第21話 枯野の絶望と鋼鉄の驟雨
黎州の西に広がる枯野平原。
見渡す限りの荒涼とした平地は、冷たい風が吹きすさび、身を隠すような森も谷も存在しない。ここは古来より、機動力を誇る軍勢がその威力を遺憾なく発揮するための、完全なる『騎馬の狩り場』であった。
大地を揺るがす地鳴りが、遠く地平線の彼方から響いてきた。
北州が誇る三万の精鋭部隊。その先頭を行くのは、人間も馬も分厚い鋼の鎧で覆い尽くした、一万の重装騎馬隊である。彼らが一糸乱れぬ陣形を組んで進軍する様は、さながら動く巨大な鉄の城壁であった。
「……見よ。黎州のネズミどもが、平野のど真ん中で震えながら我々を待っておるわ」
北州軍の総大将、巨漢の猛将ゴウザは、馬上から遥か前方に展開する黎州軍の陣容を見据え、鼻で笑った。
「泥犬部隊などと聞いて警戒して損をしたわ。あのような平野に陣を敷くとは、兵法のイロハも知らぬ素人の集まりよ。我ら北州の重騎馬が一度突撃をかませば、一瞬でひき肉に変わるだろう」
「御意。王都の家老殿からの密書によれば、敵は正規軍一万と、烏合の衆が数千とのこと。我が軍の敵ではありませぬ」
ゴウザは巨大な戦斧を天に掲げた。
「全軍、陣形を横広の『鶴翼』に展開せよ! 逃げ場のない平原で、一匹残らず包囲して踏み潰せ!!」
三万の軍勢が怒号を上げ、地響きを立てながら速度を上げ始めた。
重装騎馬の突撃は、一度加速がつけばもはや誰にも止められない。その圧倒的な質量と突進力は、歩兵の槍衾など容易くへし折り、陣形を根底から粉砕する。二百年の乱世において、平野における重騎馬の突撃は「絶対の死」と同義であった。
その死の波を、迎え撃つ側の黎州軍陣地。
正規軍を率いて後方に控えるシュウスイは、額に冷たい汗を滲ませていた。
「……敵は一万の重騎馬を先頭に立ててきたか。完全な力押しだ。いかにジンと言えど、あの突撃を正面から受け止めきれるはずが……」
シュウスイの視線の先、最前線に陣取るジン隊は、異様な光景を呈していた。
彼らは槍も剣も持っていなかった。
平野のど真ん中に、ガクの指示によって昨夜のうちに掘り出された「幾重もの深い塹壕」と、掘り出した土を固めた「胸の高さほどの泥の壁」が延々と連なっている。
その泥の壁の後ろに、三千の泥犬兵士たちが、南の密貿易商から買い付けた黒鉄の機械弓『剛機弓』を構え、三列横隊の陣を敷いて沈黙していた。
「親父。敵の第一陣、予測到達ラインまであと三百歩」
ガクが塹壕の中から竹竿を掲げ、冷静に距離を測る。
「よし。ギリギリまで引きつけろ。俺が合図を出すまで、絶対に引き金を引くなよ。暴発させた奴は晩飯抜きだ」
ジンは土壁に片足を乗せ、迫り来る鉄の波を薄笑いを浮かべて見つめていた。
恐怖はない。あるのは、自分が買い揃えた暴力的なまでの「財力と技術」が、旧来の武の常識をどれほど無惨に粉砕するのかという、底知れない好奇心と冷酷さだけであった。
「ゲホッ……北の戦士たちは、自分たちの鎧を過信している。だからこそ、回避行動など取らずに真っ直ぐに突っ込んでくる。最高の的ですね」
土壁の陰で毛布に包まったシオンが、咳き込みながら嘲笑した。
「二百歩……百五十歩……!」
ガクのカウントダウンが響く。
地鳴りはすでに鼓膜を破らんばかりの轟音に変わり、重装騎馬が巻き上げる土煙が太陽を遮っている。馬の荒い鼻息や、敵兵の狂気に満ちた咆哮が、はっきりと聞き取れる距離まで迫った。
「蹴散らせェェェッ!! 黎州のゴミ共を泥ごと踏み潰せェェッ!!」
北州の先陣を切る騎馬武者たちが、勝利を確信して得物を振りかぶった。
その距離、百歩。
「……今だ。一列目、撃て」
ジンの静かな、しかし通る声が戦場に響いた。
その瞬間。
千発の剛機弓の引き金が、一斉に引かれた。
バォォォォォォンッ!!!
雷鳴が平原に落ちたかのような、空気を切り裂く凄まじい発射音が重なり合い、鼓膜を打ち据えた。
歯車の力で極限まで圧縮された太い獣の弦が弾け、千本の鋼鉄の矢が、肉眼では追えぬ速度で放たれた。
「な……!?」
先陣の騎馬武者が何かを叫ぼうとした瞬間、彼の分厚い鋼の胸当ては、まるで薄紙のように容易く貫通され、背中の装甲まで突き破って巨大な風穴が開いた。
声を発する間もなく、彼は馬から吹き飛ばされた。
「ヒヒィィィンッ!?」
装甲で覆われた軍馬でさえ、鋼鉄の矢の貫通力の前には無力だった。太い矢が馬の首や胴体を深々と抉り、巨大な馬体が次々と前んめりに転倒していく。
バシャァァァァッ!!
