幕間 泥犬の湯けむり騒動と白銀の受難
黎州軍が西国に築き上げた巨大な泥の街。その外れにある岩場で、鼓膜を破らんばかりの歓声と、天高く噴き上がる凄まじい水柱が上がっていた。
「オラァッ!! 出たぜ親父! 言われた通りに岩盤をぶち抜いたら、熱い泥水が噴き出してきたぞ!」
上半身裸になり、泥だらけの鉄砕棒を肩に担いだゴウが、泥水を頭から被りながら大声で笑っている。
その横で、ガクが竹竿の先に結びつけた温度計代わりの蝋の溶け具合を確認し、無表情のまま頷いた。
「地下深くの地熱で温められた水脈に当たったようだな。水質は泥と硫黄が混ざっているが、人体に害はない。いわゆる温泉というやつだ」
「でかしたぞ、お前ら! これで過酷な土木工事で疲れた労働者たちの肩の凝りも吹っ飛ぶってもんだ」
ジンは噴き出す熱水を前に、満足げに腕を組んだ。
西国の復興事業は順調に進んでいたが、労働者たちの疲労を抜くための娯楽や休息の場が不足していた。そこでジンが目をつけたのが、地形の特性を活かした「大露天風呂」の建設であった。
「ゲホッ、ゴホッ……。湯治は弱った内臓や肺の療養にも最適です。素晴らしい思いつきですね、ジン殿」
少し離れた安全な場所から、厚い毛布に包まったシオンが白湯を啜りながら賛同した。
「よし、さっそく岩を組んで巨大な湯船を作るぞ! 今日は俺たち泥犬部隊の貸し切りだ!」
ジンが号令を掛け、男たちが歓声を上げて岩を運び始めた、まさにその時である。
「ほう。泥水啜りのネズミどもが、今度は泥の湯に浸かって極楽気分か。悪くない」
地鳴りのような低い声と共に、岩場の入り口から巨大な影が姿を現した。
身の丈ほどの大剣を無造作に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべているのは、黎州覇侯ソウガその人であった。その後ろには、いつものように険しい顔をした先陣大将シュウスイが控えている。
「ソ、ソウガ様!? なんで王都にいるはずのアンタが西国に……」
ジンが目を丸くすると、シュウスイがため息まじりに答えた。
「西国の復興状況を視察するという名目で、突然王都を飛び出してこられたのだ。……そして、ご丁寧に『案内役』まで引き連れてな」
シュウスイが道を空けると、そこには、周囲の泥と硫黄の臭いにハンカチを当てて顔をしかめている、白銀の鎧を着た筆頭家老メイカクの姿があった。
「なんと汚らわしい。ただでさえ獣の臭いがする西国だというのに、地面から噴き出す泥水を喜んで浴びるなど、正気の沙汰とは思えん。ソウガ様、このような不潔な場所は一刻も早く立ち去るべきかと」
メイカクが心底嫌悪に満ちた声で進言したが、ソウガは全く意に介さなかった。
「馬鹿を言え。天下を統べる覇王たるもの、領地の泥の温度まで知っておかねばならん。俺も入るぞ。貴様ら、湯船の完成を急げ」
覇侯の絶対命令により、大露天風呂の建設は異常な速度で進められ、わずか一刻後には百人が同時に入れるほどの巨大な泥の温泉が完成した。
脱衣所として急造されたテントの中は、異様な空気に包まれていた。
ジンやゴウたち泥犬部隊がさっさと服を脱ぎ捨てる中、シュウスイは異常なまでに時間をかけて、自らの褌の結び目を厳格に調整している。
「大将、気合入りすぎですよ。ただの風呂っすよ」
「黙れジン! 武人たるもの、いかなる時も隙を見せてはならん! 褌の乱れは心の乱れだ!」
シュウスイは仁王立ちになり、全裸に白褌一丁という姿で真剣に説教を始めた。
一方、テントの隅で壁に張り付いているのはメイカクである。彼は鎧を脱ぐことすら拒否していた。
「私は入らん。絶対にだ。このような下民の垢が浮く泥水に浸かるなど、我が名門の血が穢れるわ!」
