第19話 白塩の包囲網と渇きの山嶺
黎州軍が西国平定の要として築き上げた一夜城とその周辺は、南の海から入り込む密貿易商たちの船によって、かつてないほどの活況を呈していた。
焼け野原だった平野には新田が拓かれ、労働の対価として支払われた黄金と銀貨が、市場に莫大な物資を還流させている。泥にまみれて生きるしかなかった難民たちは、今や家を持ち、家族を養い、ジン千人将という絶対的な雇い主のために狂信的なまでの忠誠を誓う巨大な労働力団へと変貌していた。
しかし、その泥と熱気に満ちた繁栄を、王都から冷ややかに見下ろす蛇の目があった。
筆頭家老メイカクである。
白銀の甲冑を磨き上げ、塵一つない王都の執務室で、彼は西国から届いた隠密の報告書を忌々しげに暖炉の火へと放り込んだ。炎が紙を舐め、黒い灰が舞い上がる。
「……南の海賊どもと結託し、独自の経済圏を確立しただと。あの草売りの増長、もはや看過できる次元を超えている」
メイカクは扇子で灰を払い、冷酷な目で壁に掛けられた巨大な領土地図を見つめた。
ジンの勢力拡大は、単なる一武将の武功という枠を完全に逸脱していた。本国からの兵站に頼らず、自力で数万の民を養い、富を蓄積している。これは実質的な独立国家の形成であり、黎州という美しいピラミッド型の秩序に対する最も危険な反逆行為に他ならない。
「ソウガ様は、あの男がもたらす目先の利益と武功に目を奪われ、その背後に潜む猛毒に気づいておられない。ならば、私が王都の権限を用いて、合法的にあの泥犬の手足を切り落とすまでだ」
メイカクは地図の一点、西国のさらに北に連なる険しい山岳地帯を扇子の先で叩いた。
そこは『黄牙連峰』と呼ばれる、旧煌州勢力すら手を出せなかった独立不羈の山岳民族、黒角衆の縄張りであった。彼らは山の獣のように獰猛で、地の利を生かしたゲリラ戦を得意とし、侵入する者の首を狩って祭壇に飾るという野蛮な風習を持っていた。
「黒角衆の討伐。……これを、西国統治の総仕上げとしてジン千人将に命ずる。期限はひと月。もしひと月以内に彼らを屈服させられねば、軍令違反ならびに西国統治の能力なしとして、千人将の地位を剥奪し、王都へ召喚する」
メイカクの唇が、三日月のようにつり上がった。
黒泥湿地帯の残党とは違い、黄牙連峰の黒角衆は数万の戦士を抱える巨大な武力集団である。しかも山岳地帯では、ジンの得意とする水攻めや、南の商人から買った火薬も十分な威力を発揮しない。
戦えば確実に泥犬部隊は多大な出血を強いられ、戦力が削られる。戦わずに逃げれば、それを口実にジンを処断できる。
武力と政治の双方から退路を断つ、見事な真綿での首絞めであった。
数日後、西国の一夜城にその過酷な討伐命令が届いた。
「……ふざけるなッ!!」
ジンの指揮所である天幕に、先陣大将シュウスイの怒号が響き渡った。彼は王都からの使者が置いていった木簡を、怒りに任せて叩き割らんばかりの勢いで握りしめている。
「黄牙連峰の黒角衆だと! あそこは急峻な岩山で、大軍の展開など不可能な死地だ! しかもひと月で平定しろなどと、完全に物理的限界を超えている! メイカクの奴、ついに露骨に貴様を潰しにかかってきやがった!」
激昂するシュウスイに対し、当のジンは胡座をかいたまま、冷静に割れた木簡の破片を見つめていた。
「まあ落ち着いてくだせえ、大将。王都のお偉いさんが、現場に無理難題を押し付けてくるのは今に始まったことじゃありませんよ。……それにしても、随分と手の込んだ嫌がらせだ。山岳民族を相手にひと月の期限付きとはな」
