第26話 砂上の狂乱と、軋む巨大な胃袋
第26話 砂上の狂乱と、軋む巨大な胃袋
炎州第二の都市、砂礫城。
シオンの地形操作とガクの土木工事によって地下水脈を引き込み、見事に「枯れないオアシス」へと変貌したこの城塞は、しかし今、水不足とは全く別の、より深刻で致命的な危機に瀕していた。
「……飯が足りねえ! 水ばっかり飲まされて、腹の虫が鳴き止まねえんだよ!」
「黎州の草売り! 俺たちを雇うと言ったのは嘘だったのか! このままじゃ餓死しちまうぞ!」
城の巨大な中庭は、極度の飢餓と不満に支配された三万の炎州投降兵たちの怒号で揺れていた。
暴動の一歩手前まで膨れ上がった殺気。それを抑え込んでいるのは、城壁の上から剛機弓を構える泥犬部隊と、巨大な鉄砕棒を肩に担いで睨みを利かせるゴウの存在だけであった。
「うるせえぞテメェら! おとなしく並んで配給を待たねえと、そのうるせえ口に泥を突っ込んで黙らせるぞ!」
ゴウが咆哮するが、三万の飢えた人間の群れは、一人の猛将の威圧だけで抑え込める限界をとうに超えていた。
本陣の天幕では、ジンが頭を抱え、目の前に積まれた木簡の束を忌々しげに弾き飛ばしていた。
「……クソッ。計算が完全に狂ったぜ。三万の兵士を食わせるってのが、これほど途方もねえ『胃袋の化け物』の世話をすることだったとはな」
ジンは自らの判断の甘さを呪っていた。
クロウの諜報網を使って炎州貴族の隠し財産や食料を強奪したまでは良かった。しかし、王都の筆頭家老メイカクによって海狗衆の補給ルートが完全に遮断された今、略奪で得た食料など、三万の投降兵と一万五千の自軍、合わせて四万五千の兵士が数日食えば、あっという間に底をついてしまうのだ。
「ゲホッ、ゴホッ……。兵法において、最も恐ろしいのは敵の刃ではなく、自軍の兵士の『飢え』です」
寝台に横たわるシオンが、浅い呼吸の中で冷徹な事実を告げる。
「ジン殿の『経済で敵を買い取る』という戦術は、莫大な物資の流通があってこそ成立する魔法。その大動脈をメイカク殿に切断された今、我々は自らの巨体に耐えきれず、内側から崩壊を始めています」
「なら、こいつら炎州の投降兵を、城から追い出すしかあるまい!」
シュウスイが大槍を床に突き立て、苛立ちを露わにした。
「そもそも、敵の兵士を金と飯で寝返らせただけの烏合の衆だ。忠誠心など欠片もない。これ以上我々の貴重な兵糧を分け与えれば、黎州の正規軍まで道連れにされるぞ!」
シュウスイの正論に対し、杖をついたクロウが不気味な笑い声を漏らした。
「……追い出すだと? 愚かな。この飢えた三万の野犬を城の外へ放り出せば、奴らはすぐに炎州本軍に寝返り、今度は我々の敵として牙を剥くだけだ。かといって、城内で皆殺しにするほどの火薬も矢もない。……完全に『詰み』だな、黎州の猛将殿」
「貴様……他人事のように! そもそも貴様が余計な略奪を唆したから……!」
「よせ、大将。内輪揉めしてる暇はねえ」
ジンは立ち上がり、血走った目で地図を睨みつけた。
敵を買い取って部隊を巨大化させる。それは一見華やかな成り上がりに見えるが、その実態は、常に莫大な資源を食らい続けなければ死んでしまう巨大な呪いを背負うことであった。
王都のメイカクは、そのジンの弱点を完全に理解し、一切の手を下さずに自滅を待っているのだ。
「親父」
天幕の入り口から、顔を砂埃で汚したガクが入ってきた。その無表情な顔に、珍しく焦燥の色が浮かんでいる。
「……炎州本軍、五万。砂礫城から十里の距離まで迫っている。先頭はザバ率いる重装戦駱駝の部隊。明日の昼には城壁に到達する」
最悪の報告であった。
内側には暴動寸前の三万の胃袋。外側には復讐に燃える炎州の精鋭五万。
黎州王都からの援軍や補給は一切ない。完全なる絶望の挟み撃ちである。
「迎撃の準備をしろ」
ジンは小刀の柄を強く握り締め、腹の底から絞り出すように言った。
「籠城はできねえ。飯がねえからな。外に出て、ザバの軍勢と正面からぶつかる」
「正気か、ジン!」
シュウスイが目を剥く。
「腹を空かせた兵で、あの砂漠戦の怪物ザバと平野で戦うだと? しかも敵の重装戦駱駝は、こちらの歩兵の陣形など容易く粉砕する質量を持っているのだぞ!」
「剛機弓がある」
ジンが言うと、ガクが静かに首を横に振った。
「剛機弓の稼働率は、現在三割を切っている。……南からの特殊な油の補給が絶たれたため、炎州の細かな赤砂が歯車に噛み込み、次々と使い物にならなくなっている。乱発すれば弦を引く機構が砕け散る」
