第20話 泥犬の狂宴と、鋼鉄を穿つ毒
黎州の西端、暴牙川の西岸に築かれた泥と木の要塞『一夜城』を中心とする巨大な街は、今や黎州本国の王都すら凌ぐほどの異様な熱気と膨張を続けていた。
かつて飢餓に苦しんでいた数万の難民たちは、今やジンが支払う黄金によって生活の基盤を取り戻し、黎州軍の末端を支える強大な労働者階級へと変貌している。さらにそこへ、黄牙連峰から引き下ろされた山岳民族『黒角衆』の屈強な戦士たちが合流したことで、街の土木建築と物理的な生産力は爆発的な飛躍を遂げていた。
「そこの組! 岩の切り出し角度が甘い! これでは城壁の土台の重量を支えきれん。やり直せ!」
竹竿を指揮棒のように振るうガクの冷徹な声が、朝霧の立ち込める採石場に響き渡る。
彼の指示を受けて動いているのは、獣の毛皮を腰に巻いた身の丈ほどの巨漢たち、黒角衆の工兵部隊である。普通の人間であれば数人がかりで運ぶ大岩を、彼らは一人で軽々と担ぎ上げ、ガクの描いた設計図通りに寸分違わず配置していく。彼らはかつて誇り高き山の戦士であったが、今ではジンから毎月支給される極上の海塩と白米の虜となり、この泥犬の街の建設に己の筋肉の全てを捧げていた。
「見事な統率力です。ゲホッ……ガクの持つ空間把握能力と、黒角衆の暴力的なまでの労働力が合わされば、数ヶ月でこの西国全体を巨大な一つの城塞に作り変えることも不可能ではないでしょう」
採石場を見下ろす丘の上で、分厚い毛布にすっぽりと包まったシオンが、薬湯の入った椀を両手で包み込みながら満足げに咳き込んだ。
その隣で、泥だらけの野良着姿のジンが、腕を組んで冷たい風を浴びていた。
「だが、城壁を高くしただけで勝てるほど、これからの戦は甘くねえぞ。軍師殿」
ジンは目を細め、遥か東の方角、黎州の王都がある空を睨みつけた。
「メイカクのオッサンが俺たちの監査に失敗して、手ぶらで役人を引き上げさせてからひと月が経つ。あの潔癖症のオッサンが、自分の誇りを泥で汚されたまま大人しく引き下がるわけがねえ。必ず、武力以外の『陰湿な毒』を仕込んでくるはずだ」
「ええ。法と監査で我々を潰せなかった以上、彼が次に打つ手は『外部の力』を利用した間接的な排除。……すなわち、代理戦争です」
シオンの冷ややかな分析に、ジンは鼻を鳴らした。
黎州の内部で直接ジンを討伐しようとすれば、それはソウガの不興を買う反逆行為となる。だからこそ、メイカクは外の敵をけしかけ、ジン隊が正規の軍事行動の中で『名誉の戦死』あるいは『無惨な全滅』を遂げるよう、盤面を操作してくるはずだった。
「その代理戦争に備えて、俺たちも新しい牙を研いでおく必要がある。……南の商人からの『荷物』は届いたか?」
「はい。昨夜、暴牙川を遡って秘密裏に陸揚げさせました。コウラン殿の監査を煙に巻くために使った『軍需物資としての仕入れ』という嘘を、そのまま真実に変えるための極上の代物です」
シオンの案内で、ジンは街の外れにある厳重に警備された倉庫へと向かった。
窓一つないその暗い倉庫の中には、南の海の密貿易商から莫大な黄金と引き換えに買い付けた、大量の木箱が積み上げられていた。
「開けてみろ、ゴウ」
ジンの命令で、巨大な鉄砕棒を背負った特攻隊長のゴウが、手斧で木箱の蓋を乱暴に叩き割った。
中から姿を現したのは、鈍い光を放つ黒鉄の塊と、太い獣の筋を編み込んだ弦で作られた、見たこともない形状の巨大な弓であった。通常の弓とは異なり、木製の台座の上に固定されており、弦を引くための歯車と手回しのハンドル(クランク)が取り付けられている。
「なんだこりゃ? 随分と不格好な弓じゃねえか。こんな重てえモン、戦場で持ち歩けるかよ」
ゴウが怪訝な顔をしてその黒鉄の弓を片手で持ち上げた。
「これは南の外界から流れてきた設計図をもとに、密貿易商の工房で作らせた『剛機弓』と呼ばれる代物です。ゲホッ、いわゆる機械仕掛けの強弩ですね」
シオンが青白い指先で、剛機弓の歯車を撫でた。
「通常の弓は、射手の腕力と長年の修練によって威力が決まります。武人の誇りたる由縁ですね。しかし、この剛機弓は違う。歯車とクランクの力を使うことで、子供や力のない老人であっても、熟練の猛将の三倍以上の張力で弦を引くことができるのです。……ゴウ、そこにある鉄の的を狙って撃ってみなさい」
ゴウは言われるがまま、台座のハンドルをギリギリと回して極太の弦を引き絞り、鉛の塊のような重い矢を番えた。
倉庫の奥には、敵の重装歩兵が身につける分厚い鉄の胸当てが、木の柱に括り付けられている。
「狙うって言ってもよ、俺は弓なんて気の小せえ武器は使ったことが……」
引き金の機構をゴウが無造作に引いた瞬間。
ドガァァァァンッ!!