「ジン、俺からソウガ様に直接書状を送る! この命令はあまりにも理不尽だ、俺の正規軍を動かしてでも……」
「いけませんよ、シュウスイ大将」
天幕の奥から、ひきつけを起こしたような咳払いと共に、シオンが姿を現した。彼は夏が近づいているというのに、相変わらず分厚い毛布を羽織っている。
「ゲホッ。ソウガ様は実力主義の体現者。どのような理不尽な命令であれ、『できない』と泣きつけば、その瞬間にジン殿への評価は地に落ちます。メイカク殿はそれを狙っているのです。大将が動けば、大将ごとの政治的失脚を招きかねない」
「では、どうしろと言うのだ! あの獰猛な山猿どもを、ひと月でどうやって屈服させる!」
シュウスイの問いに対し、シオンは青白い顔に悪魔的な笑みを浮かべた。
「武力で山を登ろうとするから不可能に思えるのです。ゲホッ。彼らは山岳民族。山の中で自給自足の生活を営んでいますが、たった一つだけ、絶対に山では手に入らない『生命線』が存在します」
「……塩、だな」
ジンが呟くと、シオンは満足げに頷いた。
「御名答です。人間は、塩分が不足すれば筋肉が痙攣し、やがて動けなくなって死に至ります。特に、険しい山を駆け回る黒角衆のような戦士たちにとっては、大量の塩分補給が絶対不可欠。……彼らは、山の麓にある『白蛇の谷』と呼ばれる細い交易路を通じて、外部の岩塩を細々と買い付けて命を繋いでいるのです」
シオンは手元に広げた地図の、細い谷の入り口を指差した。
「ここを、我々で完全に封鎖します。ひと月の討伐期限? ゲホッ。とんでもない。塩を完全に断てば、彼らの屈強な肉体は、わずか十日で内部から崩壊し始めます。剣を交える必要すらありません。我々はただ、谷の入り口で座って待っていればいいのです」
そのあまりにも冷酷で、人間としての尊厳を内側から削り取るような策に、シュウスイは息を呑んだ。
白角城での兵糧攻めに続き、今度は塩攻め。それは武人の誇りある戦いとは対極にある、完全な『兵站の殺戮』であった。
「……またしても、そのような外法を用いるというのか。相手は誇り高き山の戦士だぞ」
「誇りで筋肉は動きませんよ、大将。それに、今回は誰も殺すつもりはありません。彼らの胃袋と筋肉を空っぽにして、俺たちの都合の良いように『買い取る』だけです」
ジンは立ち上がり、ニヤリと笑ってシュウスイの肩を叩いた。
「俺たち泥犬に、綺麗な戦争は似合いません。メイカクのオッサンがよこした無理難題、極上の嫌がらせで返してやりましょうや」
翌日。
黄牙連峰への生命線である『白蛇の谷』の入り口に、ガク率いる泥犬の工作部隊が到着した。
「……作業開始。谷の幅は狭い。落石の軌道を計算し、両側の崖に防壁を構築しろ。三日で完璧な関所を組み上げる」
ガクの冷徹な指示のもと、労働者と化した難民たちと泥犬兵士たちが、一糸乱れぬ動きで岩を運び、木を組み上げ始めた。彼らの土木技術は、西国の復興事業を経て、もはや黎州の正規工兵を遥かに凌駕する速度と精度を誇っていた。
わずか数日のうちに、白蛇の谷の入り口には、鉄壁の防塞が完成した。
それから数日が経過した頃。
山から塩の買い付けに降りてきた黒角衆の戦士たちは、見慣れぬ巨大な壁に道を塞がれていることに気づ愕然とした。
「なんだこの壁は!? 黎州の犬どもめ、我々の道を塞ぐ気か!」
「舐めるな! こんな木と石の壁、我らの力で叩き壊してやる!」