南の海狗衆がもたらす『部品と油』という兵站。それがなければ、最強の近代兵器もただの重い鉄屑に過ぎない。
メイカクの兵糧攻めは、食料だけでなく、ジンの最大の牙すらも完全にへし折っていたのだ。
「……上等だ」
ジンは自らの顔を両手で叩き、強引に気合を入れた。
「魔法の道具が使えねえなら、元通り、泥水啜って泥臭く戦うだけだ。ガク! クロウ! シオン! 俺の持ってる手札の全てを繋ぎ合わせて、あの砂の化け物どもを止める巨大な泥沼を作れ!」
翌日。
太陽が容赦なく赤土の大地を焼き焦がす昼下がり。
砂礫城の城壁の前に、ジン率いる黎州軍と炎州投降兵の混成部隊が、重々しい陣形を敷いて待ち構えていた。
兵士たちの顔には疲労と飢餓が滲み、士気は決して高くない。しかし、背後の城には食料がない以上、前に進んで敵を殺し、その物資を奪うしか生き残る道はなかった。
地平線の彼方から、凄まじい砂埃が湧き上がった。
炎州が誇る猛将ザバの率いる、五万の砂漠掃討軍である。
「見よ! 黎州の愚か者どもが、自ら城を出て砂の上に並んでおるわ!」
重装戦駱駝の背に跨り、砂色の布で顔を覆ったザバが、双頭の曲刀を掲げて狂ったように笑った。
「飢えに耐えかねて飛び出してきたか。あの機械の弓も、砂にやられて沈黙しているようだな。……全軍、一気に蹂躙せよ! 黎州の草売りを駱駝の足で踏み潰し、砂漠の染料に変えてしまえ!」
地鳴りを上げて、数万の重装戦駱駝が突撃を開始する。
砂漠の足場の悪さを全く苦にしないその突進力は、まさに動く城壁であった。
「構えろォォッ!!」
シュウスイが大槍を振り上げ、最前列の兵士たちが巨大な木盾を地面に突き立てる。
しかし、剛機弓の援護がない歩兵の防陣など、駱駝の質量の前には時間稼ぎにすらならない。
「ジン! このままでは第一陣が突破されるぞ!」
シュウスイが怒号を上げる中、ジンは後方からじっと敵の突進のタイミングを計っていた。
「……今だ、ガク! やれェェッ!!」
ジンの合図と共に、陣形の後方で待機していた黒角衆の巨漢たちが、足元の地面に突き刺さっていた太い木の杭を、巨大な槌で一斉に叩き割った。
ゴボァァァァァッ!!
次の瞬間、黎州軍の陣形の前方、敵の突撃ルートの真下から、凄まじい勢いで「水」が噴き出した。
「な、なんだ!? 砂漠の真ん中から水が……!?」
先頭を走っていたザバの騎兵たちが驚愕の声を上げる。
それは、シオンとガクが徹夜で仕掛けた、決死の罠であった。
砂礫城の地下に引き込んでいたオアシスの水脈を、密かに城外の砂漠の地下まで誘導し、敵が踏み込んだ瞬間に岩盤を爆破して地表へ噴出させたのだ。
大量の地下水は、乾燥しきった赤土の砂漠を瞬く間に飲み込み、巨大な『底なしの泥沼』へと変貌させた。
「ヒヒィィィンッ!!」
重い装甲を着込んだ戦駱駝たちが、突如として出現した泥沼に足を取られ、その質量が仇となってズブズブと泥の中へ沈み込んでいく。
急ブレーキをかけようにも、後続の駱駝が次々と押し寄せ、泥の沼の中で巨大な大玉突き事故が引き起こされた。
「クソッ! 罠だ! 止まれ、駱駝の足を止めろ!!」
ザバが叫ぶが、混乱はもはや収拾がつかない状態であった。
「オラァァァッ!! 泥遊びの時間だァァッ!!」
泥沼で身動きが取れなくなった炎州軍の側面に、全身に泥を塗りたくったゴウと泥犬部隊が、狂気のような雄叫びを上げて突入した。
彼らは西国の『黒泥湿地帯』で生き抜いた、泥中戦闘の究極のスペシャリストである。足場が悪い泥沼の中を滑るように動き回り、動けない駱駝の脚を斬りつけ、鎧の隙間から槍を突き刺していく。
「馬鹿な……! この炎州の砂漠を、西国の泥沼に変えたというのか!」
ザバが曲刀を振り回して泥犬兵士を薙ぎ払うが、戦況は完全に泥仕合の乱戦へと引きずり込まれていた。
「大将! 敵の機動力は死んだ! 押し返せ!」
ジンが自ら小刀を抜いて前線に飛び出すと、シュウスイもまた、泥にまみれながら大槍を振るって敵の重装歩兵を突き崩していった。
飢えと疲労で限界に達していた三万の投降兵たちも、目の前の敵を殺さなければ自分が死ぬという極限状態の中で、捨て身の反撃を開始する。
砂と泥、血と汗が入り混じる、凄惨極まりない白兵戦。
それは、剛機弓で一方的に敵を殺戮していた枯野平原の戦いとは全く異なる、まさにジン隊が本来得意としていた、底辺の生存本能が剥き出しになる泥臭い殺し合いであった。
半日に及ぶ死闘の末。
