第25話 灼熱の略奪者と、砂漠に湧く命の水
炎州の太陽は、黎州のそれとは全く異なる無慈悲な熱を帯びていた。
空には雲一つなく、焼き焦がされたような赤茶けた大地が地平線の彼方まで続いている。息を吸い込めば熱風が肺を焼き、鎧を着込んで立っているだけで、全身の水分が汗となって奪われていく。
ここ数百年、他国の軍勢が炎州の奥深くまで侵攻できなかった最大の理由は、強大な軍事力以上に、この人を寄せ付けない『気候と渇き』という絶対的な防壁が存在したからであった。
しかし今、炎州第二の都市である砂礫城の周辺では、その常識を嘲笑うかのような光景が繰り広げられていた。
「オラァッ!! そこだ、その壁の裏だ! ぶち壊せェッ!!」
砂礫城から数里離れた岩山の陰に隠れるように建てられた、豪奢な石造りの別荘。その重厚な鉄の扉を、ゴウが巨大な鉄砕棒の一撃で紙屑のように吹き飛ばした。
粉塵が舞う中、踏み込んだ泥犬部隊の兵士たちが、屋敷の奥で震え上がっている炎州の貴族とその私兵たちを次々と縛り上げていく。
「ひ、ひぃぃッ! 命だけは、命だけはお助けを……! 黎州の将軍様!」
肥え太った炎州の貴族が、床に額を擦りつけて命乞いをした。
「命なんざ要らねえよ。俺たちが欲しいのは、てめえらがしこたま溜め込んでる『飯と金』だ」
ゴウが鼻を鳴らし、屋敷の奥の壁を鉄砕棒で叩くが、そこにはただの石壁があるだけで、食料庫らしきものは見当たらない。
「おい、クロウ。本当にこんな場所に飯が隠してあるのか? ただの金持ちの別荘にしか見えねえぞ」
ゴウが背後を振り返ると、不自由な右足を引きずりながら、杖をついたクロウがゆっくりと屋敷の中へ入ってきた。
彼の目は、怯える貴族をゴミのように見下ろしている。
「……愚かな。炎州の貴族どもが、戦乱の最中に自分の財産を素直に表に出すはずがなかろう」
クロウは杖の先で、貴族が座り込んでいる床の絨毯をペラリと捲り上げた。そこには、精巧に偽装された石の扉が存在していた。
「この男は、表向きは領民に『不作である』と偽り、重税を取り立てておきながら、裏ではこの地下に莫大な岩塩と干し肉、そして黄金を隠匿している。……開けろ」
泥犬の兵士たちが石の扉をこじ開けると、地下へ続く階段の奥から、むせ返るような塩と肉の匂いが漂ってきた。
中には、数千人の兵士を数ヶ月は養えるほどの莫大な食料と、山のような金塊が隠されていた。
「げへへ……! 大当たりだぜ! これだけありゃあ、王都からの補給がなくても三日は腹一杯食える!」
ゴウが歓喜の声を上げ、兵士たちが次々と食料を外の荷車へと運び出し始めた。
貴族は顔面を蒼白にし、クロウを見上げて絶叫した。
「な、なぜだ! この隠し金庫の存在は、私と一族の者しか知らないはず! なぜ黎州の軍師が、このような辺境の屋敷の秘密を……! ひっ、あ、あなたは……クロウ様!? なぜ水牢で死んだはずのあなたが生きているのだ!!」
「久しぶりだな、悪食の豚よ」
クロウは冷酷な笑みを浮かべ、貴族の顔を杖の先で小突いた。
「私が炎州の軍師であった時代、お前たち貴族の金の流れ、不正の証拠、隠し財産の場所、その全てを把握し、私の頭の中に完璧な地図として刻み込んである。……言ったはずだぞ。私を裏切れば、お前たちの骨の髄まで啜り尽くしてやると」
王都からの補給を絶たれたジン隊が取った生存戦略。
それは、クロウの持つ「炎州の暗部の情報」を完全に活用し、敵国の貴族たちが隠し持っている非公式な備蓄を、ピンポイントで強奪して回るという、極めて効率的かつ悪辣な略奪戦であった。
無関係の農民からは奪わない。彼らには奪うほどの食料がないからだ。標的は、いつの時代も私腹を肥やしている特権階級のみ。
クロウの指示に従い、ジン隊の遊撃部隊は炎州の広大な砂漠に点在する隠し金庫や秘密のオアシスを次々と襲撃し、王都のメイカクが絶ったはずの兵站を、敵国自身の血肉をすする事で完璧に補っていたのである。
一方、その頃。
炎州第二の都市である砂礫城では、軍の「脳」であるシオンと、「骨格」であるガクによる、常識外れの巨大土木工事が進行していた。
「……親父。第一水脈への到達を確認した。これより本流の引き込みを行う」
無表情なガクの報告を受け、ジンは砂礫城の地下深く、松明の明かりだけが頼りの巨大な地下空間で、満足げに頷いた。
「よし。黒角衆の連中を下がらせろ。一気に水が来るぞ」
ジンが合図を出すと、地下の岩盤をツルハシで掘り進めていた黒角衆の巨漢たちが、素早い動きで後方へ退避した。
次の瞬間、ガクが計算し尽くした発破用の火薬が岩盤の薄い部分で炸裂し、鈍い爆発音と共に、壁面に巨大な亀裂が走った。
ゴァァァァァァッ!!