爆発音のような凄まじい発射音と共に、空気を切り裂く衝撃波が倉庫内に巻き起こった。
放たれた太い矢は、肉眼で捉えることすら不可能な速度で空間を駆け抜け、奥に括り付けられていた分厚い鉄の胸当てを、背後の太い木の柱ごと完全に『貫通』し、さらにその後ろの土壁に深く突き刺さっていた。
「なっ……!?」
ゴウが目玉を飛び出させ、自分の手にある剛機弓と、粉砕された鉄の胸当てを交互に見比べた。
いかにゴウの馬鹿力であろうと、鉄の鎧を遠距離から紙切れのように貫通させることなど不可能である。
「す、すげえ……! なんだこの威力は! これなら、どんなに立派な鎧を着た大将首でも、一発で風穴が開くぞ!!」
ジンもまた、その圧倒的な破壊力を前に背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
これは、二百年続く乱世の『武の常識』を根底から覆す悪魔の兵器である。名将が幼い頃から血の滲むような修練を重ねて身につけた剣術や槍術が、この機械仕掛けの弓を持った素人の農民の指先一つで、無惨に粉砕されてしまうのだ。
「……恐ろしい兵器だ。だが、弱点もあるんでしょう? 軍師殿」
ジンが冷静に問うと、シオンは満足げに頷いた。
「御名答です。ゲホッ。威力が凄まじい分、弦を巻き上げるのに非常に時間がかかります。一発撃てば、次の矢を番えるまでに通常の弓兵が五本の矢を射掛けるだけの隙が生まれる。さらに重量があるため、機動戦には全く向きません。……そして何より、製造と整備に莫大な金と特殊な技術が必要です」
「なるほどな。綺麗なお上品な戦争をしてる連中には、使いこなせねえ代物ってわけだ」
ジンは木箱の山を見渡し、ニヤリと悪賢い笑みを浮かべた。
「だが、俺たち泥犬には関係ねえ。機動力がねえなら、ガクに作らせた鉄壁の防塞の中に引きこもって撃ちまくればいい。再装填に時間がかかるなら、三列の陣を組んで交代で撃ち続ければ隙は消える。……何より、金なら腐るほどあるからな」
武人の誇りも、一騎打ちの名誉も必要ない。
必要なのは、引き金を引くための指と、圧倒的な財力だけである。
ジン隊に集まった数万の難民や素人の兵士たちが、この剛機弓を持てば、いかなる精鋭の正規軍をも蜂の巣にする史上最悪の殺戮部隊が完成する。
「よし、シオン。南の商人にありったけの金を積んで、この剛機弓をかき集めろ。それと、黒角衆の連中にも取り扱いを叩き込め。あの馬鹿力なら、クランクを使わずに力任せに弦を引けるかもしれねえ」
ジンが新たな牙の感触に歓喜していたその時、倉庫の扉が勢いよく叩かれた。
外にいた警備の兵士が、顔を青ざめさせて転がり込んでくる。
「ジ、ジン千人将! 本陣のシュウスイ大将が、血相を変えてお見えです! 至急、軍議の幕へ向かっていただきたいと!」
ただならぬ気配に、ジンとシオンは顔を見合わせた。
ついに、メイカクの仕掛けた『毒』が回ってきたのだ。
一夜城の中央に設けられたシュウスイの大天幕は、かつてないほどの張り詰めた緊張感と、焦燥の空気に満ちていた。
ジンが天幕に入ると、シュウスイは広げられた巨大な広域地図の上に両手をつき、ギリッと奥歯を噛み鳴らしていた。
「……来たぞ、ジン。最悪の報せだ」
シュウスイの目は血走り、その声には明らかな怒りが孕んでいた。
「北の山脈を越えた先に領地を持つ、北方豪族連合……『北州』の軍勢三万が、突如として不可侵の盟約を破り、我が黎州の西国領へと南下を開始した」
「北州の三万だと……?」
ジンの表情が険しくなる。
北州は、寒冷な気候の中で鍛え上げられた強力な重装騎馬隊と、巨大な斧を振るう重装歩兵を主軸とする、大陸でも屈指の精鋭国家である。彼らはこれまで黎州と煌州の争いには中立を保っていたはずだった。
「なぜ急に北の連中が動いたんですか。あいつら、西国を攻めても得るものは少ないはずだ」
「大義名分は『黎州による西国の不当な支配からの解放』だそうだ。……だが、裏で糸を引いている者がいるのは明白だ」
