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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第23話 灼熱の紅蓮関と、黒衣の暗躍者

黎州の王都から遠く離れた南方、炎州えんしゅうとの国境地帯。

そこは、西国の冷たい泥沼や北州の枯れ野とは全く異なる、息を吸うだけで肺が焼けるような過酷な気候に支配された灼熱の地であった。

強烈な太陽が照りつけ、乾いた赤土が風に舞う中、ジンとシュウスイが率いる黎州の遠征軍一万五千は、重い足取りで南下を続けていた。

「……暑い。鎧の中に熱がこもって、立っているだけで体力が削り取られていく。この炎州の気候そのものが、敵の最大の防壁というわけか」

先陣大将のシュウスイが、額から滝のように流れる汗を拭いながら呻いた。重装甲の正規軍にとって、この気候は文字通りの地獄である。

一方、麻の単衣に薄い革鎧という軽装のジン隊や、元々薄着で活動する海狗衆、そして山の過酷な環境に慣れている黒角衆の戦士たちは、暑さに文句を言いながらも比較的元気に歩を進めていた。

「大将、水分と塩分をこまめに摂らねえと、敵と刃を交える前に兵士が干からびちまいますよ。ほら、黒角衆が持ってきた岩塩を舐めてください」

ジンが水筒と塩の塊を渡すと、シュウスイは無言でそれを受け取った。

「ジン。我々の進軍を阻む最大の障害が見えてきたぞ」

シュウスイが指差した先。陽炎が揺らめく荒野の奥に、巨大な赤茶けた岩山を切り拓いて作られた、途方もなく巨大な城塞が立ち塞がっていた。

炎州の北の玄関口であり、難攻不落を謳われる絶対防衛線、『紅蓮関ぐれんかん』である。

「両側が切り立った崖で、迂回は不可能。正面の城壁は我々の一夜城の三倍の高さがあり、壁の上には無数の投石機と弓兵が配備されている。……力攻めで落とすには、五万の兵と半年の月日が必要だ」

シュウスイの絶望的な評価に、ジンも渋い顔をして頭を掻いた。

「剛機弓を使おうにも、あの城壁の高さじゃ下から狙い撃つのは分が悪い。南の海からリョウガの水軍を回り込ませようにも、ここは内陸だ。……軍師殿、何かエグい絡め手はねえか?」

ジンが振り返り、後方を進む馬車に声をかけた。

しかし、馬車の中から返ってきたのは、力強い策ではなく、ひきつけを起こしたような酷い咳き込みと、弱々しい声であった。

「……ゲホッ、ゴホッ……申し訳、ありません、ジン殿……。この異常な暑さと湿気……私の肺が、悲鳴を上げて、おりまして……」

馬車の御簾をめくると、そこには顔面を蒼白にし、高熱にうなされて倒れ伏しているシオンの姿があった。

元々病弱であった彼にとって、西国の泥沼での無理が祟っていた上に、この炎州の過酷な熱気が完全にトドメを刺したのだ。シオンはもはや、起き上がって地図を見ることすらできない状態に陥っていた。

「おいおい、軍師殿! しっかりしろ! ガク、すぐに氷水と薬草を用意しろ! 陣を張って、軍師殿を休ませるんだ!」

ジンが慌てて指示を出し、軍は紅蓮関の矢が届かない安全な距離で足止めを余儀なくされた。

黎州軍の「脳」であるシオンが機能不全に陥った。それは、この絶対的な障害を前にして、手足を縛られたも同然の致命的な事態であった。

その日の夜。

本陣の天幕で、ジンとシュウスイは重苦しい沈黙の中にいた。

「……シオンの容態は芳しくない。このまま紅蓮関の前に留まれば、兵の士気も下がり、熱病が蔓延する。かといって、撤退すればメイカクの思う壺だ」

シュウスイが大槍を握り締めながら吐き捨てる。

「分かってますよ。だが、あの壁をまともに登れば、俺の部下たちが何千人も死ぬ。……俺は、泥犬共を無駄死にさせる気はねえ」

ジンが頭を抱えていたその時である。

「親父。南の海沿いで待機しているリョウガから、妙な届け物だ」

ガクが天幕に入ってきて、背後の兵士に合図をした。

兵士たちに引きずられて入ってきたのは、ボロボロの黒い布を纏った、一人の男であった。手足を太い縄で縛られているが、その男は右足を引きずっており、酷い拷問を受けたような無数の傷跡が皮膚に刻まれていた。

「海狗衆の補給船の底に忍び込み、食料を漁っていたところを捕らえたそうだ。ただの密航者かコソ泥だと思って海に捨てようとしたらしいが、こいつが『ジン千人将に合わせろ。紅蓮関の鍵を持っている』と喚いたらしい」

ジンは顔を上げ、泥だらけの男を観察した。

体は痩せこけ、右足は完全に使い物にならないほど曲がっている。しかし、乱れた前髪の奥から覗くその『両眼』だけは、まるで闇夜に獲物を狙う猛禽類のように、ギラギラと冷たく、そして恐ろしいほどの知性を放って輝いていた。