「メイカク。貴様、俺の覇道に同行できんと言うのか」
すでに腰に手ぬぐいを一枚巻いただけのソウガが、凄まじい威圧感を放ってメイカクを見下ろした。
「い、いえ、そういうわけでは……しかし、この泥は……」
「入れ。これは軍命だ。一分以内に素っ裸にならねば、その白銀の鎧ごと俺の大剣で唐竹割りにするぞ」
ソウガの理不尽極まりない脅迫の前に、誇り高き筆頭家老は屈辱に震えながら、涙目で鎧の紐を解き始めた。
数分後。
巨大な泥の露天風呂には、黎州の最高幹部たちと泥犬部隊が入り乱れる、カオスな空間が広がっていた。
「ヒャッハー! 温泉最高だぜェェッ!!」
ゴウが湯船の端から助走をつけてダイブし、凄まじい泥しぶきを上げる。
「ゴウ! 風呂場は身を清める神聖な場所だ! 泳ぐな! 潜るな! 湯船の縁に腰掛けるな!」
シュウスイが鬼の形相で湯の中から立ち上がり、ゴウの頭に鉄拳を落とす。風呂奉行と化した猛将の小言が、岩場にこだましている。
「ゲホッ……ゴホッ……極楽、ですね……」
シオンは湯船の隅で、頭に手ぬぐいを乗せたまま、完全にのぼせて白目を剥き、泥水の上にプカプカと仰向けに浮いていた。
「おい誰か! 軍師殿が死にかけてるぞ! 早く引き上げろ!」
ジンが慌てて指示を出し、兵士たちがシオンの救出に向かう。
そんな騒がしい連中から最も離れた湯船の端で、メイカクは膝を抱え、今にも泣き出しそうな顔で泥水に浸かっていた。
(ああ……私の美しい肌に、下劣な泥が染み込んでいく……。なぜ私が、このような屈辱を……)
「……親父。湯の温度が少し高すぎる。源泉からの流入量に対し、外気温の冷却が追いついていない」
ガクが風呂の縁で、真顔で計算式をぶつぶつと呟き始めた。
「急遽、冷水を引く竹筒を設置する。ゴウ、そこの巨大な竹をこっちへ運べ」
「おう! 任せとけ!」
ゴウが濡れた足で巨大な竹の束を担いで走り出した、その時である。
ツルッ。
「おっとぉ!?」
泥で滑ったゴウが派手にすっ転び、担いでいた巨大な竹の束が、宙を舞って湯船の中へ落下した。
そして、その竹の束が直撃した先は、源泉から最も近い場所にいたメイカクの頭上であった。
バッシャァァァァンッ!!
「ぐわぁぁぁぁっ!?」
巨大な水柱と共に、大量の熱い泥水と硫黄の塊が、メイカクの顔面と全身を容赦なく直撃した。
顔から泥を滴らせ、結い上げていた髪も解けてボロボロになった筆頭家老は、数秒間硬直した後、ついに限界を突破した。
「き、き、貴様らぁぁぁッ!!! 許さん! 許さんぞ下民どもォォッ!! このメイカクの誇りをここまで泥で汚すとは、もはや軍法会議ものだ!! 全員その首を刎ねてくれるわァァッ!!」
湯船の中で素っ裸のまま絶叫し、周囲の泥を両手でバシャバシャと撒き散らして発狂するメイカク。
そのあまりにも滑稽な姿に、ソウガは腹を抱えて大爆笑を始めた。
「ハハハハハハッ!! 良いぞメイカク! 貴様もついに泥犬の仲間入りだな! 存分に泥を啜れ!」
「ソウガ様まで! もう嫌だ、私は王都へ帰るゥゥッ!!」
泣き叫びながら湯船から這い上がろうとするメイカクと、それを捕まえて「まだ体が温まっておらんぞ!」と無理やり湯に引きずり込むシュウスイ。
のぼせて白目を剥いたまま浮いているシオンに、真顔で竹筒の再設置を続けるガク。
「……たく、戦場で槍振り回してる方が、よっぽど気が休まるぜ」
ジンは顔にかかった泥をぬぐいながら、肩まで湯に浸かり、呆れたようにため息をついた。
天下の覇権を争う血みどろの覇道の裏側で、彼ら黎州の将たちが素っ裸で泥を掛け合うこの光景は、嵐の前の僅かな平穏であり、二度と戻ることのない奇跡のような馬鹿騒ぎの夜であった。




