻隊長たちが残ってる。そして、シオンが書き残した『王都軍を泥沼に引きずり込む防衛計画書』が、留守を預かる幹部たちの手元にあるはずだ。……メイカクのオッサンの差し金なんざ、あいつらだけで十分にお釣りがくる」
ジンは自らの腰にある小刀を抜き、地図の炎州全土に、大きく十字の傷を刻み込んだ。
「俺たちはこの南国に腰を据える。三大軍閥だろうがなんだろうが、俺たちを食おうってんなら、逆にその全てを食い殺して、炎州の全てを俺の胃袋に収めてやる。……王都への凱旋は、この南の大地を完全に平らげて、誰も俺たちを見下せねえほどの超巨大なバケモノになってからだ」
撤退はしない。西国への救援も出さない。
ジンが下した決断は、前方から迫る十万の三大軍閥との、退路なき完全なる殲滅戦であった。
「……ゲホッ。狂気の沙汰ですが、最も合理的な生存戦略ですね。これより我々は、炎州という巨大な密室の中で、三匹の猛獣を相手にした殺し合いを開始します。……クロウ殿、まずは東の『焦熱連峰』の狂戦士から、互いに潰し合わせる策を練りましょうか」
シオンが青白い顔に猟奇的な笑みを浮かべる。
「いいだろう。私の持つ炎州の暗部の情報と、貴様の地形操作を組み合わせれば、奴らを同士討ちの地獄に引きずり込むことなど造作もない」
クロウもまた、杖をつきながら悪魔のように笑い合った。
ここに、黎州軍と炎州投降兵を合わせた四万五千のジン隊は、炎州の広大な砂漠と山岳を舞台にした、血を血で洗う過酷な長期戦へとその歩みを進めることとなったのである。
そして、その頃。
ジンの絶対的な信頼を背負った、遥か北の黎州・西国。
暴牙川のほとりに広がる一夜城の城門の前に、王都から派遣された数十台の豪奢な馬車が到着していた。
馬車から降り立ったのは、メイカクの派閥に属する、顔に白粉を塗ったような青白い顔の文官たちである。彼らは鼻に絹の布を当て、泥と活気に満ちた街の様子を見下ろしていた。
「……チッ。獣の臭いがするわ。このような下賎な街が、我が黎州の経済を脅かしているとはな。ジンという草売りの悪趣味には虫酸が走る」
文官の長である男は、護衛の武装した王都兵士数百人を従え、偉そうに胸を張って街の広場へと進み出た。
広場には、突然の王都軍の到来にざわめく、数万の労働者や商人、そして荒くれ者の民兵たちが集まりつつあった。
「静まれ、下民ども! 我々は王都より、筆頭家老メイカク様の命を帯びて参った新たな代官である!」
文官の長は、広場の中央に台座を置かせ、その上に立って高らかに宣言文を広げた。
「これより、この西国は王都の直接統治下に入る! これまでジン千人将が定めていた無法な掟は全て破棄する! 南からの密貿易の全面禁止! そして貴様ら労働者は、これより王都への奉仕として、無給でこの街の城壁工事に従事せよ! さらに、隠し持っている黄金と私財は、全て軍資金として供出すること!!」
それは、古い秩序による完全な搾取と、奴隷化の宣告であった。
文官は、王都の権威と背後の武装した兵士たちを見せつければ、無知な難民たちは恐怖に震えてひれ伏すものと信じて疑っていなかった。
しかし。
広場を包んだのは、恐怖の沈黙ではなかった。
「……おい。今、なんて言った?」
群衆の最前列から、ドス黒い怒気を孕んだ低い声が響いた。
身の丈ほどもある巨大な石鎚を肩に担ぎ、獣の皮を羽織った男……黄牙連峰の猛者、黒角衆の戦士の一人が、ゆっくりと文官の前に歩み出た。
「俺たちが、無給で働けだと? 俺たちの稼いだ金を、お前らに寄越せだと?」
「そ、そうだ! 王都の決定である! 貴様らのような下民が金を持つこと自体が、身の程知らずの罪なのだ! 逆らえば反逆罪として斬り捨てるぞ!」
文官が声を裏返らせて叫び、護衛の兵士たちが一斉に槍を構えた。
だが、黒角衆の戦士は全く怯むことなく、ニヤリと凶悪な牙を剥き出しにして笑った。
そして、彼の手から離れた巨大な石鎚が、凄まじい風圧と共に文官の立っていた台座を、木っ端微塵に粉砕した。
「ひぎゃあっ!?」
吹き飛ばされ、泥水の中に転がる文官。
「ジン親父はなァ! 石を運べば運んだ分だけ、俺たちに極上の飯と塩をくれたんだよ! てめえらみたいな、口先だけで飯を奪おうとする寄生虫に、頭を下げる泥犬がこの街に一匹でもいると思ってんのかァッ!!」
黒角衆の怒声を合図に、周囲を取り囲んでいた数万の民衆の目の色が、完全に「飢えた野犬」のそれへと変わった。
「ふざけんな! 俺たちの街から出て行けェッ!!」
「王都のダニどもを泥の川に沈めろォォッ!!」
手に手に鍬やツルハシ、あるいはただの石ころを握りしめた数万の群衆が、怒涛の如く王都の兵士たちへと襲いかかった。
「な、なんだこいつら!? 暴動だ! 鎮圧しろ! 槍で突けェッ!!」
護衛の部隊長が叫ぶが、数百人の正規兵の槍衾など、己の生活を奪われそうになって激怒した数万の民衆の暴力の前には、文字通り波に飲まれる小舟でかなかった。
「ひぃぃッ! 来るな! 私は名門の貴族だぞォォッ!」
「お助けを! 命だけはァッ!」
鎧を剥ぎ取られ、泥水に顔を沈められ、四方八方から袋叩きにされる王都の兵士たち。
文官の長は、恐怖のあまり失禁しながら、泥這いつくばって馬車の方へと命からがら逃げ出していった。
これが、メイカクが「法と権力」で容易く乗っ取れると考えていた西国の、恐るべき現実であった。
ジンが残したものは、ただの街ではない。自立と生存本能に目覚めた、王都の古い秩序を一切受け付けない「絶対的な治外法権の怪物」であったのだ。
無様に敗走していく文官たちの馬車を見送りながら、一夜城の城壁の上では、留守を任されたガクの副官が、シオンから預かっていた『防衛計画書』の束をパラパラと捲り、不敵に笑っていた。
「さあて、王都の白銀のオッサン。こんな小役人じゃ、俺たちの街の門は開かねえぜ。……本気で西国が欲しいなら、てめえの足で泥の海まで降りてきな」
西国の地で、王都の権威は完全に地に落ちた。
そしてこの「小役人の無様な敗走」という報せが王都のメイカクの耳に入った時、彼自身の決定的な無能さと、西国への泥沼の自らへの出陣という、最も愚かで致命的な決断の引き金が引かれることとなるのである。