亀裂の中から、冷たく澄み切った大量の地下水が、凄まじい勢いで噴き出してきた。
それは、灼熱の地表からは想像もつかない、炎州の地下深くに眠る巨大な水脈であった。
「成功ですね、ジン殿。……ゲホッ、ゴホッ。これで砂礫城は、絶対に枯れることのない『永久のオアシス』へと変貌します」
地上から続く階段の途中で、分厚い毛布に包まったシオンが、咳き込みながらも不気味な笑い声を漏らした。
彼らが数日かけて行っていたのは、古代の技術を応用した『カナート(地下水路)』の建設である。
シオンが地質と水脈の流れを読み解き、ガクの指揮下で黒角衆の圧倒的な腕力を用いて岩盤を穿ち、砂礫城の内部へと直接地下水を引き込む。
炎州の最大の武器である「渇き」を、自らの技術力で完全に無効化した瞬間であった。
「……信じられん。この炎州の地で、これほど豊かな水が湧き出すとは」
その光景を背後で見つめていたシュウスイは、畏怖の念を隠しきれずに呟いた。
武力で城を奪い、情報で食料を奪い、今度は技術で地形すらも自らの支配下に置く。王都からの支援を絶たれ、孤立無援であるはずの彼らは、弱るどころか、この敵地の中で完全に自立した強大な「独立国家」を形成しつつあった。
地上へ戻ったジンは、城の広場に集められた三万の炎州兵たちの前に立った。
彼らは水絶ちの末に降伏し、処刑されるものとばかり思って震えていた。しかし、彼らの前に用意されていたのは、斬首の刃ではなく、先ほど地下から引き上げられたばかりの冷たい水が並々と注がれた無数の樽と、クロウが貴族たちから強奪してきた干し肉や白米の山であった。
「よく聞け、炎州の兵士ども!」
ジンのよく通る声が、灼熱の広場に響き渡る。
「お前たちの命を握っていた貴族や大将は、自分たちだけ隠し財産を溜め込み、お前たちを水絶ちの城に見捨てて逃げようとした! だが、俺は違う! 俺は黎州の千人将、ジンだ!」
ジンは水桶の一つを蹴り倒し、冷たい水を赤土の上にぶちまけた。
炎州の兵士たちが、その水しぶきを見て喉をごくりと鳴らす。
「俺の部隊に入り、俺のために働くなら、水は一生飲み放題だ! 飯も腹がはち切れるまで食わせてやる! 王都の貴族なんぞのために死ぬな! 自分自身の胃袋を満たすために、俺の金と水で戦え!!」
圧倒的な生存の保証。そして、自分たちを平気で見捨てた旧君主への怒り。
極限の渇きを経験した三万の炎州兵たちは、差し出された冷たい水と食料の前に、もはや何の躊躇いもなく黎州への忠誠を誓い、狂喜の声を上げて水桶に群がった。
こうして、ジンの手元には、泥犬部隊数千、黒角衆数千、海狗衆の水軍に加え、三万の炎州正規兵という、黎州本国の正規軍をも凌駕する途方もない大軍勢が誕生したのである。
一方その頃、砂礫城の陥落と貴族たちの隠し財産強奪の報せは、炎州の王都『迦具土』にいる炎州覇侯エンキの耳にも届いていた。
「なんだと……!? ザイエンの奴、やはり裏切って城を明け渡しおったか! おのれ、そればかりか、我が国の貴族どもの隠し財産が次々と略奪されているだと!?」
エンキは、全身を煌びやかな宝石で飾り立てた、異常なほど肥え太った男であった。彼の目は猜疑心と恐怖に濁り、玉座の上で落ち着きなく爪を噛んでいる。
「申し上げます! 敵の軍勢には、かつて我が国から追放された軍師、クロウの姿があるとのこと! 奴が黎州の将を導き、我が国の機密を全て売り渡しているものと思われます!」
伝令の言葉に、エンキは悲鳴のような声を上げた。