先頭集団が突然見えない壁に激突したかのように崩れ落ち、その背後を走っていた後続の騎馬が、倒れた味方の馬や死体に躓いて次々と大玉突き事故を起こした。
「な、何が起きた!? 敵の矢だ! だが、なぜ我々の重装甲を貫ける!?」
「止まれ! 止まれェッ! 前が詰まっているぞ!!」
突撃の勢いは、たった一撃で完全に粉砕された。
北州の騎馬隊は混乱に陥り、土煙の中で同士討ちと落馬の阿鼻叫喚が巻き起こる。
しかし、地獄はこれだけでは終わらなかった。
「二列目、撃て」
ジンが再び冷酷に手を振り下ろす。
一列目の兵士たちが剛機弓の再装填のために後方へ下がると同時に、あらかじめ矢を番えて待機していた二列目の千人が土壁から身を乗り出し、引き金を引いた。
再び轟く雷鳴。
混乱して足を止めた重騎馬の密集陣形に、容赦のない鋼鉄の驟雨が降り注ぐ。
矢は次々と鎧を貫き、骨を砕き、内臓を抉った。誇り高き北の戦士たちが、槍を交えることも、名乗りを上げることも許されず、ただの的として一方的に肉塊へと変えられていく。
「さあ、三列目、撃て! 一列目は装填を急げ! 息をつかせるな!」
シオンが考案した『三段撃ち』の陣形。
剛機弓の最大の弱点である「再装填の遅さ」を、三つの部隊が順番に発射を繰り返すことで完全に克服した、途切れのない連続射撃。
それに加えて、黒角衆の異常な腕力を持つ者たちは、時間のかかるクランク(手回し)を使わず、素手で強引に弦を引き絞って次々と矢を放っている。
「ぎゃあああっ!!」
「退け! 退けェッ!! これは戦ではない、ただの処刑だ!!」
わずか数分の間に、北州が誇る一万の重騎馬隊は、黎州軍の陣地に一歩も触れることなく、その半数以上が動かぬ鉄の棺桶と化していた。
平野には、血の池と粉砕された鎧の残骸が散乱し、悲鳴と馬のいななきが響き渡っている。
「……ば、馬鹿な。あり得ん。平野での我が軍の突撃が、歩兵の弓矢ごときに……」
後方で指揮を執っていた総大将ゴウザは、目の前で繰り広げられる理解不能な殺戮劇に、戦斧を取り落として震えていた。
武人の常識が、誇りが、二百年積み上げてきた戦術の全てが、名もなき泥犬たちの指先一つでゴミのように捨て去られたのだ。
「オラァァァッ!! 弾切れの奴は後ろに下がれ! ここからは俺たちの時間だァァッ!!」
土壁を蹴破り、巨大な鉄砕棒を肩に担いだゴウが、狂気に満ちた笑い声を上げて戦場に飛び出した。その後ろから、黄牙連峰から降りてきた数千の黒角衆の戦士たちが、獣のような雄叫びを上げて続く。
「陣形を崩した騎馬は、ただのデカい案山子だ! 一匹残らずぶち殺して、身ぐるみ剥いでこい!!」
剛機弓の雨によって隊列をズタズタにされ、恐怖で完全にパニックに陥っていた北州軍に、ゴウたちによる容赦のない近接掃討が始まった。
馬を失った重装歩兵たちは、鈍重な鎧が仇となって逃げることもできず、泥犬たちの機動力と黒角衆の怪力に次々と撲殺されていく。
はるか後方で、その一部始終を見ていたシュウスイは、大槍を持ったまま石像のように固まっていた。
味方の勝利である。しかも、自軍の被害は皆無に等しい。
だが、シュウスイの心に湧き上がったのは歓喜ではなく、底知れない『恐怖と喪失感』であった。
「……これが、戦なのか。武を鍛え、槍を磨き、命を賭して戦場に立つ我らの誇りは……あの黒い機械の前に、これほど無惨に崩れ去るというのか」
シュウスイの背筋に冷たい汗が伝う。
戦の形が変わった。もう、どれほど個人の武を極めようとも、あの金と技術で作られた兵器を揃えた者が勝つ。ジンという男は、旧来の武将たちが棲んでいた世界そのものを、この枯野平原で完全に終わらせてしまったのだ。
「……大将! 敵の総大将が背を向けて逃げ出しました! 全軍総崩れです!」
シュウスイの副将が、上擦った声で報告した。
「……追撃せよ。あれはもはや軍隊ではない。ただの敗残兵の群れだ。我が正規軍の騎馬隊で、逃げる敵の背中を刈り取れ」
シュウスイは絞り出すような声で命を下した。
せめて最後は、正規軍の騎馬による殲滅戦で締めくくらねば、自分たちの存在意義すら見失ってしまいそうだった。
半日後。
枯野平原は、北州軍三万の屍と、捕虜となった者たちで埋め尽くされていた。
黎州軍の圧倒的勝利。
ジン隊の戦死者は、わずか数名。それも、再装填の際に弦が切れて怪我をした者や、転んで打撲を負った者など、交戦による犠牲者はゼロであった。
「ハァ……ハァ……親父! 敵の大将の首、俺が叩き潰してやったぜ!」