獣の皮を被り、巨大な手斧を持った山の戦士たちが、怒号と共に防塞へと突撃を仕掛けてきた。その数は数百。個々の戦闘能力は極めて高く、垂直に近い岩壁すらも猿のように身軽に登り始める。
「オラァッ!! 虫ケラどもが、勝手に俺たちの壁を登ってんじゃねえェェッ!!」
防壁の上から、巨大な鉄砕棒を振り回してゴウが飛び出した。
彼は登ってくる戦士たちの頭上目掛けて、容赦なく丸太や大岩を投げ落とし、城壁に取り付いた者を次々と叩き落としていく。
さらに、ガクが事前に仕掛けておいた罠が発動する。崖の途中に設置された竹の仕掛けから、刺激の強い泥水と唐辛子の粉末が噴射され、黒角衆の戦士たちは目を押さえて崖下へと転落していった。
「くそっ、卑怯な罠を! 一旦引け!」
黒角衆の突撃は、防壁を一枚も越えることなく、無惨に撃退された。
その後も彼らは夜襲や奇襲を幾度となく試みたが、シオンの完璧な防衛計画と、ガクの設計した要塞の前に、全てが徒労に終わった。
そして、十日が経過した。
山の中の黒角衆の集落は、深刻な危機に瀕していた。
備蓄していた岩塩が完全に底をつき、戦士たちの体に異変が表れ始めたのだ。
最初は激しい疲労感と頭痛。次第に手足の筋肉が痙攣を引き起こし、立って歩くことすら困難になる者が続出した。塩分という人体の必須要素を断たれたことによる、急性的なナトリウム欠乏症である。
「……族長。もう限界です。狩りに出た若い衆も、途中で足がつって動けなくなり、獣にやられました。このままでは、戦わずして集落の皆が死に絶えてしまいます」
族長である白髪の巨漢、バズウは、部下の悲痛な報告を聞き、ギリッと牙を噛み鳴らした。
黎州軍の卑劣な塩攻め。力で誇り高く戦うことしか知らない彼らにとって、これほど屈辱的で絶望的な殺され方はなかった。
「……降伏の使者を出すしかないのか。我ら山の誇りを、下界の泥犬どもに売り渡せというのか」
バズウが天を仰いで嘆いた、まさにその日の午後であった。
「頼もう! 黒角衆の族長殿はおるか!」
集落の入り口から、軽薄でよく通る声が響いた。
見張りの戦士たちが痙攣する足を引きずりながら槍を構えると、そこに立っていたのは、たった三人の男たちであった。
先頭に立つのは、麻の単衣姿で、背中に巨大な麻袋を背負ったジン。その後ろには、鉄砕棒を肩に担いだゴウと、無表情で竹竿を持つガクが控えている。
武装した軍隊ではなく、どう見てもただの行商人か旅人の出で立ちであった。
「貴様……黎州の将か! よくも我々の塩の道を塞ぎおって! ここでその首を狩ってくれる!」
見張りの戦士が手斧を振り上げようとしたが、腕の筋肉が激しく痙攣し、斧を取り落としてその場に崩れ落ちた。
「おいおい、無理すんな。塩が抜けて筋肉が悲鳴を上げてるじゃねえか。……族長さんよ、あんたらの命綱、俺が直々に運んで来てやったぜ」
ジンは背負っていた巨大な麻袋を、バズウの目の前にドサリと下ろした。
袋の口からこぼれ落ちたのは、太陽の光を反射してキラキラと輝く、純白の結晶。
山では絶対に手に入らない、南の海から密貿易で仕入れた極上の『海塩』であった。
「し、塩……! それも、これほど純度の高い海の塩だと!?」
バズウをはじめ、周囲の戦士たちの目が、餓狼のようにその白い粉に釘付けになった。本能が、それを舐めろと激しく訴えかけている。
「俺は黎州千人将、ジンだ。今日はあんたらに、商談をしに来た」
ジンは塩の山を手で掬い、バズウの前に差し出した。
