第24話 双頭の悪魔と、白銀の経済封鎖
紅蓮関の無血開城から十日。
炎州の灼熱の大地を、黎州軍一万五千は重い足取りで南下していた。
強烈な日差しが照りつける赤土の荒野を、ジン隊の長大な列が進む。その横を並走する暴牙川の巨大な支流には、リョウガ率いる海狗衆の水軍が、帆に風をはらませて大量の兵糧と剛機弓の交換部品をピストン輸送していた。
陸と川、双方を掌握したジンの軍勢は、過酷な気候下においても兵站を保っていたが、見知らぬ土地での行軍は確実に兵士たちの体力を削り取っていた。
「……オラァッ! なんで俺の出番が全くねえんだ! 鉄砕棒の素振りばかりで肩が凝っちまうぜ!」
軍の先頭を歩くゴウが、不満げに吠えながら巨大な鉄砕棒を地面に叩きつけた。
無理もない。紅蓮関を抜けてからこの十日間、彼ら泥犬の特攻隊が敵と正面から刃を交える機会は、ただの一度も訪れていなかった。
「喚くな、ゴウ。この暑さの中で無駄な体力を消費すれば、戦う前に干からびるぞ」
隣を歩くガクが、竹竿を杖代わりにしながら淡々とたしなめる。
「それにしても、異常な進軍だ。……あの新しい軍師が来てから、敵の砦が文字通り『勝手に』扉を開けていく」
ガクの視線の先、軍の中央を進む二台の天蓋付きの馬車があった。
一台には、熱病に伏せる天才戦術家・シオン。もう一台には、両足の自由を奪われた天才謀略家・クロウが乗っている。
国境付近の小規模な砦は、彼ら「双頭の悪魔」が放った偽手紙や内部工作によって、戦う前に完全に機能不全へと陥らされていたのだ。
本陣の巨大な天幕。
ジンとシュウスイを前に、杖をついたクロウが炎州の広域地図に次々と黒い石を置いていく。
「炎州の覇侯『エンキ』という男は、極度の人間不信だ。私が軍師であった頃は、私がその猜疑心を上手く他国へ向けさせていたが……私が抜け、さらに北の紅蓮関があっさりと寝返ったことで、奴の疑心暗鬼は限界を突破している」
クロウは不気味な笑みを浮かべ、黒い石の一つを指差した。
「現在、我々の行く手を阻むのは、炎州第二の都市『砂礫城』に駐留する三万の軍勢。守将はエンキの義理の弟である猛将ザイエン。普通にぶつかれば、地の利を生かした敵の強固な抵抗に遭い、我々も多大な出血を強いられるだろう。……だが、彼らは絶対に打って出ない」
「なぜだ。三万もの兵力があるなら、我ら一万五千を野戦で叩き潰そうとするのが道理だろう」
シュウスイが怪訝な顔で問うと、隣の寝台で横になっていたシオンが、布越しにくぐもった声で答えた。
「……ゲホッ。クロウ殿が、炎州の王都に『ザイエン将軍が黎州と内通し、三万の兵を率いて謀反を起こす準備をしている』という偽の密書を大量にばら撒いたからです。覇侯エンキはその噂を真に受け、ザイエンの家族を王都で人質に取り、彼に『城から一歩でも外に出れば反逆とみなし、一族を皆殺しにする』という勅命を下しました」
「その通り」
クロウがシオンの言葉を引き継ぐ。
「ザイエンは忠義の将ゆえに、家族を殺されることを恐れ、ただ城に引きこもって防御を固めるしかなくなった。自ら機動力を捨て、巨大な鉄の檻に閉じこもったのだ」
「なるほど。ゲホッ……敵が動かないのであれば、地形の操作は容易い。ガクに命じて、砂礫城の上流にある水源の川筋を完全に変えさせました。この灼熱の気候下で、三万の人間と馬が水絶ちの城に閉じ込められれば、三日と持たずに干上がります」
クロウが敵の心理を縛り付け、シオンが地形の息の根を止める。