「あ、あの亡霊が生きているだと!? ば、馬鹿な、両足の腱を切って水牢に捨てたはずだぞ! ……おのれ、黎州の軍勢は王都からの補給を絶たれ、孤立していると聞いていたが、これでは我が国が内側から食い尽くされてしまう!」
エンキは玉座から転げ落ちるように立ち上がり、大広間に控えていた一人の武将を指差した。
「ザバ! ザバ将軍はおるか!!」
「……はっ。御前に」
影の中から進み出たのは、全身を砂色の薄い布で覆い、両手に不気味な曲線を描く双頭の曲刀を持った男であった。
炎州が誇る砂漠戦のスペシャリストにして、最も冷酷な殺戮者と恐れられる猛将、ザバである。
「五万だ! 我が国の精鋭五万を貴様に預ける! 今すぐ砂礫城へ向かい、黎州のネズミどもと、あの裏切り者のクロウを一人残らず砂の海に沈めてこい! 奴らをこれ以上炎州の奥深くに生かしておくわけにはいかん!!」
「御意のままに。……砂漠の戦いにおいて、我ら炎州の右に出る者などおりませぬ。黎州の重い鎧を着た愚か者どもに、灼熱の地獄というものをお見せしましょう」
ザバの目は、布の奥で蛇のように冷酷な光を放っていた。
炎州の総力を結集した五万の軍勢が、ジン隊を殲滅すべく、王都迦具土から砂礫城へと向けて出陣した。
彼らは通常の騎馬ではなく、炎州特有の『重装戦駱駝』を操り、砂漠の地形を無視した異常な機動力を持っていた。
その数日後。
砂礫城の物見櫓の上で、ジンは地平線の彼方から湧き上がる巨大な砂埃を見つめていた。
「……親父。敵影を確認した。数は約五万。先頭は駱駝に乗った特殊部隊だ。進軍速度は我々の騎馬の倍近い」
ガクが竹竿の先で砂埃の規模を測り、冷静に報告する。
「来たか。炎州の親玉も、自分の腹の中を食い荒らされて、ようやく重い腰を上げたってわけだ」
ジンは腰の小刀の柄を叩き、薄く笑った。
「大将! 敵のお出ましですぜ。今回は五万の大軍だ」
ジンが下に向かって声をかけると、城門の前に陣を構えていたシュウスイが、愛槍を高く掲げて咆哮した。
「望むところだ! 王都からの補給が絶たれようと、我ら黎州の武威は決して揺らがん! 三万の投降兵ども、貴様らの忠誠、この戦で証明してみせよ!」
シュウスイの激の後ろで、クロウとシオンの乗る二台の馬車が静かに並んでいた。
「……敵の将はザバ。砂漠における機動戦の天才であり、残忍な男だ。まともに砂の上でぶつかれば、我々の陣形は駱駝の突撃で完全にすり抜けられ、背後から斬り刻まれるぞ」
クロウが杖を突きながら警告する。
しかし、シオンは毛布に包まったまま、いつものように猟奇的な笑い声を漏らした。
「ゲホッ……砂漠の機動戦、ですか。それは相手が『砂の上』を走ってくれるという前提の話でしょう。……ガク。地下の準備は」
「完了している。いつでも『落とせる』ぞ」
ガクが無表情に答えた。
ジンは櫓から飛び降り、剛機弓を構える数千の泥犬部隊の先頭に立った。
「メイカクのオッサンが俺たちを干上がらせようとしたおかげで、俺たちはこの灼熱の地で最高の牙を研ぐことができた。……炎州の五万の軍勢。こいつらを丸ごと飲み込んで、俺たちは誰にも止められない本物のバケモノになる」
前方に迫る炎州五万の砂漠軍。
後方で首を絞める黎州王都の政治的謀略。
その絶望的な挟み撃ちの中央で、ジンは己の生存本能と、双頭の悪魔の知略、そして莫大な経済力を全て束ね上げ、ついに天下の覇権を揺るがす決戦の火蓋を切って落とした。
「野犬共!! 餌の時間だ!! 一匹残らず喰らい尽くせェェッ!!」
ジンの咆哮と共に、砂礫城の城門が大きく開かれ、灼熱の砂漠を舞台にした未曾有の殺戮戦が、静かにその大口を開けたのである。