泥沼の罠によって先陣を完全にすり潰されたザバは、自軍の被害が想像以上に拡大しているのを見て、ついに撤退の銅鑼を鳴らした。
「……退け! 一旦陣を引け! 黎州の悪鬼ども、これほどの悪足掻きをするとは……!」
ザバは恨みがましい目でジンを睨みつけながら、残存兵力をまとめて砂漠の奥へと後退していった。
「追撃は……無用だ。我々にも、これ以上動く体力は残っていない」
シュウスイが槍を杖にして膝をつき、荒い息を吐いた。
戦場は黎州軍の辛勝であった。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
泥沼の中で死闘を演じた泥犬部隊と投降兵たちには多数の死傷者が出ており、何より、兵士たちの体力は完全に限界を突破していた。
倒れた敵の駱駝の肉をその場で解体して生で齧り付く兵士たちの姿は、正規軍の誇りなど微塵もない、ただの飢えた獣の群れであった。
「……勝ったわけじゃねえ。敵の突撃を、泥をぶっかけて一時的に足止めしただけだ」
ジンは泥まみれの顔を拭い、ザバが後退していった砂漠の彼方を見つめた。
クロウが不自由な足を引きずりながら、ジンの傍らに立つ。
「ザバは砂礫城の三里先に強固な包囲陣を敷き始めた。……奴は悟ったのだ。我々が極度の兵糧不足に陥っていることを。これより先、奴らは絶対に打って出ず、ただ我々が飢え死にするのを砂の上で待つ気だ」
敵の大軍による完全な包囲網。
そして、王都からの補給遮断による兵站の枯渇。
ジン隊の快進撃は、この炎州の灼熱の砂漠において、完全にその足を止められたのである。
終わりの見えない、絶望的な籠城戦の始まりであった。
一方、その頃。
遥か東の黎州王都・天牙城。
筆頭家老メイカクは、美しく手入れされた庭園を眺めながら、優雅に茶を啜っていた。
彼の周囲には、旧来からの武将や名門の貴族たちが集まり、密やかな政治の談合が行われている。
「……南の炎州から報告が届きました。ジン千人将の軍勢は、炎州の猛将ザバの軍と衝突。大きな損害を出し、砂礫城にて包囲され、完全に釘付けになっているとのこと」
文官の一人が、恭しく報告状を読み上げる。
「そうか。あの泥犬どもも、ついに己の器を超えた胃袋の重さに耐えきれなくなったか」
メイカクは扇子で口元を隠し、冷ややかに微笑んだ。
「メイカク様。シュウスイ将軍も共に包囲されております。このままでは全滅の恐れが。王都より、至急援軍と兵糧を派遣すべきではありませぬか?」
一人の武将が進言するが、メイカクは静かに首を横に振った。
「援軍など不要だ。……ソウガ様は常々仰っているではないか。『実力ある者が覇道を往く』と。ジン千人将が本当にそれほどの実力者であるならば、自らの力でその包囲を打ち破り、炎州を平定してみせるはず。もしそこで飢え死にするのであれば、所詮はその程度の男だったというだけのこと」
それは、完璧な論理のすり替えであった。
自らが南の海狗衆を討伐して補給を絶っておきながら、表向きは「ジンの実力を試すための試練」として援軍を出さない正当な理由を作り上げているのだ。
「それに、王都の護りを薄くするわけにはいかん。……現在、西国ではジンが作り上げた奇妙な経済特区のせいで、秩序が乱れ、怪しげな商人や難民が跋扈している。まずは我々王都の軍勢が、西国の治安を『正しく』引き継ぎ、管理せねばなるまい」
メイカクの真の狙いはそこにあった。
ジンを南の炎州に幽閉して餓死を待つ間に、ジンが西国で築き上げた莫大な富と領土、そして南の密貿易ルートの全てを、自らの派閥で合法的に接収し、乗っ取ること。
「ソウガ様には、私が上手く報告しておこう。ジンは南で勇猛に戦っていると。……だから、我々は我々の責務として、この黎州の美しい秩序を守るために尽力しようではないか」
居並ぶ貴族たちが、メイカクの言葉に深く頷く。
王都の政治的中枢は、もはや完全にメイカクの意思によって掌握されつつあった。
彼は直接剣を抜くことなどしない。法律、権力、そして『大義名分』という陰湿で強固な糸を使い、ソウガの周囲の戦力を削ぎ落とし、ジンという毒をゆっくりと絞め殺していく。
南の灼熱の砂漠で、血と泥にまみれながら飢えと闘うジン。
安全な王都で、白銀の鎧を纏い、冷酷に政治の盤面を操作するメイカク。
全く異なる二つの戦場は、互いの首を絞め合う泥沼の冷戦へと突入し、黎州という国家そのものを内側から軋ませ、深く、暗い亀裂を刻み込んでいったのである。