二人の天才の恐るべき連携。それは、武将の誇りや兵士の練度といったものを、盤面の上で完全に無価値なゴミへと変える悪魔の所業であった。
「……貴様ら。三万の将兵を、己の君主に疑わせた上で、水一滴も与えずに渇き殺すというのか。それが……戦なのか」
シュウスイは絶句し、自らの大槍を見つめたまま立ち尽くした。
「大将、手荒なのが嫌なら、俺が仕上げをしますよ」
ジンが腕を組み、冷酷な笑みを浮かべて前に出た。
「敵が喉の渇きと、君主への絶望で完全に狂う三日目の夜。俺たちが、城の城壁の前に水桶と黄金を山ほど並べてやる。城門を開けて降伏した奴から、水と金を与えて俺の部隊で雇い入れる。……炎州の正規兵三万、そっくりそのまま俺たち泥犬の軍勢として吸収してやるさ」
もはや、そこには戦争という概念すら存在しなかった。
あるのは、徹底的な情報操作と環境支配によって敵を極限状態に追い込み、最後は経済力で買い叩くという、ジン独自の買収劇であった。
数日後。
ジンの予告通り、水絶ちと疑心暗鬼に耐えかねた砂礫城の三万の兵士たちは、守将ザイエンを縛り上げて城門を開け放ち、黎州軍の前にひれ伏して泥水を啜った。
炎州の広大な領土と兵力の一部はジンの手によって蹂躙され、その兵力はジン自身の巨大な戦力として雪だるま式に膨れ上がっていった。
だが、この圧倒的な勝利の余韻は、突如として舞い込んだ「致命的な凶報」によって一瞬にして吹き飛ばされた。
砂礫城に本陣を移した直後、海狗衆の頭目であるリョウガが、全身ズブ濡れの姿でジンの元へ駆け込んできたのだ。
「……ジン! てめえ、王都でどんなヘマをやらかしやがった!」
リョウガの顔には、かつてないほどの焦りと怒りが浮かんでいた。
「南の海から暴牙川を遡上してきていた俺たちの補給船団が、黎州の『正規水軍』に拿捕されちまった! それも一隻や二隻じゃねえ、食料と剛機弓の部品を積んでいた主力船団の半分が沈められたんだぞ!」
「なんだと……!? 黎州の正規水軍が、味方であるはずの俺たちの船を沈めただと!?」
シュウスイが驚愕して立ち上がる。
リョウガは忌々しげに床に唾を吐き捨てた。
「味方だなんて思っちゃいねえよ、王都の連中はな。……黎州の筆頭家老メイカクの名前で、『海狗衆は国法に違反する密貿易集団であり、即刻討伐すべし』という公式な命令が出されたんだ。俺たちの根城である河口の入り江も、すでに王都の軍船によって完全に封鎖されやがった」
その言葉に、天幕の空気が凍りついた。
海狗衆の補給線。それは、この過酷な炎州での遠征を支える、ジンたちにとって唯一の生命線であった。西国の泥犬の街から資金と物資を運び、南の海路から武器を仕入れる。その血管が、王都の筆頭家老の手によって完全に切断されたのだ。
「……ゲホッ、ゴホッ。やられましたね。メイカク殿は我々を炎州の奥深くに誘い込んだ上で、後方から兵糧攻めの檻を下ろしたのです」
寝台から身を起こしたシオンが、青白い顔で呟いた。
「王都のソウガ様は、この補給線切断をご存知なのか!」
シュウスイが叫ぶが、ジンは首を横に振った。
「知るわけがねえ。メイカクのオッサンは『国法を破った海賊を討伐した』という正当な理由で水軍を動かしたんだ。ソウガ様から見れば、ただの治安維持活動にしか見えねえだろう。……だが、その結果として、前線にいる俺たちは飯と武器の補給を完全に絶たれる」
ジンは机の上の地図を睨みつけた。
砂礫城を手に入れたとはいえ、ここは敵国・炎州のど真ん中である。周囲にはまだ十万を超える炎州の正規軍が手ぐすねを引いて待っており、今この瞬間にも砂礫城を奪還すべく包囲網を敷き始めているはずだった。