シュウスイは拳を固く握り締め、地図のさらに東、黎州の王都を怒りと共に叩いた。
「メイカクの奴だ。俺の放っていた草(間者)の報告によれば、半月前、王都から北州の覇侯のもとへ、密使が莫大な貢物と共に送られたという。名目は北方の慰問だが、実態は『西国を攻め滅ぼせば、黎州本国は介入せず、そのまま西国の領土を北州に割譲する』という裏取引に決まっている」
「なるほど。ゲホッ……自分の手を汚さず、北の獣をけしかけて我々を食い殺させる気ですか。見事な盤面操作です」
シオンが口元を布で覆いながら、冷静に分析した。
「感心している場合か! 敵は重装騎馬を含む三万の精鋭だぞ! 対する我が西国の兵力は、俺の正規軍一万と、ジンの泥犬部隊を合わせても一万五千に満たない。平野でぶつかれば、あの重騎馬の突撃の前に一網打尽にされる!」
シュウスイの焦りはもっともであった。
圧倒的な質量と機動力を持つ重装騎馬隊は、平地において絶対的な最強の矛である。歩兵が主体である黎州軍がまともに激突すれば、文字通り蹂躙されて終わる。
「……王都のソウガ様には、救援の使者を出したんですか?」
ジンが静かに問うと、シュウスイは絶望的な表情で首を振った。
「出したが……途中の関所で全て止められている。メイカクの息のかかった役人どもが、『西国からの急使は疫病の疑いがあるため王都への立ち入りを禁ずる』などという理不尽な理由でな。……ソウガ様の耳には、北州の侵攻すら届いていないはずだ。我々は完全に、この西国に孤立させられた」
兵站を絶たれ、援軍の道を塞がれ、その上で二倍の兵力を持つ最強の敵をけしかけられる。
それは、政治という名の陰湿な刃が作り上げた、脱出不可能な完全なる『処刑場』であった。
シュウスイは深い溜息をつき、自らの大槍を見つめた。
「……ジン。俺が正規軍一万を率いて、北州の先陣を平野で迎え撃つ。俺の命と引き換えに敵の足を止めている間に、貴様は民を連れて暴牙川を越え、東へ逃げろ。そしてソウガ様に、メイカクの裏切りを直接伝えるのだ。……この西国は、一旦放棄するしかない」
武人としての誇りと、最大の戦友を生かすための決死の覚悟。
シュウスイのその悲壮な決断に、ジンは数秒間沈黙し……やがて、肩を揺らして低く笑い始めた。
「ククッ……ハハハハハ! 冗談きついぜ、大将。誰がこんな上等な飯場を捨てて逃げるってんですか」
「ジン! 貴様、状況が分かっているのか! 三万の重装騎馬隊だぞ! 貴様の小手先の泥沼や罠が通じる相手ではない!」
「分かってますよ。だからこそ、最高に面白いんじゃねえか」
ジンは地図の前に身を乗り出し、北州の軍勢が進行してくるルートである、広大な『枯野平原』を小刀の鞘でトンと叩いた。
「メイカクのオッサンは、俺たちが泥水啜るだけの小汚いネズミだと思い込んでる。北州の騎馬隊に蹴散らされて、無様に死ぬ絵を描いてるんだろう。……だったら、その綺麗な絵図面ごと、泥と硝煙で真っ黒に塗り潰してやろうじゃねえか」
ジンはシュウスイの目を見据え、その瞳の奥に宿る圧倒的な野心と殺意を曝け出した。
「大将。逃げる必要はねえ。俺の部隊を全て最前線に出させてください。正規軍はその後ろで、俺たちが取りこぼした残飯を片付けるだけで十分だ」
「貴様……本気で、泥犬部隊だけであの北の獣どもを迎え撃つというのか? 何の勝算があって……」
「勝算は、金と泥の中に山ほど転がってますよ」
ジンの背後で、シオンが不気味に咳き込み、ゴウが剛機弓の威力を思い出して凶悪に牙を剥いた。
武人の誇りも、名誉ある突撃も、全てを金と機械の暴力で粉砕する。
二百年続くアナログな乱世の歴史において、最も一方的で、最も残酷な『殺戮の陣』が、北の三万の軍勢を呑み込むべく、静かにその大口を開けようとしていた。
メイカクの冷たい悪意は、ジン隊を処刑するどころか、彼らを史上最悪の怪物へと完全羽化させる、最後の引き金を引いてしまったのである。