「あんたらが黎州に降伏して、山の領地を明け渡すってんなら、この塩をくれてやる。だが、それだけじゃただの敗北だ。つまらねえだろう?」
ジンはニヤリと、悪魔のように笑った。
「俺の部隊は今、西国のあちこちでデカい土木工事をやってる。だが、平地育ちの俺たちじゃ、岩山を切り崩したり、険しい場所で作業するのには骨が折れてな。……あんたらみたいな、山の地形を知り尽くしてて、重い岩でも軽々と運べる屈強な連中が、喉から手が出るほど欲しいんだよ」
「……我々に、労働者になれと言うのか。山の誇りを捨てて、下界で石を運べと!」
バズウが怒りで顔を歪めたが、ジンは首を横に振った。
「誇りを捨てるんじゃねえ。誇りの『売り先』を変えるんだ。俺の部隊の専属の『山岳工兵』になってくれりゃあ、塩は一生食い放題にしてやる。それに加えて、あんたらの女子供が腹一杯食えるだけの米と肉も、毎月きっちり報酬として払ってやる。……王都の貴族様たちのために死ぬんじゃない。自分たちの家族を食わせるために、俺の金で働くんだ」
塩と食糧による完全な命の掌握。そして、奴隷としてではなく、高給の労働者としての雇用という破格の条件。
それは、誇り高き山の民の心を、武力ではなく経済と生存の本能で完全に絡め取る、ジンの絶対的な交渉術であった。
バズウは痙攣する拳を強く握り締め、やがて、深く、長い溜息を吐いた。
「……山の神よ、許し給え。我らは、生きねばならんのだ」
巨漢の族長は、ジンの前にゆっくりと膝をつき、その足元にある塩を一掴み取って、震える口へと運んだ。
「……ジン千人将。我ら黒角衆数万の命、お前に預けよう。我らの手足、存分にこき使うがいい」
「契約成立だ。ガク! ゴウ! 後ろの荷車に積んできた塩と飯を、全部こいつらに振る舞ってやれ!」
こうして、メイカクがひと月の泥沼の激戦を想定していた黄牙連峰の黒角衆は、ジン隊の犠牲者を一人も出すことなく、わずか半月で完全に無血開城し、黎州軍というよりは『ジンという個人の強大な経済圏』の一部として組み込まれたのである。
数日後。黎州の王都。
筆頭家老メイカクのもとに、西国からの報告書が届けられた。
そこには、ジンがひと月を待たずして黒角衆を平定したこと、しかも彼らを奴隷としてではなく、独自に給与を支払う『私兵かつ工兵部隊』としてジン隊の麾下に組み込んだことが、詳細に記されていた。
「……ッ!!」
メイカクは報告書を両手で引き裂き、怒りのあまり呼吸すら忘れてワナワナと震えた。
「奴は……ジンという男は、もはや黎州の将ではない! ソウガ様の威光を借りて、西国に独自の法と経済を持ち、数万の異民族の軍隊を私兵として抱え込んだ、完全なる『反逆者』だ!!」
メイカクの目に、ついに狂気の炎が明確に灯った。
ジンを抹殺しなければ、黎州の美しい秩序は完全に泥に沈む。だが、ソウガはジンの結果至上主義を容認し、彼を重用し続けている。
「……ソウガ様。貴方がその泥の毒に侵され、王としての道を踏み外されたというのであれば……私が、貴方をその玉座から引き摺り下ろし、この国を浄化するしかありません」
誰もいない白銀の執務室で、メイカクは自らの佩剣を引き抜き、その冷たい刃に映る己の顔をじっと見つめた。
西国の絶対的な安定と繁栄が完成したまさにその裏側で、黎州の全てを焼き尽くす本能寺の変――『落日の反逆』の計画が、ついにメイカクの狂気に満ちた頭脳の中で、静かに、そして完璧な形へと組み上げられようとしていた。