前方には炎州の大軍。後方には補給を絶つ王都の正規軍。
遥か東の黎州王都・天牙城。
その執務室で、筆頭家老メイカクは純白の狩衣を身に纏い、一通の報告書を優雅に読み終えていた。
「……海狗衆の主力船団、拿捕および撃沈。河口の封鎖完了、か。見事な働きだ」
メイカクは扇子を広げ、冷たい笑みを浮かべた。
彼の瞳には、かつてのような感情的な怒りはない。あるのは、法と権力を冷酷に使いこなし、敵を合法的に真綿で絞め殺すという完全なる政治家の顔であった。
「ソウガ様を討つなどという愚行は、最悪の最終手段。……私がやるべきは、ソウガ様を惑わすあの『泥の毒』を、王都から遠く離れた南の砂漠で、一滴残らず干上がらせることだ」
メイカクは、ジンが西国で築き上げた強大な経済力と武力が、あくまで「物資の流通」の上に成り立っていることを見抜いていた。
剛機弓は強力だが、南から特殊な油と部品が届かなければただの鉄屑になる。数万の兵士も、飯がなければ三日で暴動を起こす。
だからこそ、メイカクは一切の私情を交えず、ただ「密貿易の取り締まり」という極めて正当な国法を行使することで、ジンの生命線を完璧に断ち切ったのである。
「さあ、泥犬よ。背後の補給を絶たれ、前方の炎州十万の軍勢に囲まれた灼熱の砂漠で、どれだけ足掻けるか見せてもらおう。……貴様らが飢えと内輪揉めで全滅したという報せが届くのを、王都で楽しみに待っているぞ」
炎州、砂礫城。
絶望的な状況報告を前に、天幕の中は重苦しい沈黙に包まれていた。
「……補給が絶たれたとなれば、この三万の投降兵を養うことも不可能だ。すぐに暴動が起きるぞ」
シュウスイが苦渋の表情で唸る。
「炎州本軍の反撃も近い。ジン、一旦西国へ撤退し、王都のメイカク殿に直接抗議するしか……」
「撤退? 冗談きついぜ、大将」
ジンは机を蹴り飛ばし、低く、しかし腹の底から響くような獣の笑い声を上げた。
その目には、絶望どころか、逆境を前にして燃え上がる雑草特有の強烈な闘志がギラギラと輝いていた。
「王都のオッサンが首を絞めてくるってんなら、上等だ。俺たちはこの炎州のど真ん中で、完全に自給自足の『独立国』を作ってやる」
「自給自足だと……!? この敵地の真ん中で、どうやって数万の兵を食わせるというのだ!」
ジンは傍らに立つクロウを振り返った。
「クロウ。お前の頭の中には、炎州の全ての将校の弱みと、隠し財産の場所が詰まってるんだったな?」
「……ああ。炎州の貴族どもが、どこに食料を隠し、どこに黄金を埋めているか、全て把握している」
クロウが猟奇的な笑みを浮かべて頷く。
「シオン。この灼熱の土地で、水脈を掘り当てて農地を作る土木計画は引けるか?」
「ゲホッ。黒角衆の労働力があれば、ひと月で砂漠に巨大なオアシスを築いてみせましょう」
ジンはシュウスイに向き直り、不敵に言い放った。
「大将。後ろからの飯が来ねえなら、前にある敵の飯を全部奪い尽くす。それだけのことだ。……王都のオッサンが俺たちを干上がらせようって腹なら、俺たちはこの炎州を丸ごと喰らい尽くして、王都よりもデカい化け物に育ってやる」
前方の巨大な敵国と、後方の味方からの陰湿な冷戦。
ジンとシュウスイは、誰からの助けも得られない完全に孤立した泥沼の長期戦へと、自らの意思でその足を踏み入れたのである。
南方の灼熱の太陽の下、黎州の歴史から切り離された『最も過酷で狂気じみた生存競争』の幕が、今まさに切って落とされた。