血と泥にまみれたゴウが、ゴウザの首を掲げてジンの元へ戻ってきた。
「よくやった。だが、首なんてどうでもいい。敵の馬と、鎧と、武器を全部回収しろ。溶かして剛機弓の修理部品にする。……北州の豚共がたっぷり運んできてくれたんだ、一欠片も無駄にするなよ」
ジンは死体の山を見渡し、満足げに笑った。
そこに、馬を走らせてきたシュウスイが歩み寄った。
彼の顔は酷く青ざめ、幽鬼のような表情をしていた。
「……ジン。貴様、あれほどの兵器をいつの間に……」
「言ったでしょう、大将。俺たちは本国からの補給を絶たれたから、南の商人から『自腹で』物資を仕入れたって。その中に、たまたまあれが混ざってただけですよ」
ジンは悪びれもせずに肩をすくめた。
剛機弓の存在は、ソウガにすら報告していないジン独自の隠し玉であった。
「大将、武人ってのは哀しい生き物ですね。鎧が分厚ければ勝てる、馬が速ければ勝てる、最後は気合と誇りで勝てる。……そんなもん、あの鉄の弓の前に立ちゃ、ただの的だ」
ジンは足元に転がっていた北州の分厚い兜を蹴り飛ばした。
「俺は、戦場で綺麗に死ぬ気はねえ。金を使って、泥をすすって、どんな卑怯な手を使っても味方を生かして敵を殺す。……メイカクのオッサンが俺を潰そうとするなら、俺はその小賢しい政治ごと、この剛機弓でぶち抜いてやる」
ジンの目には、かつてないほどの確固たる覇気と、旧体制の全てを破壊し尽くす悪魔のような野心が燃え盛っていた。
シュウスイは、目の前の男がもはや一介の千人将などではなく、一国の運命を容易くひっくり返す巨大な化物に成長してしまったことを痛感していた。
「……ゲホッ、ゴホッ。これで、西国を脅かす外部の脅威は完全に排除されました。メイカク殿の放った刺客は、最高の試金石になってくれましたね」
シオンが馬車の中から現れ、冷たい声で宣言した。
「ええ。これで王都のオッサンも、言い逃れはできねえだろう」
ジンは王都の方角を睨んだ。
「北州の不当な侵略を、西国の力だけで防ぎ切った。俺たちは堂々と胸を張って、この『実績』をソウガ様に報告できる。……さて、あの潔癖症の家老様が、次にどんな手を使ってくるか、見物だな」
その頃。
黎州の王都、メイカクの執務室。
「……北州軍三万、枯野平原にて全滅。……総大将ゴウザ、戦死。黎州軍の被害、皆無……」
隠密からもたらされた報告書を読み上げたメイカクの声は、震えを通り越して、ヒューヒューと空気が抜けるような異音に変わっていた。
彼の顔からは完全に血の気が引き、白銀の鎧の中で、その肉体は恐怖と絶望に苛まれていた。
「ば、馬鹿な……。重装騎馬三万が……平野の真正面からの激突で、たった数千の泥犬どもに全滅させられただと……? あり得ん。そのような魔法のようなことが……!」
メイカクは報告書を床に投げ捨て、両手で自らの頭を抱え込んだ。
彼の構築した完璧な代理戦争の盤面。絶対にジン隊がすり潰されるはずだった確実な死地。
それが、得体の知れない南の兵器によって、一瞬にして消し飛んだのだ。
「……奴は、ジンは……武人の秩序だけでなく、戦の概念そのものを破壊した。あの剛機弓という兵器が量産されれば、この世の誇り高き武将たちは全て、名もなき下民の指先で殺される時代が来る……!」
メイカクの目から、正気が完全に失われつつあった。
彼にとって、世界は「正しく美しい血脈を持つ者が、誇り高く力と剣で治める」べき場所である。ジンの存在は、その世界の根幹を食い破る最悪の疫病だった。
「もはや、政治や策で奴を止めることは不可能……。ソウガ様は、あの悪魔の兵器を喜んでお迎えになるだろう。そして、黎州は永遠に汚れ果てた修羅の国となる……」
メイカクはゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられた黎州の軍旗を見つめた。
その瞳の奥には、全てを浄化するための、冷たく澄み切った狂信の光が宿っていた。
「……私が、終わらせるしかない。この国を、白き王の神聖なる秩序に返すためには……毒の根源であるジンと、その毒を愛したソウガ様を、この手で同時に屠る以外に道はない」
筆頭家老メイカク。
古き良き秩序の守護者を自認する男は、ついに主君への明確な反逆を決意した。
枯野平原の勝利というジン隊の栄光が、皮肉にも黎州の心臓部を食い破る謀反の引き金を、完全に引き絞らせてしまったのである。
落日の炎が、音もなく王都の地下で燃え広がり始めていた。