「……てめえが、紅蓮関の鍵を持ってるって?」

ジンが問いかけると、男は縛られたまま、フッと乾いた笑いを漏らした。

「お初にお目にかかる、黎州の成り上がり者。私の名は、クロウ。……ついひと月前まで、あの紅蓮関の地下にある水牢で、ネズミの死骸を食って生き延びていた亡霊だ」

「クロウだと? 炎州の人間か」

シュウスイが警戒して腰の剣に手をかける。

「元々は、炎州覇侯に仕える軍師だった男さ」

クロウは地べたに座り込んだまま、平然と語り始めた。

「私は炎州の国力拡大のために、他国の将を暗殺し、毒を撒き、偽手紙で内乱を誘発し、あらゆる陰謀を巡らせて勝利を献上してきた。……だが、私のやり方があまりにも徹底的で恐ろしいと、炎州の覇侯自身が私に恐怖したのだ。結果、私は反逆の濡れ衣を着せられ、両足の腱を切られた上で地下牢に幽閉された」

クロウは自らの不自由な右足を無造作に叩いた。

「牢番を買収し、死体を身代わりにして脱獄したのはいいが、歩けない体では遠くへは逃げられん。海賊の船に潜り込んで機を窺っていたところ、貴様らの噂を聞いたのだ。……金と泥で西国を奪い取った、狂った草売りの噂をな」

「俺の噂を聞いて、どうしようってんだ。復讐の片棒でも担がせようってのか?」

ジンが目を細めると、クロウは猟奇的な笑みを深くした。

「商談だ、ジン千人将。貴様には、あの紅蓮関を落とす『知恵』が必要だ。そして私には、私を裏切った炎州の覇侯を絶望の底に突き落とすための『暴力と金』が必要だ。……私を貴様の軍師として雇え。そうすれば、明日の夜明けまでに、一滴の血も流さずにあの城門を開けてやろう」

「馬鹿なことを! あの堅牢な紅蓮関を、たった一晩で無血開城させるなど、神仏でも不可能だ!」

シュウスイが怒鳴りつけるが、ジンは手を挙げてそれを制した。

「……病で寝込んでるうちの軍師殿も、大抵頭のネジが吹っ飛んでるが。お前も相当なホラ吹きだな、クロウ」

「ホラかどうかは、試してみればわかること。……もっとも、私に怯えてこのまま数万の兵を無駄死にさせるのであれば、貴様もあの炎州の愚かな覇侯と同じだということだがな」

ジンの生存本能が、目の前の男から発せられる異様な匂いを嗅ぎ取っていた。

これは、シオンの持つ「戦場における悪魔の戦術」とはまた違う。もっと深く、もっとドロドロとした人間の業と欲望を操る、「暗躍と陰謀の毒」の匂いであった。

「……面白い。買おうじゃねえか、その商談」

ジンは腰の小刀を抜き、クロウを縛っていた太い縄を一太刀で切り捨てた。

「ジン! 素性の知れん敵国の元軍師だぞ! 信用するのか!」

「大将。嘘ならこいつの首をはねて、剛機弓の的にすればいいだけです。……で、クロウ。どうやってあの門を開ける気だ。大筒でも用意するのか?」

縄を解かれたクロウは、不自由な足を引きずりながら立ち上がり、天幕の机に置かれた紙と筆を手に取った。

「武器など不要だ。必要なのは、木箱一つと、数枚の紙切れだけ」

クロウは流れるような筆致で、炎州の公式な公文書に酷似した書面を書き上げ始めた。

「紅蓮関の守将を務めるガンテツという男。あれは武勇に優れているが、致命的な弱点がある。王都の賭場に莫大な借金を抱えており、さらには覇侯に隠れて他国の商人と横流しの取引をしているのだ」

「なぜ、お前がそんなことを知っている?」

シュウスイが驚愕して問うと、クロウは当然のように答えた。

「私が軍師であった時代に、炎州の全ての将校の弱点、横領の証拠、隠し子の居場所に至るまで、全てを調べ上げ、私の頭の中に記憶してあるからだ。彼らは知らない。私が地下牢に繋がれている間も、私がかつて国中に放った『草(間者)』たちが、私への忠誠を失わずに情報を集め続けていたことをね」

クロウが書き上げたのは、ガンテツの横領と借金を完全に証明する詳細な告発状と、炎州覇侯の署名が入った「ガンテツを反逆罪で処刑する」という偽の密書であった。

「この偽の密書を、私の配下の間者を使って、明日の未明、ガンテツの寝所に密かに届けさせる。……ガンテツはこれを見て、自分の悪事がついに覇侯に露見し、処刑の命令が下されたと錯覚する。絶望した彼が取る道はただ一つ」

「……覇侯に見切りをつけて、黎州に寝返る、か」

ジンが口の端を歪めて笑った。

「その通り。そしてダメ押しに、貴様の持っている黄金を木箱に詰めて、夜明け前に城門の前に置いておくのだ。『黎州に寝返れば、この金と共に命を保証する』という私の署名入りの手紙を添えてな。……ガンテツは私の恐ろしさを骨の髄まで知っている。私が黎州の軍師として戻ってきたと知れば、もはや抗う気力すら失うだろう」

それは、戦場の地形や気象を操るシオンの戦術とは全く異なる。

人間の持つ「秘密」と「恐怖」、そして「疑心暗鬼」を究極まで悪用した、情報の暴力であった。

翌朝。

紅蓮関の巨大な城門の前に、ゴウが単身で歩み寄り、一つの木箱を置いて足早に立ち去った。

城壁の上の兵士たちが不審に思い、矢を番えながらもその木箱を回収し、守将ガンテツの元へと運んだ。

城内は、すでに極度の混乱に陥っていた。

クロウの予告通り、ガンテツの寝所には「覇侯からの処刑命令」という偽の密書が届けられており、ガンテツは顔面を蒼白にして震え上がっていたのだ。

「ば、馬鹿な! なぜ私の隠し帳簿の件が覇侯に……! いや、この筆跡、この陰湿な手口……まさか、あの水牢で死んだはずのクロウの仕業か!?」

そこに届けられた、黄金の詰まった木箱と、クロウからの降伏勧告状。

『我が手足は未だ炎州の全土にあり。首と引き換えに黄金を取るか、それとも覇侯の処刑人を待つか。選べ、ガンテツ』

その手紙を読んだ瞬間、ガンテツの心は完全にへし折られた。

クロウという男が敵に回った以上、自分の命運は尽きた。炎州の覇侯に弁明したところで、クロウが握っている証拠の数々を出されれば一族もろとも処刑される。ならば、目の前の黄金を受け取り、黎州へ寝返るしか生き残る道はない。

「……城門を開けい!! 黎州軍を迎え入れるのだ!! 我々は、炎州を捨てる!!」

太陽が完全に昇り切る頃。

難攻不落を謳われた炎州の絶対防衛線『紅蓮関』は、黎州軍の矢を一本も受けることなく、内側から重々しい音を立ててその巨大な門を開け放ったのである。

「……信じられん。本当に、たった一晩で、血の一滴も流さずにこの巨城を落としてみせたというのか」

シュウスイは開かれた城門を前に、戦慄の入り混じった溜息を吐いた。

「言ったでしょう、大将。どんなに分厚い壁も、中にいる人間の心は紙っぺらより薄いんです」

ジンはニヤリと笑い、傍らで杖をつきながら立つクロウの肩を叩いた。

「大した腕前だ、クロウ。お前が放った情報と恐怖の毒は、俺たちの持ってる剛機弓よりよっぽどタチが悪いぜ」

「褒め言葉として受け取っておこう。だが、これはまだほんの挨拶代わり。炎州の内部は、私が仕掛けた地雷で満ちている。貴様らが進軍する先々で、敵は勝手に自滅していくことだろう」

紅蓮関の無血開城を果たし、城内の一室に陣を敷いたジンの元へ、一人の男がフラフラと歩み寄ってきた。

熱病から少しだけ回復し、毛布を被ったシオンであった。

「……ゲホッ、ゴホッ。見事な謀略ですね。人間の業を底の底まで煮詰めたような、素晴らしい悪臭がする」

シオンは青白い顔に笑みを浮かべ、クロウを真っ直ぐに見据えた。

クロウもまた、不自由な足を引きずりながらシオンに向き合い、その冷酷な目を細めた。

「貴様が噂の、戦場を操る病弱の悪魔か。……なるほど、盤面を物理的に支配する目は持っているようだが、人間の裏側をえぐる陰湿さが少々足りないようだな」

「ええ。だからこそ、あなたのような『泥仕事の専門家』が必要なのですよ。ゲホッ」

戦場の地形と敵の心理を操る、天才戦術家・シオン。

国家の暗部と人間の恐怖を操る、天才謀略家・クロウ。

全く異なるベクトルで極まりきった二人の悪魔の頭脳が、ジンという泥犬の器の中で、最悪の形で結びついた瞬間であった。

「……こりゃあ、たまんねえな」

ジンは二人の天才軍師を両脇に立たせ、炎州の遥か奥、広大な南の大地を見渡した。

「王都のメイカクのオッサンが俺たちを南に左遷したつもりだろうが……こっちには、この国を内側から食い破る最高の鍵が手に入っちまった。このまま炎州を丸ごと乗っ取って、その強大な力を全部引き連れて、王都に凱旋してやる」

王都から遠く離れた灼熱の地で、ジンの覇道はついに「二人の軍師(両兵衛)」を手に入れ、誰にも止められない巨大な竜巻へと成長を遂げていた。

一方、黎州本国では、メイカクのソウガに対する反逆の準備が、いよいよ最終段階へと入ろうとしている。

全てを焼き尽くす落日の炎が、ジンたちを王都へ呼び戻す刻は、すぐそこまで迫っていた。

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